不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【映画】“海燕ホテル・ブルー”

2012-05-31 15:01:09 | 日記
 若松孝二監督の映画だから、ということで観に行った。シネマイーラ。観客5人。

 この映画、原作があった。船戸与一の小説(?)であった。

 一種の喜劇だな。

 男たち(登場人物の多くは荒くれ者)が謎の女性の謎の力に引き寄せられて、殺しあう。その殺しあいによりすべての男が消え去った後、残った謎の女が「愚か者~!!」と叫ぶのだ。

 最後の結末からすると、謎の女性は「観音さま」?観音像の前にいた謎の女が消えていった。

 男たちは、謎の女の手のひらで闘いあって死んでいく・・まさに「愚か者」。その通り、男は「愚か者」なのだ。

 映画のホームページが下記である。

http://www.wakamatsukoji.org/kaien/index.html

 「閉塞感」であろうがなかろうが、女を前にして、男たちは闘い死んでいくのだ。「愚か者」でいいのだ、男は。

 なお突然一人の男が、反原発をまくしたてる。さすが若松孝二監督。でもあまりに突然!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】宇沢弘文、内橋克人『始まっている未来』(岩波書店)

2012-05-30 19:36:46 | 日記
 経済を専攻している人にとっては必読の本である。学問というものは、何のためにやるのかという問いから離れられない。

 残念ながら、いま教えられている経済学の多くは、新自由主義経済学だろうと思う。しかし、その新自由主義経済学は、人間にとって金儲けこそが重大関心事であり、金儲けが出来るように規制をなくして、他者のことなんか考えずに、しゃにむに金儲けに走ることが慫慂されるというものだ。

 その学派のトップであった、フリードマンは、経済学の中身も、本人自身もそういう人間であった。

 そういう同じ種類の人間がフリードマンのところに行き(類は友を呼ぶ!)、新自由主義経済学を学び、彼らがアメリカはもとより中南米、イギリス、そして日本の政治権力と結びつき、悪の限りを尽くしている。

 この本は、そういう人間が具体的に説明されている。著者の一人宇沢氏は、フリードマンと同じシカゴ大学にいて、その人物の人品骨柄の醜悪さを間近で見ている。

 では、新自由主義経済学でない経済学は可能か・・・というと、それは可能であると著者は語っている。同時に、現実のどういうところに着目しながら学ぶべきなのかも指し示している。

 とても良い本だ。『世界』に連載したものだが、何度も読む価値がある本だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】松島泰勝『琉球独立への道』(法律文化社)

2012-05-25 20:22:26 | 日記
 『世界』今月号の沖縄特集の最初に新川明氏の文があり、そこにこの本が紹介されていた。内容は、沖縄、すなわち琉球が国家として独立する必然性、その行程、そしてどういう国家にするのかを、丁寧に論理的に指し示している。

 私は、第一章「琉球コロニアリズムの歴史」に圧倒された。沖縄を、根本から日本国家の一部として把握しようとすると、なにゆえに沖縄に米軍基地が集中し、沖縄民衆が苦難を強いられていても政府は何の努力もしないでひたすらカネを投入するのかが見えない。しかし日米の植民地として把握すると、なるほど日米両政府の沖縄支配の本質が見えてくる。沖縄は、まさに植民地なのだ。
1609年の薩摩藩による武力侵攻、1879年の琉球処分、そして戦時下で「捨て石」とされ、その後は米軍による占領、さらには1972年の「復帰」後も何も変わらない、本土からの資本が入り込んで沖縄の自然を破壊し、観光産業を興し、そしてその利益は「本土」へと向かい、さらに政府による投巨大な投資も「本土」資本に支払われる。
 日本に「復帰」しても何もいいことはない。失業率も、県民所得も最悪の数字が並び続ける。

 それはなぜなのか。そこに「コロニアリズム」がある。大変説得的であり、その後、太平洋の島嶼部における独立の経験などを子細に調べ、国際法のあり方も渉猟し、琉球独立に向けてひた走る、その論理の運びに寸鉄の狂いもない。

 私は、琉球はこの日本から独立すべきである、と思う。この日本に住む私から見ると、琉球は「独立」という手段をもってこの日本国から離れることが可能であるがゆえに、うらやましさを感じた。その先には未来があるからだ。

 残念ながら、今の日本には未来はない。

 最近購入する本にはできるだけ書き込みをしないで、読み終わったら古本として売ろうというさもしい考えを持っているが、この本は線を引いたり書き込みをした。しっかり持っているべき本とした。

 琉球の過去と、現在と、未来を描いた本だ。そしてきわめて説得的である。


 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「戦後差別の諸相」

2012-05-24 09:01:17 | 日記
 「戦後差別の諸相」というテーマの研究報告を先週末聞いた。ただ途中からの参加のため、最初の部分を聴くことが出来なかった。全体としてまだ十分に練り上げられたものではなく、研究途上の報告のような気がした。

 問題意識として、「差別の諸相から戦後日本社会の総体を見る」ということのようだ。私は、このような問題意識からこのテーマを追究するなら、沖縄に対する差別を正確に認識することが重要だろうと思う。

 報告者の黒川みどり氏は、被差別の研究者であり、その方面では多くの著書を出している。したがって、その焦点は戦後における被差別への差別となる。

 私は、このブログでも何度か書いてきたが、差別についてこう考えてきた。差別は個人個人の日常生活の中で現れては消え、消えては現れるものであること、しかしその差別が社会のなかに、ある意味「普遍的に」(あくまでも一般的に考えるのであって、すべての人々が差別するわけではない)存在する場合を「社会的差別」とし、その「社会的差別」は必ず背後に行政などの公的機関による制度的差別が存在している、と。したがって、「社会的差別」を解消するためには、まずもって制度的差別をなくしていかなければならないと考えている。もちろん制度的差別がなくなってもすぐに「社会的差別」が消えていくわけではない。それは一定の時期まで残滓として残り続ける。

 そうなると、被差別に対する差別はどうだろうか。私は、すでに制度的差別はなくなっていると解釈している。あとはその残滓をどのように解消していくかという問題であるのではないか。

 被差別は前近代から引き続いて存在するがゆえに、近代社会に存在するそれをどう考えたらよいか、いろいろ論争が続いてきた。封建的な遺制であるとか・・・・

 しかし、近代社会になって封建的な諸制度がなくなるかというと、そうではなく、支配システムに利用できるものは利用されるのであって、この場合は近代社会にとっての差別の一つとして考えるべきなのである。近代社会における差別とは何か、という問いである。

 さて、近代における差別は、被差別に対するそれだけではない。アイヌや琉球の人々、在日朝鮮人、ハンセン病者、障害者、貧困者・・・・、差別の眼差しは多様な存在に向けられる。

 これらの差別をどう考えるか。

 最近私は、日本近代は初発から「帝国」であった、と考えている。詳細は省くが、19世紀の国民国家の立ち上げは同時に「帝国」の立ち上げである、と。

 日本近代は、その初発から台湾に出兵し、さらに朝鮮にも挑発して開国させるなど、当初から侵略的に対外関係をつくってきた。また当時の為政者はもちろん、自由民権運動の運動家も「国権意識」=「帝国意識」をもって、東アジア周辺の動向を注視していた(もちろん例外はいる)。

 「帝国」は、対外的には膨張主義的に侵略行為を展開し、階層的な支配秩序をつくっていった。コロニアリズム、である。そして国内でも、階層的な支配秩序を形成し、差別の対象となるものをそのなかに組み入れていった。

 従って、差別の問題を「帝国」とコロニアリズムの問題として捉えていった方が理解はしやすいのではないかと思う。

 日本近代はその初発から1945年までを、「近代日本帝国」とし、1945年以降を「現代日本帝国」とする、したがって、差別を「帝国」の問題として考えていくのである。

 そういう視点を、今考えている。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日のコラム(『中日新聞』)

2012-05-20 19:53:23 | 日記
 今日の朝刊のコラムに、心を揺さぶられた。

 内容も深く、また名文である。

強い風が体を揺さぶる。遠くに与論島が見える。沖縄本島最北端の辺戸岬。復帰前、最も国境に近い場所だった。篝火(かがりび)をたき、復帰運動を支援する与論島の火と呼応した。双方から船を出す海上の集会も開かれた。

▼本土復帰四十年の日、その岬に立った。<吹き渡る風の音に 耳を傾けよ/権力に抗し 復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ/打ち寄せる 波濤(はとう)の響きを聞け/戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫(おたけ)びだ>。祖国復帰闘争碑の碑文に胸を揺さぶられた。

▼碑文は、こんな言葉が続く。<祖国復帰は実現した/しかし県民の平和への願いは叶(かな)えられず/日米国家権力の恣意(しい)のまま 軍事強化に逆用された>。復帰から四年後に建てられた碑に込められたのは、憧れた憲法の下でも変わらぬ現実への憤りだった。

▼日米安保条約の下で沖縄が押し付けられた犠牲は、沖縄以外のメディアやほとんどの国民の無関心によって強化された。八年前に起きた米軍のヘリコプター事故を思い出してほしい。

▼本土の主要な新聞は、沖縄国際大に普天間飛行場所属のヘリが墜落、炎上したニュースより、スカウトが大学生に現金を渡していた問題で、巨人のオーナーが辞任したことを何倍もの大きさで報じた。

▼復帰四十年が過ぎれば本土のメディアはまた沖縄を忘れる、と地元紙記者に言われた。反論の言葉を今も探している。



 昔々、こういう深い内容を持った名文は、『朝日新聞』の独壇場であった。今や見る影もない。

 『中日新聞』は、社説、コラム、そして「特報」・・・読み応えのある記事が多い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪質業者の跳梁

2012-05-18 22:09:39 | 日記
 これは『読売新聞』の記事。前々から、福島県産の米を「○○県産」と表示して販売していることは一部に知られていたが、これほど悪質なものはなかった。

 内部被曝を避けるために、米などの食品は注意しなければならない。こういう状態はまだまだ続く。

新潟コシヒカリ100%を偽装、福島米混合か

 新潟県警新潟東署などは17日、県産コシヒカリ100%と偽ってブレンド米を販売した大阪府の米穀店経営者ら3人を不正競争防止法違反(偽装表示販売)容疑で逮捕した。

 捜査関係者によると、店の記録から福島県産米を大量に仕入れていたことが分かっており、県警は、原発事故の影響で価格が下落した福島県産米を混ぜ、利益を得ようとしていた可能性もあるとみて、動機やコメの入手経路を調べている。

 逮捕されたのは大阪府藤井寺市藤ヶ丘、「松井米穀店」経営、松井義幸(57)と同市古室、同店従業員で長男の敬介(29)、同松原市天美南、同店従業員中本友一(56)の3容疑者。

 発表によると、3人は共謀して今年3~4月、ブレンド米を「新潟県産コシヒカリ」「単一原料米」などと偽装表示した袋に入れ、インターネットを通じて5都県の男女5人に計50キロを計約2万6000円で販売した疑い。

 捜査関係者によると、義幸容疑者らは店頭販売では偽装表示のコメを販売していなかったといい、インターネットで売る分だけ偽装販売していたとみられる。同店のホームページには「新潟県産100%コシヒカリすべてを十全に備えた珠玉のお米」などと記載されていた。

 コメ袋は自社でデザインし、大阪府内の業者に製造を依頼。店の記録では、福島県産の「はえぬき」を大量に仕入れており、県警は、義幸容疑者らが原発事故の風評被害で価格が下落したコメを安く仕入れていたとみている。

 調べに対し、義幸容疑者は「不正の目的は知らない」、敬介容疑者は「配合はよく知らなかった」、中本容疑者は「社長の指示で配合した」と話しているという。

 県は2009年度から、県産コシヒカリのブランドを守るため、全国で販売されている県産米のDNA検査を実施。昨年8~9月に今回摘発された店を検査したところ、20粒中12粒がコシヒカリ以外だった。

 県食品・流通課は「悪質性が極めて高い」と判断。4月に刑事告発に踏み切っていた。同課は「悪質な業者の逮捕は当然の結果。引き続き告発も視野に調査を行い、県産米の信頼確保に取り組みたい」としている。

(2012年5月18日15時35分 読売新聞)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原子力発電は、カネまみれ

2012-05-18 22:03:53 | 日記
 原子力発電は、行政にも、住民にも、ある種の麻薬だ。原発が本来的に重大な危険をはらんでいることから、その危険性をごまかすために、カネをばらまく。原発立地の自治体にはもちろん、その周辺の自治体、さらに住民にもカネをばらまく。

 原発は危険であるだけでなく、行政や住民の倫理観を麻痺させる。

 次は、『中日新聞』の「静岡県、中部電に交付金肩代わり要求」という記事だ。

静岡県が2009~11年度に中部電力から受け取った寄付金について、浜岡原発(御前崎市)1、2号機の廃止で打ち切られた国の交付金の金額を示して中部電に“肩代わり”を求めていたことが18日、分かった。法律の専門家は「寄付の割り当てや強制徴収を禁じた地方財政法に違反する可能性が高い」と指摘している。

 違法の疑いがあるのは、09~11年度の計約16億3千万円。県情報公開条例に基づく共同通信の開示請求で、寄付を要求した文書が明らかになった。

 寄付の割り当てなどに罰則はない。県は「コメントはない」としているが、中部電側は「寄付額は県の意向に沿ったもの」としている。



 たかりの構造である。こういう静岡県に住んでいることに恥ずかしさを感じる。このカネ、結局電気料金になり、私たちが支払うことになる。

 こういう反倫理的な原発は、やはりなくさなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄

2012-05-16 08:53:21 | 日記
 昨日が沖縄の日本「復帰」40年ということで、今日の新聞の一面にはその記事がある。私は『中日新聞』を購読しているが、それをもとに記していく。

 1972年の「本土復帰」を前にして、沖縄で「復帰」にかんする議論が行われていた。その中に「反復帰論」があった。その中心にいた新川明氏はもう80歳になる。しかしその「反復帰論」は、その頃以上に生命力を持ち始めている。

 沖縄は、かつて「琉球王国」であった。17世紀初め、薩摩藩が武力を持って侵略し従属化に置いた。そして維新後、これもまた武力を背景に“琉球処分”をおこなって「沖縄県」を置き、差別的な支配を行った。植民地的な支配であった。

 日本は、江戸幕府の時代から、琉球に対して武力によって支配下に置き、従属させてきた。アジア太平洋戦争末期、激しい地上戦を経てアメリカ軍に占領され、日本から切り離された。それが1972年、日本に「復帰」したのだ。アメリカ軍による軍政の下、人権が蹂躙され、戦争に直結した沖縄の現状から脱出しようと、沖縄の民衆は日本国憲法のもとに「復帰」しようと運動を行った。

 しかし新川氏らは、それに疑問を抱いた。日本国憲法の平和主義は、沖縄に米軍基地を置いておくことを担保にしてつくられたもので、日本に復帰すれば・・・・という願望は成り立たない、と。

 現状は、新川氏らの主張通りであった。日本に「復帰」して何が変わったか、静岡・沖縄県人会長は、変わったのは「通貨ぐらい」という。

 「日本への復帰は何だったのか」という疑問が大きくなっている。

 『世界』(岩波書店)6月号は、「沖縄「復帰」とは何だったか」という特集を組んでいる。巻頭は新川氏の文だ。「復帰」を「再併合」と捉えることで、日本国による沖縄への構造的差別の根源が透視できるというのだ。

 また前泊博盛氏の「40年にわたる政府の沖縄振興は何をもたらしたか」は、日本からのカネがほとんど沖縄経済の振興に貢献してこなかったこと、米軍基地の存在が沖縄に大きな損失をつくり出していることを指摘する。ここでも「復帰」に対する疑問をあげている。

 日本に住んでいて、日本は決してよい国ではないと私も思う。井上ひさしの『吉里吉里人』のように“独立”を志向するほうがベターではないかと考えるのは、自然ではないかと思うようになっている。

 植民地主義は今も続いているのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【映画】痛み(韓国映画)

2012-05-08 19:56:39 | 日記
 今日午後、公的な大会に出席した。開会から45分間、ボクの大嫌いな「来賓挨拶」と「表彰」で、ぐったり。

 その後の講演会も、行政責任をまったく考えない話で、公的な大会にはこういう人しか呼ばないのだろうなと思った。でも、聴衆には受けていた。

 あなたがコンビニの店長だとします。知り合いのAさんが2、3日何も食べないでいます。あなたは売り物のコンビニ弁当をあげますか、という質問。私はあげますと挙手をした。では同じような状況のBさんが来ました。あなたは弁当をあげますか?私はあげますに賛成した。

 その後講師はこうしてCさん、Dさん・・・・・・となると、コンビニはつぶれますね、などという。

 アホか。私は当座の「飢え」をなくすために弁当はあげるが、その際には行政に連絡をして、こういう人の生存権を保障すべきだと自治体に言う。

 最近、国や自治体が社会保障からどんどん手を引き、つまり生存権保障の具体的な施策を放棄するような制度がつぎつぎとつくられている。

 この話も、国や自治体の責任をまったく指摘しないですまそうとしていた。私は、こういう行政の姿勢の後押しをするような話を聞いて、一人怒りを覚えていた。「税と社会保障の一体改革」とは、行政は何もしないで、普通の人々にこのようにやらせようというものだ。これを「共助」というのだそうだ。「共助」の必要性をまったく否定するわけではないが、行政の責任による「公助」こそが基本でなければならないのだ。

 さて頭に来たので、帰りにシネマ・イーラにより、韓国映画の「痛み」を見た。つらい映画であった。見ていたのはたった二人。後ろのほうにいた人は、最後のあたりで落涙していたようだ。ボクは泣かなかった。我慢したのだ。

 家族を交通事故でなくした男性、ショックで痛覚などを失ってしまった。無痛覚という「特技」をつかった肉体労働に従事。もう一人の女性は、血友病。両親もそれで亡くなっている。おいおい、そういう幸せに背を向けられた人を出すなよ!と言いたくなる。

 その二人が出会い、そして愛するようになる。今まで不幸だったのだから、幸せにしてくれよとボクは必死に祈りながらその後を見続けたのだ。でも幸せはほんの一時。女性は、健康な人とめぐり会って、などという。彼女の病は徐々に薬の効かない身体になっていく。延命のためには高額の薬が必要だ、男性は身体をはって、そのカネをつくろうとする。だが、その前には、死が口を開けて待っていた。ばかやろう、なんでハッピーエンドにしないんだ!!!とボクは、ここでも怒った。

 こういう非情なストーリーはやめてほしい!!

http://www.itami-movie.com/

 ボクが見続けた長時間の韓国ドラマの『砂時計』(TSUTAYAで借りた)と感じが似ていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大阪のこと

2012-05-05 10:14:07 | 日記
 今、大阪が話題である。テレビに出ることによってタレントと化した一弁護士が、あれよあれよというまに知事になり、さらに自らは市長となって側近の部下を府知事にする。そして国政にも影響力を与える。

 この事態は、テレビというのがいかに大きな力を発揮するかということの証左である。我が家では、くだらない内容ばかりなので、ほとんどテレビはつけないが、しかし一般的にはテレビは多くの人々の視線を集めている。テレビの力の大きさに、唖然とするしかない。タレント業、あるいは「お笑い」と政治とは分野は全く異なるが、テレビに出ているだけで名前と顔を売り、そして政界に出ていく。テレビ出演は政界への登竜門となっている。

 さてその大阪であるが、『現代思想』今月号が特集を組んでいる。昨日送られてきてほとんどを読んだが、力作が少ないように見受けられた。

 もっとも衝撃を受けたのが、釜ヶ崎のことを書いた生田武志の「釜ヶ崎と「西成特区構想」」である。釜ヶ崎では2007年に暴動が起きたそうだが、私は知らなかった。マスコミもほとんど取り上げなかったようだ。それについて生田は、『現代思想』がパリやチベットで暴動が起きると臨時増刊号を発行しているが、大阪・釜ヶ崎で暴動が起きてもとりあげないという情況を指摘しているが、その指摘は重い。

 森政稔の「独裁の誘惑」も刺激的である。私は政治学者の山口二郎の学問をまったく認めていないが、彼をはじめとした改革政治学者たちの詰めの甘さに辟易しているが、森はそれを学問的に指摘している。また丸山眞男が、主観的な意図はともかく、シュミットに傾倒していたことも教えられた。現在のありようを政治学・政治思想から捉えた重厚な論文である。

 もう一つ、長尾謙吉の「経済的地盤沈下と大阪都構想」からは、経済政策・産業政策の点での成長産業偏重に問題があることに気付かされた。

 大内裕和の「大阪教育行政2011~2012」は、橋下の大阪教育改革の動きや問題点を教える。橋下のもとで、条例をまとめた大阪市教育委員会について、橋下の改革を担うものと見るか、それとも志水宏吉の一種の抵抗と見るか(『検証 大阪の教育改革』岩波ブックレット)は、今後起こってくる事態により証明されるだろう。

 中沢新一の文は、毒にも薬にもならないものだが、『現代思想』にはあわない文だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書)

2012-05-03 22:15:33 | 日記
 この本も発売と同時に購入した本。発売は2005年。

 購入して読んでない本がたくさんある。「読まない本は捨てろ」という声が聞こえてくるが、これがなかなかできない。まったく不必要になった本は、アマゾンを経由して古本として販売している。今までは古紙と共に捨てていたが、捨ててしまうのはもったいないと思い、売り始めた。少しでも関心を持った人に渡れば本も無駄にはならないだろう。もちろん買った値段よりかなり安くして、郵送料をいれるとマイナスの場合もあるが、売っている。

 さてこの本であるが、ポストコロニアリズムは、植民地支配は完全に消えているわけではなく、ポスト植民地主義といっても、過去の植民地支配がどのように現在に刻印されているか、あるいはかたちを変えた植民地主義はどういう状態であるかを探る学問である。

 これについては私も何度か書いてきている。この本の第六章、「日本」にとってポストコロニアリズムとは何か、に記されていることと同様の内容が、私も以前書いていることに驚いた。おなじような問題意識をもつと同じようなことを考えるものなんだと自分に感心した次第。

 ここには、ポストコロニアリズムという学を牽引してきた、フランツ・ファノン、サイード、スピヴァクという人々の学問の内容が紹介されている。この三人の内、ファノンとサイードについては私も読んできているが、スピヴァクについては『サバルタンは語ることができるか』(みすず書房)以外は読んだことがなかった。しかしその他の本も刺激的な内容で、彼女の研究と実践の方法は、私にも大いに参考になる考え方であることがわかった。

 とくにunlearnという概念が、田中正造の谷中学とも通底するものではないかと思い、これはスピヴァクの本をもっと読まなければならないと思った。その意味は、英英辞典ではこうなる。

to try to forget (something learnt) or to discard (accumulated knowledge)

 本橋氏は「学び捨てる」と英英辞典の後者の訳(蓄積された知識を捨てる)を採用しているが、
私は、前者の学んだものを忘れようと試みることのほうが良いのではないかとおもう。なぜなら試みても、それはできないからだ。出来ないけれども、学んできたものを忘れようと試みる中で、学んできたものを自らのあたまで学びなおす、そういうことなんんだろうと勝手に思い込んだのである。これはスピヴァクを読んでみないと何とも言えないが。
 いずれにしても、魅力ある学者である。

 植民地支配の問題は、決して過去の問題ではなく、現在のこととして考えるべきものだ。それを考える上で、参考になる本だ。巻末の参考文献は、読みたい本が並んでいる。より知的好奇心をかき立ててくれる本が良い本なのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【本】加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)

2012-05-02 21:53:16 | 日記
 発売と同時に買った本だ。発売は2009年。ずっと本棚に並んでいた。今日は雨、「晴耕雨読」の日々を送っている私としては本を読むしかない。

 実は、静岡県の社会運動について原稿を書き上げなければならないのだが、どうも筆が進まない。そこで傍らにあったこの本を読み始めた。

 近代史、特に近代日本の戦争に関わっての史実を、高校生に語っていくというものだが、しかし内容的にはなかなか難しいだろうと思う。

 この本の面白いのが、外交資料などをつかって、多面的に戦争を検討していることだろう。戦争に関する本はたくさん読んできているが、実はこの本で教えられたことがたくさんある。もっと早くから読んでおくべきだったと後悔している。

 近代史関係の本に書かれる史実については、だいたい定石というものがある。ところが本書はそれにこだわらない。また従来知られていた事実についても、異なった視点や史料から説明を加えている。だからとても新鮮だ。

 したがって一回読んだだけでは、この本に書かれている内容を咀嚼できないだろうと思った。

 本来なら内容について具体的に紹介するべきなのだが、いまだ私自身が持っていた知識と、本書で示された知識とを結合させられないでいる。しばらくして、結合できたときに、余裕があったら紹介したい。

 テーマは取っつきやすいが、内容的にはなかなかである。でも読む価値はある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政府は国民を守らない

2012-05-02 10:38:24 | 日記
 福島原発事故でも明確に示されたように、行政は国民の生命や健康をいっこうに守ろうとしないことが明瞭になっている。今回のバス事故についても、以下の「読売新聞」記事にあるように、国土交通省はすべきことをしてこなかった。行政の責任は重い。


ツアーバス問題点通知の勧告、国交省が放置

 関越自動車道の事故で問題が指摘されているツアーバスについて、国土交通省が約1年半前に、旅行業者を指導する観光庁に対し、問題点の通知を徹底するよう総務省から勧告されながら、通知を一度も行っていなかったことが1日、わかった。

 総務省は「事業者への監視が甘い」としている。

 ツアーバスを運行する貸し切りバス事業者は、道路運送法に基づく規制を受ける一方、ツアーを企画する旅行業者は同法の規制を受けず、指導・監督は旅行業法に基づいて観光庁が行う。

 旅行業者からの無理な要求を断れなかったバス事業者が、運転手に最長乗務時間を守らせないなど法令に違反する恐れがあるとして、国交省は2008年10月、法令違反に旅行業者の関与が疑われる場合は、観光庁に通知する制度を整えた。

 さらに、総務省は10年9月の行政評価で、国交省から観光庁への通知や、旅行業者の指導を徹底するよう勧告。総務省の調査では、バス事業者から「旅行業者の計画や契約内容では、速度違反や運転手の最長乗務時間違反をせざるを得ない」といった声が出るなど、旅行業者側の問題が複数発覚したという。

 国交省はこれまで、「ツアー計画と法令違反の関連を立証するのが困難」として、観光庁への通知を一度も行っていなかった。総務省は「こちらの調査では疑わしいケースが見つかっている。厳しくチェックすれば見抜けるはず」としている。

(2012年5月2日07時22分 読売新聞)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「規制緩和」の大罪

2012-05-02 10:27:57 | 日記
 アングロサクソン=英米発の新自由主義。企業がカネを儲ける領域をどんどん広げることが、新自由主義の中身だ。

 自治体が行っている「指定管理者制度」、「民間委託」も同様だ。「官民協働」というものの中身の「民」は企業であって、政府・自治体はこぞって民間企業にもうけ口を提供している。

 下は「東京新聞」の記事である。この記事にもあるように、2000年からの「規制緩和」により、この事業に新規参入が広がり、弱小企業が族生している。浜松市でも聞いたことのないバス会社が運行しているはずだ。新規参入の増加→価格競争→運転手(労働者)の労働条件の悪化→事故多発、これについては、「規制緩和」されたときから指摘されてきたことだ。実際事故も起きているのに、国土交通省は手を打ってこなかった。行政の責任は大きいはずだ。

 今回の事故は、新自由主義が引き起こしたものともいえる。人々が安心して生活できるようになるためには、新自由主義と闘うしかない。
 
「9日連続乗務 常態化も」 ツアーバス運転手ら訴え

 群馬県藤岡市の関越自動車道で乗客七人が死亡、三十八人が重軽傷を負った高速ツアーバス事故を、同じ仕組みのバスに乗務する運転手らは切実な思いで受け止めた。「旅行会社主導で、しわ寄せはすべて現場に来る」。ツアーバスの乗降場で聞くと、あえぐように苦境を訴える声が聞こえてきた。

 「規制緩和でバス会社が急増し、価格競争が激しくなった。どこも長距離運転は二人から一人になった」

 東京・新宿駅近くで一日夜、ツアーバスから降りてきた男性添乗員(53)は、そばで見る運転手の過酷な労働環境を説明した。

 「運転手から八日、九日連続乗務なんて当たり前のように聞く。ただ、今日の運転手が、群馬の事故後に会社から『勤務体制を見直す』という連絡があったと話していた。ようやく業界内で見直されるかも」と続けた。

 添乗員によると、運転手が運転中、うとうとする姿を何度も目にしてきた。そういう場合は声を掛けているが「時間通りに目的地に着かないといけないから、運転手は決められた休憩所以外で休もうとは絶対にしない」。

 ツアーバスは、二〇〇〇年以降の規制緩和をきっかけに新規参入が相次いだ。国土交通省によると、ツアーバスを運行する貸し切りバスの事業者数は、同年末の二千八百六十四社から十年間で四千四百九十二社に増えた。中には事故を起こしたバスのように、旅行会社が旅程を決め、貸し切りバス会社に運行を委託する仕組みのものも含まれている。

 観光バス会社に勤務していた元バス運転手の男性(51)は、今回の事故で、千葉県市原市から広島市までの約九百キロを一人で往復した経験を思い起こした。

 「岡山辺りで疲労が限界になり、ふらふらになり意識が落ちた。『これは危ない』と思った」。幸い近くにサービスエリアがあり添乗員に限界だと告げて一時間仮眠。乗客には「時間調整」だと説明してもらった。朝、広島に着いた後も、そのまま夕方まで観光バスを運転した。「大手だと五百キロを超えると二人の運転手で交代していた。特に夜行で一人は無理。一人では四百キロが限界ではないか」と話す。

 「価格競争で安い値で旅行会社から引き受けるため、交代要員が置けないこともあるのでは」

 一方、長距離路線バス会社の男性運転手(41)は「うちは勤務シフトがしっかりと組まれているから、睡眠も休みもしっかり取れる」と話した。

 最も厳しい乗務は月一回、約四百キロを一人で運転する夜行バスだという。「その時は確かに眠くもなる。一日上限六百七十キロなんて信じられない」と国の現行指針に批判的だ。

(東京新聞)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする