浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

『世界』を読む(2)

2016-03-17 15:55:04 | その他
 『世界』4月号には、イ・ナヨンさんと北原みのりさんとの対談がある。「戦時性暴力システムを問う」である。先日、NHKの「クローズアップ現代」で、シリア方面でのISによる性暴力に関して報じていた。見ていると本当に身の毛がよだつような凄まじさである。異教徒の女性を性暴力に曝し、人間性を破壊するISの所業を見ると、彼らには一切の正当性がないと判断できる。

 本号の対談は、戦時下の日本軍による性暴力に関するものだ。日本政府と韓国政府との間における「合意」が行われたことが、この対談の理由でもある。しかしこの合意は、当事者の声をまったく聴取することなく行われたもので、事後にやっと韓国政府の高官が面談を行ったという代物で、「合意文書」も存在しないという変則的な外交合意である。

 対談の中で、朴裕河の『帝国の慰安婦』(平凡社)に言及している。ボクはこの本は読んでもいないし、買う気もしない。というのも、朴の『和解のために』(平凡社)を読んでいるからだ。
 朴の手法は、無数の事実を「これもある、これもある・・・」と列挙していき、すべてを相対化しながら論を進めるというものだ。
 言うまでもなく、事実には軽重がある、あるいは本質を顕現する事実、瑣末な事実、本質を隠すためにおこなわれた行為(事実)・・・・など。それら無数に存在する事実を、「並列的に」扱うのではなく、それらを批判的に相互に関連させながら、立体的に本質を究めていく、それが学問だろうと思う。『和解のために』を読んでいると、そうした学問的な手法を「本質主義的」として非難し、ダラダラと様々な文献を並べていき、結局朴は本質を曇らせるために著述しているのではないかと思ってしまうほどだ。

 朴は、歴史的事実に関してWikipediaに依存するという、およそ非学問的な手続きをとっていることだけではなく、朴の論の進め方は上記のようにまったく学問的ではない。

 対談で、イさんは『帝国の慰安婦』は、「学術ではなく、ほとんど小説と言っていいものです」と語る。「読んでみて価値のないもの」とも判断したともいう。その通りだと思う。

 この本の内容に関し、もと「慰安婦」の方々が、朴を名誉毀損で訴えたこと、それに対し、日本から学問には学問的に対応すべきだという声が上がったことも記されている。

 朴の視野は狭く、「慰安婦」問題を日韓関係の中に矮小化しているが、「慰安婦」問題はそうした狭小な視野ではなく、古今東西の戦時性暴力システムを問題とするものだ。韓国の挺対協が「慰安婦」問題に取り組んだことにより、「戦時性暴力」システムが世界的に取り上げられていったのである。

 イさんの、

 「慰安婦」問題は、韓国が日本に対して何か恨みを晴らすとか、韓国人が日本人に対して怒りを表出すると言う問題ではないということです。歴史的な不正義に対して、今生きる私たちがきちんと責任をとらなければ、未来にそれが繰り返され、次の世代が新たな責任を負わなくてはならなくなる。こう思うからこそ、私たちの責任として、今ある問題を解決しなくてはいけない。歴史的な不正義をこの代で解決し、未来に対する責任を果たそうとする運動になっている

 ということばは、「慰安婦」問題の本質を衝いていると思う。

 朴は歴史を専攻しているのではなく、日本近代文学が専門のようである。文学研究の手法とは、この作家はこうも言っている、こういうことも言っている、だからこうも考えられる、こういうことも考えられる・・・・というように論を進めていくのだろうか。

 そういう展開の仕方は、学問的ではないと、ボクは思う。それがなぜか日本の知識人にも受け入れられている。おそらく日本人にとって心地がよいのだろう。心地よいことが歴史の本質ではないこと、その心地よさに、日本人の歴史認識のあり方が問われているのだろうと思う。

コメント
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