1.はじめに
歌川広重の「東海道五十三次」の浮世絵のうち、掛川(東海道から分岐して秋葉山に向かう秋葉街道の入り口がある)の絵には秋葉三尺坊の鳥居が描かれ、また井原西鶴の『好色一代女』に「三尺坊の天狗」が書かれているというように、浜松市天竜区春野地区にある秋葉山は、全国的に有名な宗教施設であった。
明治初年までは、秋葉山山頂には秋葉寺があり、聖観音が祀られている本堂、秋葉三尺坊大権現が祀られている秋葉社などがあった。
ところが明治維新によって成立した政府は、神仏分離・廃仏毀釈を強行し、古代以降の神仏習合思想に基づく伝統的な宗教意識を破壊し、「日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換」(安丸良夫『神々の明治維新』)をもたらした。その大転換は、秋葉信仰を翻弄、変質させただけでなく、大きな分裂を生み出したのである。
秋葉信仰は現在も存続しているが、近世までの秋葉信仰はどういうものであったのか、さらにどのように変質・分裂させられたのかを知っておく必要はあるだろう。
2.秋葉信仰とは
近世以降に流布した秋葉信仰の中心は秋葉三尺坊大権現に対する信仰で、その霊験は火伏せ(火除け)であるが、秋葉信仰それ自体を考えていく際には、それ以前のことも考えていかなければならないだろう。
(1)秋葉信仰とは
これについてはすでに田村貞雄がこれまでの研究をもとに簡潔にまとめているので、それを箇条書きにして示しておこう(「序論ー秋葉信仰研究史素描」、『秋葉信仰』雄山閣)。
・秋葉信仰の発祥は、三尺坊という修験の行者を、その没後大権現として祀ったところにある。
・その三尺坊はもと越後に居住していた。三尺坊が遠州に来る契機は、武田氏と断交した徳川家康が越後の上杉謙信に密使叶坊を送ったことによる。叶坊が、長岡の蔵王堂三尺坊を連れ帰り秋葉山に住まわせたのである。
・三尺坊がもたらした信仰は飯縄信仰である。上杉謙信は飯縄信仰を熱心に信仰した。
・飯縄信仰とは、長野県飯縄山の飯縄大権現への信仰で、飯縄大権現も火防、火伏せの御利益があるとされている。飯縄大権現は白狐に乗った烏天狗で、三尺坊(長野県戸隠・宝光院出身)も飯縄信仰をもった行者であった。
・秋葉信仰が庶民の間に広がり、全国各地に講や常夜灯がつくられるのは、1685年(貞享2)の貞享秋葉祭からである。
ここでなぜ火伏せが天狗と関係するかというと、それは近世において火事は、天狗の仕業であると考えられていたからで、飯縄大権現も、秋葉三尺坊も、御札の図柄は白狐の上に烏天狗が乗っている。御札を見ると、飯縄大権現と秋葉三尺坊の共通性が見て取れる。三尺坊の死後、三尺坊が信仰していた飯縄大権現が三尺坊大権現として信仰されるようになったのであり、したがって秋葉信仰とは、飯縄大権現にルーツをもつ三尺坊大権現に対する、庶民の火防、火伏せの信仰とまとめることができよう。
その信仰が、明治維新によって激震に見舞われるのである(後述)。
(2)秋葉山の周辺
秋葉山に、なぜ火伏せの信仰が発達したのかというと、その背景には焼畑文化があるという。焼畑とは、山野を焼いてその跡を耕作地とするものだが、延焼しないようにうまく鎮火させなければならない。鎮火の儀礼が火の信仰を生み出すのだが、そういう信仰は秋葉信仰だけではなく、愛宕信仰(京都の愛宕神社を中心とする信仰で、祭神は愛宕権現太郎坊で、火防、火伏せの天狗信仰)などがある。火の信仰の担い手として密教系の修験者の活動があり、このように火の信仰は修験道とも結びついていた。遠州地方でも、熊野修験や白山修験の活動があり、とくに北遠地方は修験が活発な地域であった。
焼畑文化、修験の活動、そのような基盤の上に秋葉信仰が花開いたのであった。
3.神仏分離
(1)神道国教化
神仏分離の背景にあるのは、神道国教化の動きであった。
徳川幕藩体制を倒し、新たに新政府を樹立した薩長討幕派は、自らの正統性を担保するものとして、幼い明治天皇を手中においた。天皇を自らの勢力下に取り込むことによって新政府の権威を確立しようとしたのである。ところが明治初期において、天皇の権威はいまだ十分に確立されておらず、政治権力としての正統性を確立するために、新政府は、権力の中枢であると同時に権威の源泉である天皇の神権性を強調し、その絶対性を強調しなければならなかったのである。その手段として取り組まれたのが、神権的天皇制を理論的に支えるイデオロギーとしての神道国教化政策であった。
天皇家も、仏教から神道へと宗旨替えをした。天皇家の菩提寺は、京都にある泉涌寺であった。天皇や皇族の死に際しては、泉涌寺の僧侶によって葬儀が行われていたのだが、1868年(明治元)の孝明天皇三年祭から神式に改められた。また民衆による伊勢信仰についても、穀物神である外宮の豊受大神に対する信仰が中心で、内宮の天照大神は信仰の対象ではなかった。天皇家についても、歴代の天皇のなかで、伊勢神宮にはじめて参拝したのは明治天皇であり、それ以前には誰も参拝していない。
神道国教化政策は、国家神道(皇室神道も)の創出とともに、廃仏毀釈としても出現した。
五ヶ条の誓文発布の前日(1868年、慶応4年)にだされた布告において、「王政復古」、「祭政一致」、「神祇官再興」、「神社・神主・禰宜など」の神職が「神祇官付属」となることなどが公表された。そして別当・社僧などという呼称で神社に勤務している僧職身分の者の「復飾」(還俗=出家した僧がもとの世俗の人に戻ること)が命令され、さらに別当・社僧などは還俗して神主として神勤し、そうでない者は立ち退くことが命じられた。
その上、以下の布告が出された。
一、中古以来、某権現(ごんげん)或ハ牛頭天王(ごずてんのう)之類、其外仏語ヲ以テ神号ニ相称候神社不少(すくなからず)候。何レモ其神社之由緒(ゆいしよ)委細ニ書付、早早可申出候事。
一、仏像ヲ以テ神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事。
付、本地抔(など)ト唱ヘ仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口(わにぐち)・梵鐘(ぼんしよう)・仏具等之類差置候分ハ、 早早取除キ可申事。
当時の宗教状況が神仏習合の状態であることがこの布告からも判明するが、この状態から「仏」を取り除かせようというのである。つまり神仏習合的な宗教施設は、明確に神社にさせるという方向性が示されたのである。
この頃、奈良・興福寺では僧が残らず「還俗」した。僧侶の一部は神社として独立した春日社に神勤したが多くは離散、また五重塔が25円で売却もされたほどであった。このように、全国各地で廃仏毀釈、強引な神仏分離が行われた。それは、秋葉信仰にも押し寄せてきたのである。
(2)秋葉山の神仏分離
「秋葉神社の創立は、教部省と地方庁の権力をよりどころとした一山横奪にほかならなかった」(『神々の明治維新』159頁)といわれるように、秋葉寺の廃滅と秋葉神社の創立はきわめて強引に、また権力的に行われた。秋葉や寺院であることを主張する者たちを入牢・退去させ、秋葉山に僧侶がいないから「無壇無住ニ付、廃寺申付」としたのである。
その経緯を年表にすると、次のようになる(高柳光寿「秋葉山神仏分離事件調書」などから作成、『明治維新神仏分離資料』、『神々の明治維新』)。※年表中「復飾」とは、「僧が僧籍を捨てて還俗すること」である。
│1868│1月17日 │ │維新政府、第一次官制で太政官の下に、神祇科を設置する。 │
│ │2月3日 │ │官制改革により、神祇科は神祇事務局となる。 │
│ │3月13日 │ │王政復古、祭政一致の布告出される。 │
│ │3月17日 │A│神社に別当・社僧として神勤している僧職身分の者に復飾を命じる。│
│ │3月28日 │B│権現などを神として祀っている神社はその由緒を提出すること、仏像を│
│ │ │ │神としている神社は改めること、を布告。 │
│ │ │C│秋葉寺では、由緒書などを提出。内容は、秋葉山は寺院であるとするものであった。 │ │閏4月4日│D│別当・社僧は還俗のうえ、神主などとして神勤し、そうでない者は立ち退くことを命じる。 │閏4月19日│ │神職の者は、家族も神葬祭にすることを命じる。
│ │閏4月21日│ │神祇事務局、神祇官となる。 │
│ │7月2日 │E│Cに対して、弁事官より尋問したいとのことで関係者の出頭を求める。│
│ │7月3日 │ │秋葉寺は、住持は病気で上京できないと回答、後桃園院の綸旨の写しを提出した。
│ │7月4日 │F│秋葉寺役僧が願書を提出。秋葉寺は大権現と唱えてきたが、もともと将軍地蔵菩薩であって寺院で ある旨の願書であった。 │
│ │ │ │Fに対して、弁事官は大権現が正一位という位階があるなら神社であるから復飾せよ、という命令を出す。
│ │7月8日 │ │神祇官、太政官の上に置かれる。 │
│ │7月28日 │G│秋葉寺は、再度願書を提出する。三尺坊大権現を本尊とせず、聖観音を本尊とする寺院として存続したい、というものであった。 │
│ │ │H│弁事官から、Gの願書が却下される。 │
│ │8月 │I│Hに対して、秋葉山、復飾猶予を求める願書提出。この件について泉涌寺家来一ノ瀬主殿らに依頼、多額の金員を支払う。 │
│ │10月 │ │Iについて、神祇官役所より1万日復飾を猶予するという通知。 │
│1869 │ │J│神祇官から静岡藩に対し、秋葉山の復飾結果につき調査を命じる。│
│ │6月7日 │ │Jに対する報告を静岡藩提出。(報告書残存していないので内容不明)│
│ │7月 │K│静岡藩、復飾猶予の許可(I)が偽りであったことを報告。 │
│ │9月 │L│修験17院のうち6院が、秋葉山を神社として、復飾を願い出る。「秋葉権現神社ト改号仕、純粋之神道を以奉仕度奉存候」。この願書を出した後、修験6院は山を下り、「脱走法師」と呼ばれた。 │
│ │10月 │M│秋葉寺、11月16日の祭祀をどのようにすればよいのか伺いを神祇官に出す。 │11月 │N│秋葉寺は、「脱走法師」に秋葉山を渡さないため、速やかに復飾する旨の願書を神祇官に提出。静岡藩もそれを後押しする。 │
│ │11月8日 │ │神祇官、秋葉寺(高林庵)を呼び出し、10月、11月の願書(M、N)について却下することを伝えた。 │
│ │11月 │ │神祇官、神社か仏寺かの調査を静岡藩に命じた。 │
│1870 │3月 │ │可睡齋、秋葉寺が仏寺であることについて、静岡藩を経由して弁官に提出。 │ │4月13日 │ │Kの偽りの復飾猶予についての一ノ瀬らが流罪となり、秋葉寺役僧らも処罰されることとなった。
│ │5月24日 │ │秋葉寺役僧2名が、刑部省に呼び出され、謹慎を命じられた。 │
│ │10月3日 │ │静岡藩、調査結果を神祇官宛に提出した。その内容は、秋葉山は神社に決定すべきであろうが、神社であるか仏寺であるか分明できないので、朝裁を仰ぐとしながらも、修験方の申し出を否定し、仏寺とすることが至当であるとするものであった。 │
│1871│ │ │廃藩置県によって静岡藩はなくなり、この地方は浜松県の管轄になった。│
│1872│2月15日 │ │浜松県、神祇省(神祇官が改称)に対して、秋葉山を神仏いずれかにするか決定してほしいという伺いを提出。 │
│ │3月 │ │教部省(神祇省が改称)から回答くる。「秋葉大権現之儀、慶応3年12月27日、神階正一位ヲ被授候事故、向後秋葉神社ト称シ可申事」。なお神階授与については、授与されたのは浜松の秋葉社であって、秋葉山ではないという主張がなされた。 │
│ │5月17日 │ │浜松県、秋葉山に対して仏器・仏具などを取り除くように命令を出した。
│ │5月23日 │ │神社にしたいと願い出た元修験らに、神仏分離の実行を命じた。 │
│ │5月 │ │元修験ら、寺僧が三つの内一つしか鍵を渡さない、一部は仏器を取り除いたが、全山取り除くかどうか、神仏混淆のお守りを登山者に渡して良いかどうかなどの伺いを行った。 │
│ │ │ │浜松県からの回答。神殿の奉仕だけしていればよく、そのほかのことについては、追って連絡する。 │ │11月15、16│O│元修験ら神式祭具をもって祭祀を行うために登山したところ、寺僧らが妨害して下山させた。
│ │11月29日│ │浜松県、小国神社の世襲神官でもあり山住神社の祠官であった小国重友を秋葉神社祠官の兼務を命じた。
│1873 │1月2日 │ │伊藤泰治ら小国の推薦で、社務雇となった。 │
│ │1月7日 │ │Oの件を、元修験らが訴え出たことから、寺僧方、元修験方の双方入牢。│
│ │1月9日 │ │大区長ら、小国重友、犬居村戸長ら秋葉山に登り、取り調べを行う。│
│ │1月11日 │ │元修験ら釈放、宿預かりとなり、秋葉寺役僧2名が入牢。 │
│ │2月3日 │ │浜松県、秋葉寺を廃して、僧侶の下山を命じ、宝蔵雑庫等を封印、鍵を可睡齋に預けさせた。秋葉寺の従者らを小国に預けた。 │
│ │2月28日 │ │浜松県は、従者らを可睡齋に引き渡し、秋葉神社に宝蔵雑庫の鍵を渡した。
│ │3月17日~│ │分離のための調査が行われた。 │
│ │3月26日 │ │浜松県から大江孝文が出張し、小国に社務条例を下付し、祠掌らを任命した。仏体、仏具などを可睡齋に引き渡し、可睡齋住職から「秋葉寺廃寺」の請書を差し出させた。「右者無壇無住ニ付、廃寺申付候条、此段相達候也」に対して「右御申渡之旨畏候也」 │
│ │5月27日 │ │千人長屋焼失。(建物については、観音堂、奥院、一切経蔵を可睡齋へ。│
│ │ │ │仁王門は神社の神門となる。鐘楼は破壊し、鐘は売却。) │
│ │5月28日 │ │秋葉神社で、神式の神事を行う。 │
│ │5月 │ │浜松県参事石黒努、秋葉神社から三尺坊を可睡齋へ移動させた旨の諭告を発する。参詣者が大きく減ったことによる。 │
│ │11月14日│ │秋葉神社神殿炎上。 │
│ │12月 │ │奥院不動堂の調査。 │
│1874 │1月 │ │奥院不動堂の仏器・仏具を可睡齋に引き渡した。 │
│1879 │ │ │可睡齋で、三尺坊威徳大権現の堂舎建立。 │
│1880│ │ │秋葉寺再興。聖観音は秋葉寺に渡すも、三尺坊は可睡齋に留め置く。│
│ │ │L│神社側の主張 秋葉権現というのは秋葉山という山にあるからである。祭神は火伽具土神で太古より鎮座している。山麓18郷は「愛宕」という。「三代実録」には、「貞観16年5月10日正六位上岐気保神従五位下」とあり、「遠江風土記伝」には、「山香郡岐気保神」とあって、山香郡廃して周知郡となり、岐気郷転じて気田郷となった。永仁年中三尺坊という修験者がきて、神職であった祖先らも修験道になって大善院加納坊というごとく院号を唱えるようになった。加納坊は浜松秋葉村に移転した。家康より下された判物にある別当光幡は大善院のことで、光幡の子光達は早く死去したため、留守居に曹洞宗の僧を頼んだところ、その僧が謀を巡らして書類を盗み出して別当職になった。その後秋葉寺として存続している。 │
以上のような経過から、現在秋葉山の山頂には秋葉神社が祀られ、中腹には再興された秋葉寺があり、神仏分離の際に秋葉寺から移された三尺坊を祀る可睡齋(秋葉総本殿)が袋井市にある。それぞれが自らの正統性を主張しているが、秋葉神社の説明は牽強付会といわざるを得ない。
秋葉信仰は、三尺坊に対する信仰であって、それ以外ではない。
《参考文献》
田村貞雄監修『民衆宗教史叢書31 秋葉信仰』(雄山閣、1998年 )
安丸良夫『神々の明治維新ー神仏分離と廃仏毀釈』(岩波書店、1979年)
静岡県教育委員会『静岡県歴史の道 秋葉街道』(1996年)
その他の文献については、上記の文献に紹介があるので、それを参照していただきたい。