浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

今日

2018-06-30 22:39:00 | その他
 今日は静岡へ。内田博文九州大学名誉教授の講演を聴いた。『治安維持法と共謀罪』(岩波新書)の著者である。ここ数年、内田教授は『刑法と戦争』、『治安維持法の教訓』(いずれもみすず書房)を刊行されている。

 今日の演題は、「横浜事件と海野普吉と治安維持法の時代」であった。90分余り、約150人の聴衆は喰いいるように聴いていた。

 たいへんまとまりのある、すばらしい講演であった。

 最初に、治安維持法の悪法性を具体的に縷々説明され、刑法にはなく、しかし治安維持法から始められたことが、戦後の刑事訴訟法制のなかに組み込まれていることなどが話された。1925年、1928年、1941年と治安維持法は強化変質し、個人主義・自由主義・民主主義という「欧米的な思考」をもつことを禁止され、最後には、考えることが抑圧され、家庭生活そのものが懲罰の対象とされた。もちろん話の内容はもっと詳細で論理的なものであったが、このへんでとどめる。

 次に、弁護士集団が、戦時体制の中に組み込まれていく過程が話された。治安維持法を非難していた弁護士が、戦争を担う集団に変質していったこと、治安維持法を生み育てたのが弁護士出身の政治家であったこと(小川平吉、原嘉道)、労働者や農民の弁護を担っていた布施辰治の弁護活動も最終的には抑圧され、治安維持法違反となって獄につながれたこと、その理由は治安維持法による被告人の弁護活動そのものが治安維持法が禁止する事項になる、というこものであった。布施は転向しなかったために獄につながれたが、それ以外の労働者・農民の弁護活動を行っていた弁護士は「転向」させられたという。しかしその「転向」も、心ならずのそれであったが故に、戦後はその苦しみの中で自殺したりした弁護士もいたという。

 そして海野普吉による横浜事件の弁護活動が語られ、この時期は指定弁護人制度が成立し、技術的な弁護活動しか出来なかったこと、海野の弁護活動も国家により制約されたなかでのものであったことが指摘された。

 最後には、弁護士会すら、治安維持法について検証することをしていないことなどが指摘された。

 あまりにまとまった素晴らしい講演であったので、文に起こして冊子にする計画をたてている。

 やはり『治安維持法の教訓』は購入しよう。治安維持法は、もっと研究されなければならない。

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企業は節税、そして高プロ

2018-06-30 08:04:13 | その他
 企業の儲けは、確実に.労働者を酷使して、笑いが止まらぬ。しかし、日本の労働者は、それでもおとなしい。日本がアメリカの忠犬だとするなら、日本の労働者は経営者の忠犬である。今年は、確か戌年。吠えない犬がいっぱいいる。

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啄木(15)

2018-06-29 20:49:55 | その他
1908(明治41)年(22歳)・・・1月啄木は、小樽市内で開かれた社会主義演説会(西川光次郎ら)に参加した。

【夕方本田君に誘はれて・・社会主義演説会へ行つた。・・・西川光二郎君の「何故に困る人が殖ゆる乎」「普通撰挙論」の二席、・・よく徹る蛮音を張上げて断々乎として話す所は誠に気持ちがよい。・・茶話会を開くといふ。自分らも臨席して西川君と名告合をした。帰りは・・・桜庭保君と一緒だつたが、自分は、社会主義は自分の思想の一部だと話した。】(「明治四十一年日誌」1月4日)※書き直しがあり

1月啄木は、釧路新聞の入社が決まり釧路へ行く。釧路では、生き生きと加藤どうしているように見える。家族のことを考えずに、酒を飲み、芸者遊びをする。

【今月自分の手に集散した金は総計八十七円八十銭、釧路へ来て茲四十日。新聞の為には随分尽して居るものの、本を手にした事は一度もない。此月の雑誌など、来た儘でまだ手をも触れぬ。生れて初めて、酒に親しむ事だけは覚えた。盃二つで赤くなつた自分が、僅か四十日の間に一人前飲める程になった。芸者といふ者に近づいて見たのも生れて以来此の釧路が初めてだ。之れを思ふと、何といふ事はなく心に淋しい影がさす。・・・自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。噫、石川啄木は釧路人から立派な新聞記者と思はれ、旗亭に放歌して芸者共にもて囃されて、夜は三時に寝て、朝は十時に起きる。一切の仮面を剥ぎ去つた人生の現実は、然し乍ら之に尽きて居るのだ】
(「明治四十一年日誌」2月29日)

 ところが、啄木は釧路を脱出したい気持ちが強くなる。

【石川啄木の生活と釧路、特に釧路新聞とは一致する事が出来ぬ。上に立つ者が下の者、年若い者を嫉むとは何事だ。詰らぬ、詰らぬ。・・・兎も角も自分と釧路とは調和せぬ。啄木は釧路の新聞記者として余りに腕がある、筆が立つ、そして居て年が若くて男らしい。男らしい所が釧路的ならぬ第一の欠点だ】
(「明治四十一年日誌」3月25日)

3月「創作的生活」(専念創作に従ふ生活)を求め、上京を決意する。4月函館へ。家族を函館に残し、単身上京(新詩社に滞在)。カネもない、家族を養うこともせず、このような信じられない行動にでることができたのは、函館の宮崎緑雨の財力に依存できたからであった。

【飄泊の一年間、モ一度東京へ行つて、自分の文学的運命を極度まで試験せねばならぬといふのが其最後の結論であつた。我を忘れむと酒に赴いた釧路の七旬の浅間しさ!満足といふものは、所詮我自らの心に求むべきものだといふ悲しい覚醒は、創作的生活の外に自分のなすべき事が無いと覚悟せしめた。此覚悟を抱いて、自分は釧路を逃げ出した!そうだ、逃げ出した!友は自分が小樽へ行つて家族を引纏めて来るだけの旅費を呉れた。母と妻と子を、予が上京して生活の方法を得る迄養つてくれる事になつた。剰へ此度の上京の旅費まで出した。凡てが友の情である。今かうして此船に乗つて居るのも。と思つて思はず目をうるました。】 (「明治四十一年日誌」其二、4月25日)

5月金田一京助の下宿(赤心館)へ入りこむ。啄木にとって、金田一は金づるでもある。

【金田一君といふ人は、世界に唯一人の人である。かくも優しい情を持つた人、かくも浄らかな情を持つた人、かくもなつかしい人、決して世に二人とあるべきで無い。若し予が女であつたら、屹度この人を恋したであらうと考へた。】(「明治四十一年日誌」其二、5月6日)

 東京に来たという実感を記す。

【朝に目をさますと、千万の声と音を合せた「都の響」が耳にはいる。何とも云へぬいゝ気持になる。窓の下を雪駄の音がチャラチャラ。あゝ俺は何故モツト早く東京に来なかつたらうと思ふ。】
(「藤田武治らへの書簡」、5月12日)

 上京後、5月までは、小説を書くことによる原稿料の見込みを語り、家族の呼び寄せに楽観的であった。しかし当然のごとく、6月には生活困窮と創作生活に行き詰まる。

【目をさますと、凄まじい雨、うつらうつらと枕の上で考へて、死にたくなつた。死といふ外に安けさを求める工夫はない様に思へる。生活の苦痛!それも自分一人ならまだしも、老いたる父は野辺地の居候、老いたる母と妻と子と妹は函館で友人の厄介!ああ、自分は何とすればよいのか。今月もまた下宿料が払へぬではないか?To be, or not to be?死にたい。けれども自ら死なうとはしない!悲しい事だ、自分で自分を自由にしえないとは!】(「明治四十一年日誌」其二、6月29日)

【人は時として、否、常に、その生活の平凡単調に倦んで、何かしら刺戟ー可成強烈な刺戟を欲する。今日の一日は、その刺戟を欲する心に終始した。そして殆んど一日金田一君とそんな事を語り合った。如何なる刺戟も、遂に人間の無限なる慾望を満足させうるものでないといふ事は解つてゐる。解つていて、猶且吾ら日夕の単調に倦んだ者は何らかの刺戟を求めて止まぬ。昨夜歩いた境地ー生れて初めて見た境地ーの事が、終始胸に往来した。結婚といふ事は、女にとつて生活の方法たる意味がある。一人の女が一人の男に身をまかして、そして生活することを結婚といふのだ。世の中ではこれを何とも思はぬ、あたり前な事としてゐる。否、必ずあらねばならぬこととしてゐる。然るに“彼等”に対しては非常な侮蔑と汚辱の念を有つてゐる。少し変だ、彼等亦畢竟同じ事をしてゐるのだ。唯違ふのは、普通の女は一人の男を択んでその身をまかせ、彼らは誰と限らず男全体を合手に身をまかせて生活してゐるだけだ。今の社会道徳といふものは、総じて皆這麼(こんな)不合理な事を信条としてゐる。】
(「明治四十一年日誌」其二、8月22日)

9月金田一と共に蓋平館へ移る。11月小説「鳥影」、東京毎日新聞に掲載。
11月『明星』が終刊となる。  


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西郷隆盛のこと

2018-06-28 13:09:58 | その他
 私は参加しなかったが、静岡市での講演会で、ある歴史学者が、西郷隆盛は征韓論者ではない、ということを話したという。私はレジメを見て、ほんとうにそう言ったのかを主催者に確認した。

 西郷隆盛は、1873年の征韓論論争の時、確かに征韓論者であった。それが通説である。

 ところが、もう亡くなった毛利敏彦氏が、「明治六年政変」などで、西郷は「征韓論」者ではなく、「遣韓論」者だと書いた。しかし、歴史学会では、これは妄説であった。

 最近出版された、家近良樹氏の『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)を確認してみた。毛利氏の新説により、新たに論争が行われたが、結局今までの通説が確認された。家近氏は、こう記している。

 「近年では、一九九〇年代に入って深められた研究の進化によって、政変が発生するに至るまでの基本過程にまつわる史実はほぼ開明された。その結果、西郷非征韓論者説は、はなはだ旗色が悪くなったと総括しうる」(四一七頁)

 だいたいにして、毛利氏は自説を一次史料で主張しているわけではなく、後年の誰かがこう言ったとか、こう書いているというものを使って主張しているにすぎない。

 歴史研究は、すべからく一次史料に依拠すべきである。

 なお、最初に紹介した歴史学者は、それを言う際に、松浦玲『勝海舟と西郷隆盛』(岩波新書)を文献としてあげたそうだ。それも確認してみた。すると、勝海舟が、そう書いているから、征韓論者ではない(・・であるはずがない)という趣旨の内容であった。

 西郷が征韓論者であるという証明は、まさにその当時、つまり明治6年、西郷が出した書簡や、それに関係する人々の書簡や覚書などによってなされている。

 私としては、その歴史学者の見識を疑う。

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私は前からこれを主張している

2018-06-28 12:59:02 | その他

「話すこと」を重視しすぎた英語教育の末路 「読み・書き」の重要性を見直すべきだ

 そもそも日本語で生きていける日本で、皆が英語を話す必要があるのか、という疑問が一つ。

 日本の学校にいるALTは、英語をネイティブにする者であるが、しかしネイティブのように発音する必要があるのか、が一つ。
 
 母語が確立しないままに、英語を学ばせるのはおかしい、というのが一つ。

 幼い頃に、しばらく外国で暮らしていて帰国、しかし日本語もその国のことばも習得できず、母語がない、そういう人の苦しさを、知るべきである。

 読み書きをしっかりやっておけば、いざというとき、つまり英語で会話をしなければならないときには、文は出て来る。私の経験である。

 最近は外国人と話す機会がほとんどないが、10数年前は、ほとんど毎日英語で会話し、政治の話から教育、その他どんなことでも話すことが出来た。もちろん私の発音はひどいものだが、それでもコミュニケーションはできた。
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「国家戦略特区」

2018-06-27 22:03:01 | その他
 「国家戦略特区」は、政治の私物化、利権政治の温床ではないかと思う。

年間補助金60億円超のポピンズ会長が「安倍昭恵さんを慰める会」を主催していた
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「残業代ゼロ法案」こと高度プロフェッショナル制度。

2018-06-27 21:10:51 | その他
私は拘束された労働時間に対応して給与を得るという状態ではない。その私からみても、この高プロ制度は、ただでさえ日本の労働者が長時間・低賃金労働を強いられている中、さらに酷使しようという法案であって、許し難い。

 しかし日本の労働者は、それでも大きな反対運動を展開しない。労働者の多くは、今は自民党に投票しているともいうから、こうした法案が通っても平気なのだろうか。

 安倍首相「高プロは労働者のニーズではなく経団連らの要望」と白状、立法事実が完全消滅
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啄木(14)

2018-06-27 08:53:31 | その他
(承前)

1907(明治40)年(21歳)・・・3月父一禎、宝徳寺再任を断念して家出。宝徳寺再住不可能となる。節子と京子、渋民へ。4月啄木、辞表提出。高等科の生徒を引率して校長排斥のストライキを指示。村内大騒動。校長転任、啄木免職。

 啄木は、1年で代用教員を辞めるつもりであった。辞表を提出しても退職が出来なかったので、騒動を起こしたようだ。そして、北海道へ渡る。

【予は新運命を北海の岸に開拓せんとす。これ予が予てよりの願なり】 (「丁末歳日記」1907年5月2日)

5月一家離散(啄木は妹光子と共に北海道へ(光子は小樽)。母は渋民村の知人宅に預け、妻子は盛岡の実家)。啄木は函館の苴蓿(ぼくしゆく)社の人々に迎えられ、『紅苴蓿(まごやし)』の編集に当たる。函館商工会議所の臨時雇。6月弥生小学校の代用教員(月給12円)。7月節子、京子函館へ。8月母を迎えに行き、光子も函館へ。啄木、函館日々新聞の遊軍記者となるも、函館大火で新聞社焼失。

 函館で、離散した家族が集まるも、函館大火はそれを不可能にさせる。

【大火は函館にとりて根本的の革命なりき、函館は千百の過去の罪業と共に焼尽して今や新らしき建設を要する新時代となりぬ、予は寧ろこれを以て函館のために祝盃をあげんむとす】(「丁末歳日誌」1907年5月27日)

9月啄木、札幌で就職(北門新報社校正係)。

【あゝ我誤てるかな、予が天職は遂に文学なりき。何をか惑い又何をか悩める。喰ふの路さへあらば我は安んじて文芸の事に励むべきののみ、この道を外にして予が生存の意義なし目的なし奮励なし。予は過去に於て余りに生活の為めに心を痛むる事繁くして時に此一大天職を忘れたる事なきにあらざりき。誤れるかな。予はたゞ予の全力を挙げて筆をとるべきのみ。貧しき校正子可なり、米なくして馬鈴薯を喰ふも可なり。】
(「丁末歳日誌」1907年9月19日)

 文学への思いを断ち切れず、しかし貧困が、啄木から離れない。

9月同社を辞して小樽へ(小樽日報記者)。

【午前小樽日報社にゆい主筆岩泉江東に逢ふ。社は木の香あらたなる新築の大家屋にして、いと心地よし】 (「丁末歳日誌」1907年9月28日)

12月内紛により小樽日報退社。

 札幌から、小樽へ、その後釧路に行く。啄木には、家族との安定した生活を求めるそぶりは見えない。貧困は、啄木にはり付いて離れない。

【夜となれり。遂に大晦日の夜となれり。妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と予の衣二三点を以て三円を借る。之れを少しづつ頒ちて掛取を帰すなり。さながら犬の子を集めてパンをやるに似たり。かくて十一時過ぎて漸く債鬼の足を絶つ。遠く夜鷹そばの売声をきく。多事を極めたる明治四十年は「そばえそば」の売声と共に尽きて、明治四十一年は刻一刻に迫り来れり。】 (「丁末歳日誌」1907年12月31日)

(つづく)
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2018-06-26 22:37:56 | その他
 昨年だったか、東京大学にすごい学者がいると聞いたことがある。何でもローマ法の研究者で、古今東西の文献に目を通し、すごい博識で驚異的とのことであった。

 その学者の名を忘れていたが、『朝日新聞』の書評に、その人が書いた本の書評があった。学者の名は、木庭顕。彼の本はとても難解で、理解するためには、読む方にも広汎な智識が求められると言われていた。

 書評の本は、『憲法9条へのカタバシス』。みすず書房刊で、約5000円。買うべきか買わざるべきかを考えている。

 この人の本は高額である。なぜか、おそらく売れないからだろう。

 この人の本では、本書はそんなに高額ではないが、私にとっては高額である。悩む。

 それにしても、みすず書房か。この出版社は、良い本を出版しているが、いずれも相対的に高い。私はみすずの本をたくさん所有しているが、買う時にはいつも悩む。しかしそれでも買ってしまう。ある意味で、「古典」としての価値をもつからだ。これを読んでおかないと、話にならないという具合。たとえばハンナ・アーレントとか。

 すごいと言われる人の本を読んでみる価値はあろう。さてどうすべきか。

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全体主義のなかに?

2018-06-26 07:53:55 | その他
 友人の大学教員から、興味深い話を聞いた。

 ある教員が、みずからの講義に外部の人を招いた。その人が、政治批判のようなことを話したのだそうだ。すると、それを聴いていた学生が、大学当局に、「偏ったことが講義で話された、大学は中立公正であるべき」という文書を送ったのだそうだ。

 学生が、こういうことをいう時代になっている。

 大学は学問研究をおこなうところである。様々な異なる意見があることを前提に、根拠を示しながら吟味し、討論して、真実を明らかにして行く作業が行われる場所である。大学こそ、多様な意見が尊重されなければならない場である。

 そもそも客観的な「中立公正」はあり得ないことは少し考えればわかることだろう。政治の場でも、自民党から共産党まで、多くの政党が存在し活動している。そのなかで「中立公正」な政党があるわけではない。

 問題は、学生が、政権党の言っていることが「中立公正」であると考え、また批判することはよくないことだと考えている節があることだ。

 批判がなければ発展はないのだが、すでに学生は、全体主義の中に生きているようなのだ。
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全体主義?

2018-06-26 07:31:41 | その他
 国会での森友・加計問題のやりとりを追っていると、アベ政権と官僚共は、とにかく頬被りして、証拠があっても知らぬ存ぜぬ、決定的な証拠は出さない、改ざんする、野党の追及にはのらりくらりと対応して時間が過ぎるのを待つという作戦であろう。

 その背景には、国レベル、地方レベルの撰挙で、自民党・公明党+創価学会の連合勢力が勝利できるという確信があるのだろう。国レベルでは小選挙区制が自公連合を守り、地方レベルでは財政を投入する公共事業のエサをまけば、寄ってくる。

 要するに、人々は、カネに群がるのだ。それを政策の基底におかなければ、自公・創価学会連合に負け続ける。

 しかし、森友・加計問題、客観的には、ほとんどクロである。クロを灰色のままにしようという政権の目論見を、読売や産経新聞、その他のテレビメディアが支える。

 もう日本は、全体主義なのだ。芸人やタレントが、そういう方向に動き、全体主義下の庶民の懐を狙っている。

 民主主義や正義を求める人々は、この政治のレベルでの闘いを、根本からつくりあげなければならない。

 もう時代も、人間も変わったのだ。
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啄木(13)

2018-06-25 21:55:00 | その他
(承前)

1906年6月上京(2週間)。7月小説「面影」脱稿。

【八円の月給で一家五人の糊口を支へるといふ事は、蓋しこの世で最も至難なる事の一つであらう。予は毎月、上旬のうちに役場から前借して居る。予が諸方の友人へ疎遠をしている居るのは、多く郵税を持たぬからだ。又、紙のない時もある。巧みに世に処するには、金が一番必要だ。予はこの点に於て極めて不幸な境遇にある。実に予は不幸だ。或はこの不幸は自分の一生の間続くかも知れない。】 (「渋民日記」7月)

 カネがなくとも、上京する。文学者たらんとする強い意欲が、啄木を啄木たらしめた原動力なのだろう。しかし、家族はたまったものではない。だが、啄木の「いつか」をきっと信じていたのだろう。
 

8月委託金費消の件で取調を受ける(不起訴処分)。

【聊か感ずる処あつて、十月一日から、自宅で朝読を始めた。男女二十人許りの生徒が、夜のまだ明け放れぬ頃から、我先にと集まつて来る。此一事だけでも、この朝読が善良な感化を与へて居る事がわかる。夜おそく寝た時などは、随分辛い事があつたが、しかし彼等の心ー清い、尊い心に想ひ至ると、予は或る感謝の念に胸を一杯にし乍ら、蹶起せざるを得ない】
(「渋民日記」1906年10月)

 代用教員としての啄木は、とても熱心に教育に取り組んでいた。しかし「雲は天才である」を読むと、それはもちろん国家主義的な、文部省の中央集権的な教育ではない、ユニークなものであった。そのユニークさは、啄木の熱意がつくりだしていた。もちろん勤務時間外に、啄木は子どもたちと「朝読」をする。これは「あさよみ」と言ったらしい。教育とは、ほんらいこのような個性的で、創造的なものであるべきである。

11月小説「葬列」脱稿。評論「林中書」脱稿(盛岡中学校校友会雑誌掲載)。

12月29日京子生まれる。

【今日は(午後三時頃)盛岡なる節子分娩したる日なり、京ちゃんの誕生日なり、予の「若きお父さん」となれる日なり。】(「渋民日記」12月29日)

 啄木は、父親になる。

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これは読むべき

2018-06-25 21:22:15 | その他


 古賀茂明「反安倍勢力に広がる無力感 沖縄県知事選も新潟の二の舞いか」
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「生きる」

2018-06-25 21:05:47 | その他
 6/23 沖縄慰霊の日に於ける、相良倫子さんの「生きる」という詩。

 ことばのもつ力を感じた。人間がもつすべての感覚が、ことばのなかにこめられた詩。新聞でこの詩を読み、そしてユーチューブで相良さんの朗読を見た、聞いた。

 ことばの力、ことばがここまで表現できることを教えられた。

沖縄14歳少女が読み上げた「平和の詩」の衝撃 壮大な詩に込められた「生きた言葉」の数々

 
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軍事国家日本・・・?

2018-06-24 21:30:14 | その他
 「学校保護宣言」というものがあることすら知らなかったし、それに日本政府が調印拒否をしていることも、はじめて知った。

「学校の軍事利用」反対しない日本 高校生が防衛省に「調印」直談判
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