浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

荻野美穂『女のからだ フェミニズム以後』(岩波新書)

2016-03-02 14:57:43 | 
 フェミニズムについては、それが流行りだした頃読んだことがあった。この本を購入したのは、先年、Hさんが卒業論文でアメリカのフェミニズムを取り上げ、それについて修正を加えたりしたことがあったからである。

 本書は、以下の構成になっている。
第1章 女の健康運動ー1970年代のアメリカ
第2章 地球を旅する本 『私たちのからだ・私たち自身』の軌跡
第3章 日本のウーマン・リブと女のからだ
第4章 1980年代の攻防と、その後
第5章 生殖技術という難問

 第1章の一部と第2章については、Hさんの卒業論文に記述されていたので既知である。
 日本のフェミニズム運動は、アメリカのそれに触発されながらも、日本独自の課題を掲げて闘ってきたことが第3章以下で記される。おそらく本書で描きたかったのは、日本のフェミニズム運動の経緯である。
 第2章の『私たちのからだ・私たち自身』は、始発はアメリカだが、それは世界各地で翻訳され、またその国独自の課題が加わり(「グローバル・ローカリゼーション」という語が使われる。よいことばだ。)、世界的なベストセラーとなった本だ。日本でもそれは翻訳された。この本は、専門家が記したものではなく、問題意識を持った女性たちが、みずから学習し、話し合い、そして完成したもので、その編集方針は、「知識は力なり」、「女たちの経験の重視」、「当事者によって語らせる」ことであった。
 本筋とは離れるが、考えてみれば、この方針は、女性史に通底するものでもある。語って欲しい当事者に、その経験を語ってもらい、その語りを、関係する知を織り込ませることによって新たな女性に関わる知をつくっていく、女性史はそういう方法がとられている。

 ウーマン・リブの運動について、その担い手たちは「(優生保護法の)経済条項の削除に反対して中絶の既得権を守ろうとしたのではなく、日本のいわゆる「中絶天国」とGNP世界第二位の高度成長の背後には、「優生保護法と堕胎罪の二人三脚で達成されてきた」女の性と身体の管理を通じて人口の量と質を国家が管理しようとする仕組みが存在することを、当初から鋭く見抜いていた」。

 女性が子どもを生む、ということは、個人や家族の問題でありながら、同時にそれは国家の人口政策などと常に交錯するものであった。戦時下の「産めよ、殖やせよ」という政策はそれであったし、また少子化が叫ばれている今日の状況でもある。ウーマン・リブは、子どもを生むかどうかを「みずからの権利」として獲得しようとした。

 リブは、抽象ではなく生身のからだを生きる存在としての「女」に徹底してこだわることによって、一見、私的で些末な問題に過ぎないと思われがちな避妊や中絶、セックス、出産や育児、あるいは子殺し等々が、じつはきわめて政治的・権力的な問題に他ならないことを、赤裸々に暴いて見せた。政治や権力の問題は、公的な場にだけ存在するのではない。女の性とからだは、まさにそれを通して国家や資本の論理と女自身の意思や欲望とがぶつかり合い、支配権をめぐって攻防をくり返す、日常の中の「戦場」にほかならないことを、リブの女たちは明らかにしようとした」(138頁)

 第4章は、優生保護法改悪に対する闘いが描かれているが、ボクはこういう運動が行われていることに関心を持たず、そういう運動が行われていたことを本書ではじめて知った。

 1980年代の闘いは、優生保護法改定反対運動と埼玉県所沢市の富士見病院事件を契機として、「女たちが自分自身のからだについて知ること、からだにかかわる問題を医者任せではなく自分自身で決めることの重要性を認識し、そのための活動を展開するようになった」(178頁)とあるが、アメリカの健康運動も、そうした問題意識をもっていたのではなかったのか。その意味では、アメリカの運動の淵源を再確認するものでもあったのではないか。

 1980年代から90年代にかけて、東京が政治的な運動を行っているとき、大阪(ウイメンズセンター大阪)では、実践的な活動を行い、2010年には「性暴力救援センター大阪」をたちあげ、女性の抱える現実的な問題に対処する活動を行っている。これについては、以前Hさんから教えられたことでもある。

 しかし、近年の生殖技術の発達により、たとえば「代理出産」などの問題が出て来ている。しかし生殖技術の発達により出現した新たな事態をどう考えたらよいか、混迷が続いている。
 
 フェミニズムの主張(「女のからだは彼女以外の誰かのものー男のものでも国家のものでも宗教のものでもなく、女自身のものであり、女の自立や解放は、その自分のからだについて知ることから始まる」)が、「私のからだで何をしようと、それは私の自由、自己責任」と読みかえられ、女性が資本の論理に絡め取られてしまうという事態が出現しているのだ。

 新しい事態に直面して、フェミニズムは新たな課題の解決を迫られている。

 1970年代からのフェミニズム運動が獲得した成果は成果として、しかし運動は少数のものとなり、多くの女性は、その成果の上に、資本にからだを売り渡しているのではないか。フェミニズム運動の歴史そのものを、女性が共通認識として持つことが大切ではないかと、昨今の女性の状況をみて思う。
コメント
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