浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

メディアの現状

2021-12-31 19:59:04 | メディア

 大阪と読売新聞大阪本社が何とか協定を結んだ、というニュースがあった。その協定が、こういうかたちで実現した。

吉村洋文知事、休日の筋トレ姿を公開!たくましい筋肉に黄色い声殺到「カッコ良すぎ」「キャー!」

 女性史研究家のもろさわようこさんの『新編おんなの戦後史』(ちくま文庫)を読んでいたら、こういう個所にであった。

 もろさわは1925年生まれ、戦前社会を知っている世代である。彼女は、1945年の敗戦を体験してこう書いている。


 「マスコミのあざやかな変身も印象的でした」として、「撃ちてしやまん」、「鬼畜米英」のスローガンを掲げていたマスコミが、敗戦と同時に変身し、「平和の使徒マッカーサー元帥来たる」とたたえるようになった例をあげる。そしてこう記す。
 「正義の味方だと思っていたマスコミが、そのときどきの権力の同伴者であり、権力側の味方でしかないことをこのとき身に沁みてわかりました。」  


  その通りだと私も思う。権力と蜜月の関係にあるテレビや新聞など、マスコミの本質をきちんと認識しておくことはとても大切なことだと思う。

 

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コリン・サブロン『シベリアの旅』(続)

2021-12-31 19:10:14 | 

 コリン・サブロンはイギリス人。なのに、シベリアとそこに生きる人びとを描いて、その内容はロシア文学を読むように重い。

 ロシア人は苦しまないとロシア人ではないとも言われるが、コリン・サブロンはイギリス人。彼もシベリアに生きる人びとと会うなかで苦悩する。

 ロシアは寒い。それに帝政、社会主義体制と続いた。1917年は夢や希望であったのだが、それは潰えた。それどころか、帝政時代を遙かにこえる強制収容所がつくられた。ロシアの人びとは、苦悩のなかに生きていかなければならなかった。とりわけ、スターリン体制下。突然逮捕され、銃殺されたり、収容所に放り込まれ強制労働に従事させられた。

 コリン・サブロンも、強制収容所とそこでの強制労働の足跡を訪ねている。

 そしてソ連が崩壊したあとの、カネまみれの社会。もと共産党の幹部がそのまま横滑りしてマフィアとなる。コリンは「昔の共産党員ですか?」と問う。その答えは、「彼らは、権力のあるところにはどこにでもいるんです」(307)

 普遍的な回答である。わが日本にもマフィアが政界に巣くっている。

 コリン・サブロンは、ソ連の崩壊後も理想や信念が残っているかを探る。

 女性の教師は答える。

 いまの私には、生徒たちに教える確固としたものがありません。生徒たちはたいてい、なにも信じていません。理想をもっている者はごくわずかです・・・(142)

 社会主義体制の崩壊は、経済的な苦悩を人びとに強いる。

 コリン・サブロンはこう書く。

 隷属状態で達成されたことのすべてが、自由によって破壊されているようだった。(264)

 日本と、ここが異なる。日本は隷属状態はなかった。しかし、ロシアと同様に、「自由」によって格差が拡大し、人びとの生活が破壊されている。

 何処の国も、人びとは容易に生きることが難しくなっている。苦悩を伴った生が、私たちの前にある。

 今日は大晦日。ベートーベンの交響曲第九番がながされる。ベートーベンは「苦悩を通しての歓喜」を謳った。苦悩のあとに歓喜が訪れるというのだが、私たちにその歓喜は到来するのだろうか。

 

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厳冬のなかで

2021-12-31 15:53:06 | 日記

 生ゴミを畑に捨てにいった。今日は強く冷たい西風が吹き、かぶっていた帽子が飛びそうになった。

 私がほぼ毎日捨てる生ゴミを狙ってカラスが三羽、必ず飛んでくる。野菜屑やミカンやりんごの皮が多いから、そんなに食べるものはないはずだが、厳しい冬の中、カラスも食べるものが少なくなっているのだろうか。

 『シベリアの旅』を読み終えた。ソ連が崩壊したちょうどその頃、イギリス人コリン・サブロンはシベリアへの旅行を企てた。ウラル山脈を越えて、太平洋にまで足を伸ばした。その間、あまり知られていないところをバスに乗ったり、親切なロシア人らに車で乗せてもらったりして訪問し、そこでふつうの人びとと会話した。

 ソビエト社会主義は、きわめて傲慢であったと思った。ボルシェビキたちはマルクス主義を「最高」の思想と思い込み、それにもとづいてソビエト連邦という国家を構築していったわけだが、しかしそれは市井の人びと、自然その他に対してたいへん傲慢であった。おそらくボルシェヴィキは、万能感を持って生きていたのだろう。神を放逐して、みずからを神格化したのだ。そして人間でも、自然でも、すべてのものを共産主義的に「改造」できるものと思い、実際に「改造」を推し進めた。

 だがそれはそこに住む人々のボトムアップによりなされたのではなく、ボルシェヴィキの上意下達により強行されたのだ。人びとも自然も、「改造」の対象とされた。人びとの一部は共産主義建設のイデオロギーの虜になり、農民は「農奴」となり、あるいは一部は収容所に入れられて「奴隷」と化した。しかし人びとは、なぜ自分自身が「農奴」となり、「奴隷」とされたのかは分からずじまいだった。

 だから、ソビエト連邦が崩壊すると、構築物はことごとく崩壊した。ボルシェヴィキの後継者である者どもがマフィアと化してカネ儲けに走り、ソビエト連邦の社会を壊していった。

 集団農場やら、工場やら、すべての構築物が麻痺し、トラクターや機械などは錆び付き、あらゆるものが歩みを止めた。市井の人びとは、日々の生活すら営めなくなった。

 だがそれでも人びとは、死が迎えに来るまではみずからの生を維持しなければならない。ソ連が崩壊したとき、人びとは自由を手にした。その自由の中で、もっとも身近にあったのは、「飢える自由」であった。

 そういう人びとと、コリン・サブロンは会った。

 なかにこういう記述があった。

土地の人びとのあいだでは昔から、寒さがあまりにも厳しいときには言葉そのものが凍って地面に落ちると信じられている。(396)

 ソビエト連邦が崩壊したとき、おそらく言葉そのものも地面に落ちていったのだろう。

 だがその記述のあとはこう続いていた。

春になると、その言葉がふたたび動きだして話しはじめるので、にわかに、古くなったうわさ話、聞いてもらえなかった冗談、もう忘れてしまった痛みの叫び声、ずっと前に別れた愛の言葉で、あたりはいっぱいになるという。

 春が来なかったら、言葉はふたたび動きだしては来ない。

 現在の日本は、「寒さがあまりにも厳しいとき」になっているような気がする。言葉が地面に落ち、大地の裂け目から地中に吸い込まれてしまったのでは、と。

 その代わりに、野蛮な言葉が聞こえるようになった。野蛮な声は、1930年代から40年代前半にも聞こえていた。「暴支膺懲」、「米英撃滅」、「一億玉砕」・・・・。

 この本の末尾に、コリン・サブロンは「その時代に戻ることはないでしょう」とユーリという人に問うた。もちろん「その時代」とはスターリンやヒトラーが権力を握っていた時代である。

 ユーリは答える。

 ・・・ここでは歴史のすすむ足どりが遅いんです。私たちにとっては、時間はいまだに円を描いています。

 私は日本も同じ、時間が円を描いているのではないかと思った。

 ユーリのその答えにコリン・サブロンはなかば失望感を抱いた。それを感じたユーリは、

 「私たちは少し螺旋を描いているのかもしれません」

 と答えた。螺旋は少しずつ「上」に向かう。

 果たして現在の日本は、「円」を描いているのか、それとも「螺旋を描いているのか」。たとえ「螺旋を描」き、「上」に向かっているとしても、その遅い歩みのなかでは「上」が見えない。

 2021年の大晦日に思ったことである。

 

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思い込みが通用する時代

2021-12-30 09:33:10 | 社会

 自分の考えが正しいのかどうか確認するために本を読んだり勉強する文化が、かつてあった。しかしそれは消えた。

 テレビでは、知の世界に足を踏み入れたこともない人びとが勝手なことを語り、人びとに安心感を与えている。そうか知識がなくても語ってよいのだと。もちろん語って悪いわけではない。しかしその語りには責任が伴う。責任を持った語りをするためには、事後にでも、もちろん事前においても、きちんとした裏付けをもつように努力しなければならない。

 それがない。

 そういう社会のありように自信を持った人びとが、匿名性の影に隠れて無知を背景に罵詈雑言を投げつける。そういう社会ができてしまっている。政治家ですら、事実と異なることを平気で話すようになった。

 日本社会は、知を軽蔑する人びとが力を得るようになり、首相にまでそういう人が就任した。

 だが世界をみてみれば、日本だけではなく、アメリカなどでも同じような事象がみられる。

 経済的格差、ひとにぎりの人びと(1%)の総所得が下位の50%の総所得と同じ額になったという報道があった。2000年代半ばの数字である。

 それと同じように、知の格差も広がったのだと思う。

 経済的な不遇と知的世界からの拒絶が一緒になって、憎悪が増幅される。そういう事件が起こる。

 

「被害女性が勝ち組に見えた」小田急線刺傷事件の犯人の“歪んだ女性観”にある背景とは

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メディアは破滅に向かっている

2021-12-28 21:49:44 | メディア

読売新聞と大阪府との包括協定で問われるジャーナリズムの役割

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【本】コリン・サブロン『シベリアの旅』(共同通信社)

2021-12-28 21:08:46 | 

 書庫に入り込んである本をさがしていたら、この本をみつけた。2001年に出版されている。おそらく何かの書評を読んで買い込んだのだろう。買い込んではみたものの、読まずに放置された本はたくさんある。それらを読むことに、今は使命感をもっている。だから、歴史研究から遠ざかり、読書に励む。

 歴史を研究し叙述するという作業は、とてつもなくたいへんだ。史料をよみ、その史料に関係する文献を片っ端から読み、その史料が意味するところを読み取り、それを歴史の展開の中に位置づけながら書いていく作業は、ほんとうにレンガをひとつひとつ積みあげていくという時間のかかるすさまじいものなのだ。だから歴史に関する本をつぎつぎと出版している人は信用できない。

 歴史研究をしていては本を読めない。

 さてこの本はなかなか厚い。しかし読みはじめたらやめられない。著者はイギリス人、ソ連が崩壊した直後、今まで入れなかったシベリアに真っ先に入り込んだ作家である。

 ソ連崩壊直後の風景や人の姿が描かれる。

 ブログを書く気になったのは、そこにソ連の体制下でシベリアの収容所に送られ厳しい労働(石炭採掘、道路建設)を強いられた、それまではベルリンのソ連大使館につとめていた87歳の女性と話す。その中で、コリンが彼女の「黙従」に疑問を抱き質問する場面があった。あまりにひどいことがあったのに怒りもせずにいられることに、おそらく疑問をもったのだ。彼女はずっと共産党員であったが、共産党員であることに誇りをもちつづけ、悪いのはソビエト権力の一部だという。

 そしてドストエフスキーが収容されたオムスクにいく。そこでの「権威は救いだった。ここではずっとそうだったのだ。それは、思想のかわりに平安を与えるものだった」(87)という文に、民衆の本質が指摘されていると思った。

 この本はまだまだ読み終わらない。途中経過を書くこともあるだろう。

 

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【本】森政稔『戦後「社会科学」の思想』(NHK出版)

2021-12-28 16:04:31 | 

 どこかの新聞の書評でこの本が紹介されていた。その時に注文して購入したものだ。

 森の東大教養学部での講義ノートがもとになって書かれたもので、そのためか前後するところがあり、またみずからの思考を断定的に述べるものでもなく、いろいろな社会科学の言説を批評しつつ紹介するという内容となっている。

 私の世代は、マルクスやウェーバーらの本を読み、またその関係の社会科学の文献を読みながら生きてきた。本書には、丸山真男、内田義彦、平田清明、松下圭一らの本が紹介されている。これらの学者の本はかなり読んできた。丸山についてはすでに重要な文献を読んではいるが、『丸山真男集』など全巻購入している。

 平田の『市民社会と社会主義』は今でも書棚の目につくところにおいてある。主要な論文は『世界』に書かれていたが、私は注目して読んだ。まだ日本の政治や社会に希望があった時代の本である。

 しかし今や、私たちが読み進めてきた本は、時代遅れであるかのようになっている。確かに、新自由主義が席捲するこの時代に、未だ夢を持てた時代の本は、時代遅れと言われても仕方がない。今は夢を持てない、良い方向への改革すら展望できない時代にある。

 であるからこそ、過去の様々な言説を振り返ることが必要なのだろう。本書はそのために書かれたようだ。

 森は各所でさらっと私見を開示しているが、その私見に言いたいことはたくさんあったが、一つだけ記しておく。

 第6章「奇妙な「革命」」で、1960年代から70年代にかけての「叛乱」の背景について「なぜ豊かさのなかで叛乱が起こったか」という項目を立てている。共同体からの離脱による孤独(「個」)、「自分探し」などということばが掲げられているが、私はそうした言説に対して異を唱えている。その背景には、ベトナム戦争があった、そのことを指摘しない限り「なぜ」の解答にはならないと思う。私は「団塊の世代」の少し後の世代であり、また「叛乱」のなかに入っていた経験から、ベトナム戦争なしにはそのような「叛乱」は生じなかったと思う。

 また1970年代の動きとして、 

「・・・・左翼の退潮と共に保守が論壇の主役となって主客が交代する。 戦後の文脈では保守的知識人の自己認識として、大学や論壇を左翼系が独占していることへの抗議があったが、この時代になると逆転が始まることになる。」(234)

 という指摘がある。いまやそれはふつうの状態となり、右派系の扇情的な雑誌が大量に積まれ、『世界』などは隅に押しやられている。また大学や研究者のなかには、「左翼」を冷笑する者たちが増えているように思われる。人権、平和、民主主義の主唱者であった学者・研究者たちのもとで育ってきた者たち、なかでも男たちにそうした特徴がある。

 「われわれが従っている制度や規範、イデオロギーなどに究極の根拠などないことは、今では誰もが知っており、知りながら従っている振りをする時代になった。そうなれば根拠などないという言説自体の価値がなくなってしまった。ポストモダン言説が消費し尽くされ、時代遅れになったあと、いわば本当にポストモダンな時代が到来したということができよう。「ガバナンス」や「コンプライアンス」といった「根拠になりえないような根拠」に由来する言葉が人々のふるまいを規制し尽くす時代は、そういう(ポストモダンな)時代なのである。」(268)

 ポストモダンの言説は、一面では「権威」を否定したが、もう一面では「知」というものを葬り去った。かくて、知的劣化の激しい時代へと突入し、「知」は力をもてなくなった。「ポストモダニズムが終焉を告げた事柄のひとつは、知識人の時代が終わるということだった。」(267)という指摘の通り、現在は「知」が見向きもされなくなっている。

 社会科学の言説の展開は、社会科学的な「知」を葬るものとなった。そして「現実」という克服されるべき対象が、「現実」であるがゆえに堂々と振る舞うようになった。なぜなら、「知」にもとづく「現実」に対する批判それ自体が批判されるようになったからだ。

 「現実」は「知」にもとづく批判によってこそ、よりよき「現実」となっていくはずである。そこにこそ、社会科学の存在価値があるはずだ。

 私たちは、そういうものとして「社会科学」を学んできた。

 本書は、著者の私見に異を唱えながらも、「社会科学」の言説を振り返る簡便なもの、ということができよう。

 

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スポーツ競技は利権の塊

2021-12-27 19:04:19 | 政治

 学校の部活動など、スポーツにはカネがついて回る。そのトップに位置するオリンピックは、ばく大なカネが動き、スポーツ関係者はそのなかからみずからの分け前を受けとる。

 報道特集の報道は、その一端に迫った。

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メディアの暴走

2021-12-26 16:20:34 | 社会

 テレビは見ていないがネットでニュースの幾つかは見ているが、メディアの自民党・公明党政権への協力が度を過ぎていると思う。

 先の総選挙で立憲民主党と日本共産党などが選挙協力し、小選挙区では成果をあげることができた。ただ比例においては、両党の支持が拡がることはなかったことは事実である。

 しかし衆議院での小選挙区、参議院での地方区選挙においては野党が選挙協力をしなければ、自民党・公明党の野合勢力に勝つことは難しい。

 2022年は参議院議員選挙があるが、自民党・公明党は、野党の選挙協力を何としてでも防ぎたい。その任務をまず連合の新しい会長が果たそうとし、すべてのメディアが総選挙に於ける野党共闘を大々的に批判し、それを繰り返した。

 その結果どうなったか。次のニュース。

立憲民主、やっぱり低迷…代表が変わっても〝ぱっとしない〟理由 見せ場作りが上手な維新、ますます存在感

 私は以前から言っているが、世論調査というのは、いわば定期試験のようなもので、メディアが一生懸命報じたことがどれほど国民の中に浸透したのかをテストするようなものだということである。

 見事に、メディアはその目的を達した。

 女性史研究家のもろさわようこさんはこう書いている。1945年敗戦の頃の感慨である。

正義の味方だと思っていたマスコミが、そのときどきの権力の同伴者であり、権力側の味方でしかないことをこのとき身に沁みてわかりました。」(『新編おんなの戦後史』)

 メディアは、その本質をいよいよ明確にしつつある、というのが私の認識である。

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【本】新谷尚紀『神社とは何か』(講談社現代新書)

2021-12-25 10:07:33 | 

 新谷は民俗学者である。自治体史で民俗学者と一緒に仕事をしたとき、民俗学者の事実(史実)確定のいい加減さを知って、それ以後民俗学に信をおかなくなった。

 私は、故田村貞雄さんの秋葉信仰研究に伴走する中で、明治初期の神仏分離政策に関心を抱き、その関係の文献を読んできた。出版されたばかりの本書も、その一環から購入したのだが、本書は民俗学の知見だけではなく、文献資料なども援用しながら「神社とは何か」について論じたものである。

 しかし「神社とは何か」という問いに対して明確な定義はできていないように思われた。それは当然であり、日本列島の長い歴史のなかで変遷を重ねてきていて、その変遷をそのまま重層的に記すしか、その答えはでてこないからである。

 「神社」という漢語の初見は、684年だという。それをあえて訓読みすれば、「かみのやしろ」ということになる。かみのいるところ、という意味である。

 日本列島に住む人々が、何故にカミを「かみ」と言うようになったのか。国語学者の大野晋がその語源を調べたがそれは確か判明しなかったということだったように記憶している。大野が編纂した『古語辞典』(岩波書店)には「かみ」は「古形カムの転」とある。「かむ」は複合語にたくさんある。「かむながら」「かむなづき」「かむぬし」・・・読むときは「かむ」ではなく「かん」と言うことが多い。

 アイヌ語の「かみ」は、「カムイ」である。私は勝手に、「かみ」はアイヌ語の「カムイ」を祖語としているのではないかと思っている。アイヌは、つまり縄文時代の日本列島の住人ではないかと思ってもいるからだ。

 さて本書であるが、一挙に読んだ。ということは新たな知見、それも根拠なき知見ではなく、きちんとした根拠をもった(もちろんなかには推測もあるが)知見が、ちりばめられていたからだ。その意味で教えられるところが多かった。

 神社信仰も、宗教のひとつである。宗教の誕生は、以下のように記される。妥当な説明であり、本書でなくとも、同じような記述を読んだこともある。

 ホモ・サピエンスにとって、死の発見は他界観念と霊魂観念の発生であった。つまり、宗教の誕生である。死の恐怖の扉を開けてしまったホモ・サピエンスは、一気に精神世界のビックバンの中に投入されてしまい、あの世とこの世、生きていることの不思議、を考えることから逃れられない種となってしまったのである。だから、世界中のあらゆる社会を訪れてみても、霊魂的な観念を反映させる何らかの装置がない社会はどこにもない、一つもないのである。(20)

 神社信仰は、「神道」と呼ばれ、「日本古来の民族信仰」だとされる。その信仰のうち、神社の変遷をいくつかの視点から叙述したものが本書の内容である。そのためには、実在する神社を、その建築様式、神体、位置などから分析を加える。

 「日本の神社というのは、様々な背景からそれぞれの社殿が造営されてきたのであり、単系的な発展や展開を示すものではない。」(137)とあるように、神社だけではなく神社信仰もそういうものとして存在しているのだろう。

 本書は、「神社とは何か」を考える際の貴重な材料を提示してくれていると思う。

 良い本である。

 

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オミクロンがやってくる

2021-12-24 18:54:33 | コロナ

 オミクロン株の市中感染が広まっている。もうすでにかなり広がっていることだろう。

 原因は二つ。一つは外国からの入国者に対してPCR検査をきちんとやっていないからだ。もう一つは、米軍関係者は検疫もなく入国できるからだ。

 今後、日本国内で感染者は大幅に増えていくことだろう。

 オミクロンが主流になっていくだろうが、デルタ株もある。PCR検査を積極的におこない、感染ウィルスがそのどちらかであるかを早期に判断しなければならない。

 いまもって、日本は検査態勢が十分ではない。またそれを整備する用意もない。また再び自宅に放置される患者もでてくるだろう。

 10月末の選挙に表れたように、日本国民は、感染者が急増し、政府の無策・愚策により次々と亡くなっていく事態があっても怒らないことが判明している。

 同じことが繰り返されることだろう。

 

 

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読む価値あり

2021-12-21 10:40:49 | 学問

京都学派の思想とその多重性とは。能勢陽子評「ホー・ツーニェン:ヴォイス・オブ・ヴォイド−虚無の声」展

 唱えられた「無」には、そのなかに様々な「有」を入れ込むことができるようになる。しかしその「有」は結局「無」に帰するわけだから、責任は霧散解消する。

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隷属国・日本の姿

2021-12-17 20:53:18 | 政治

「成田で陽性、沖縄入り」海兵隊員を米軍処罰 外務省は詳細公表せず

 こうして日本人の安全安心は、米軍によって壊されていく。何が安全保障だ!!!

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国交相不正官僚は出世する

2021-12-17 10:54:08 | 政治

国交省・統計データ二重計上問題 実行部隊の「局長」は全員偉くなっていた!

 さすがに、腐りきっている日本の省庁、政府が腐ればすべてが腐る。霞ヶ関、永田町は腐臭だらけ。

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労働現場の改善を

2021-12-17 08:21:55 | 社会

 コロナの影響により外国人観光客は大幅に減った。彼らは日本に来て、「安い、安い」といって、いろいろなものを買い、食べカネをつかう。なぜ安いのか。日本の労働者の賃金が安いから、そうした労働者の賃金に対応して物価が相対的に安くなっている。

 日本の労働者の賃金を下げたい、と思っていた経済界は1995年に「新時代の『日本的経営』」をだした。労働者を三分割して、ふつうの労働者を低賃金で働かせようとしたのである。その方向に、労働法制は変更されてきた。労働者の非正規化が進み、公務員の世界でも非正規化をすすめ、窓口にいるのはほとんどが非正規である。

 それと歩調を合わせるように、労働組合の世界も変質した。賃上げ闘争などを積極的に行ってきた総評系労働組合をつぶすなかで、組合を企業経営者の意向を尊重し、社の意向を労働者に周知徹底させる組織へと変えていった。それが「連合」である。労働組合の幹部人事は、したがって社内の人事の一環となっていった。組合の幹部が管理職へと昇進していく。

 労働組合は経営者の意向を実行する組織である。したがってその会社に非正規の労働者がいて彼らが組合を結成するなんてもってのほかであるから、また非正規の労働者が組合活動するなんて許容できかったから、組合は非正規の労働者を放置していた。

 昨日の『東京新聞』特報欄は、アパレル業界に於ける労働組合結成の記事であった。

 あたりまえのことであるが、労働者は団結しないと賃金も上がらないし、労働環境もよくならない。そのために憲法28条がある。

 日本の労働者の低賃金状況を改善するためには、まずもって労働者自身が立ちあがらなければどうにもならないのだ。

 私は、労働者が組合を組織して経営者と交渉していくという当然のことが行われていくことを期待している。

 在職中、私は御用組合ではない労働組合に属していた。組織は小さかったが、ひとりひとりは独立し、管理職にいうべきことをきちんと言いながら働いてきた。だから職場環境は悪くはなかった。

 自分の周りを改善するためには、労働者が手をつなぎ動き始めることが必要だ。

 

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