国家の指導者に忠誠を誓って、国家の指導者が右向けといわれれば右を向く、そういう国民を好む人びとがいる。「教育再生会議」の人びとだ。
北朝鮮の国家体制は、戦前の近代天皇制国家がモデルだという説がある。北朝鮮では、国家の指導者の写真を教室などに掲示している。
戦前の日本の学校には天皇・皇后の写真(これをご真影といった)が保管されている奉安殿があった。登校してくる子どもたちは奉安殿に最敬礼させられた。そして祝祭日には、そのご真影が講堂などに掲示され、学校長は国家への忠誠を強制する教育勅語を「奉読」し、子どもたちはそれを聞かされた。
「修身」という授業があって、そこでは忠君愛国の教育が行われた。
こうした時代に郷愁を抱き、学校に「修身」を復活させたい人びと。忠君愛国の教科書をつかわせ、忠君愛国の意思をもつ子どもたちを育てたい、と心から望んでいるようだ。それはまさに北朝鮮の姿でもある。
今日の『中日新聞』の社説である。
いじめと道徳 心に成績をつけるのか
2013年2月28日
いじめ対策として政府の教育再生実行会議がまとめた提言は、冒頭に道徳の教科化を掲げた。「良い子」でいることを競わせ、成績をつけるのか。いじめの現実に立ち向かう手だてこそ考えたい。
安倍晋三首相に出された提言には多岐にわたる方策が盛り込まれた。例えば、いじめに対応するための法律を作る。学校は相談体制を整え、家庭や地域、警察と連携する。重大ないじめは第三者的組織が解決する。そんな具合だ。
どれも目新しくはないが、地に足の着いた中身だ。すでに先取りしている自治体さえある。絶えず実効性を確かめつつ仕組みを向上させてほしい。
とはいえ、筆頭に出てくる道徳を教科に格上げするという方策は、いじめの問題とどう結びつくのかよくわからない。いじめ自殺のあった大津市の中学校は道徳教育のモデル校だったではないか。
小中学校では週一回程度の「道徳の時間」が設けられ、副読本の「心のノート」を使って授業が行われている。教科ではないから成績評価はなされていない。
提言によれば、充実した道徳教育が行われるかどうかは学校や先生によって左右される。だから教材を見直して教科として位置づけ、指導方法を打ち出すという。
もちろん、子どもが成長に応じて思いやりの気持ちや規範意識を身につけることは大切だ。社会の構成員として高い徳性を培うための教育そのものに異論はない。
しかし、道徳が教科になれば検定教科書が用いられ、心のありようがテストされて順位づけされないか。国の価値観や考え方が押しつけられないか。心配になる。
国語や社会、算数とは違い、道徳とは体系立てられた知識や技術を習得するものではない。子どもが学校や家庭、地域で褒められたり、叱られたりして考え、感じ取っていくものだろう。学校の道徳教育はその一助にすぎない。
東日本大震災の光景を思い出してみよう。被災地では大きな暴動や略奪は見られず、人々は譲り合い、助け合って修羅場をくぐり抜けてきた。その姿は世界中に感動を与えた。日本の人々は道徳心をたっぷりと備えている。
いじめる子の心は根っから荒(すさ)んでいるのか。家族崩壊や虐待、貧困、勉強疲れからストレスを抱え込んでいるかもしれない。背景事情に考えを巡らせる必要がある。
大人の世界にもひどいいじめがある。道徳とは世代を超えて日々共に学び合うべきものだろう。
北朝鮮の国家体制は、戦前の近代天皇制国家がモデルだという説がある。北朝鮮では、国家の指導者の写真を教室などに掲示している。
戦前の日本の学校には天皇・皇后の写真(これをご真影といった)が保管されている奉安殿があった。登校してくる子どもたちは奉安殿に最敬礼させられた。そして祝祭日には、そのご真影が講堂などに掲示され、学校長は国家への忠誠を強制する教育勅語を「奉読」し、子どもたちはそれを聞かされた。
「修身」という授業があって、そこでは忠君愛国の教育が行われた。
こうした時代に郷愁を抱き、学校に「修身」を復活させたい人びと。忠君愛国の教科書をつかわせ、忠君愛国の意思をもつ子どもたちを育てたい、と心から望んでいるようだ。それはまさに北朝鮮の姿でもある。
今日の『中日新聞』の社説である。
いじめと道徳 心に成績をつけるのか
2013年2月28日
いじめ対策として政府の教育再生実行会議がまとめた提言は、冒頭に道徳の教科化を掲げた。「良い子」でいることを競わせ、成績をつけるのか。いじめの現実に立ち向かう手だてこそ考えたい。
安倍晋三首相に出された提言には多岐にわたる方策が盛り込まれた。例えば、いじめに対応するための法律を作る。学校は相談体制を整え、家庭や地域、警察と連携する。重大ないじめは第三者的組織が解決する。そんな具合だ。
どれも目新しくはないが、地に足の着いた中身だ。すでに先取りしている自治体さえある。絶えず実効性を確かめつつ仕組みを向上させてほしい。
とはいえ、筆頭に出てくる道徳を教科に格上げするという方策は、いじめの問題とどう結びつくのかよくわからない。いじめ自殺のあった大津市の中学校は道徳教育のモデル校だったではないか。
小中学校では週一回程度の「道徳の時間」が設けられ、副読本の「心のノート」を使って授業が行われている。教科ではないから成績評価はなされていない。
提言によれば、充実した道徳教育が行われるかどうかは学校や先生によって左右される。だから教材を見直して教科として位置づけ、指導方法を打ち出すという。
もちろん、子どもが成長に応じて思いやりの気持ちや規範意識を身につけることは大切だ。社会の構成員として高い徳性を培うための教育そのものに異論はない。
しかし、道徳が教科になれば検定教科書が用いられ、心のありようがテストされて順位づけされないか。国の価値観や考え方が押しつけられないか。心配になる。
国語や社会、算数とは違い、道徳とは体系立てられた知識や技術を習得するものではない。子どもが学校や家庭、地域で褒められたり、叱られたりして考え、感じ取っていくものだろう。学校の道徳教育はその一助にすぎない。
東日本大震災の光景を思い出してみよう。被災地では大きな暴動や略奪は見られず、人々は譲り合い、助け合って修羅場をくぐり抜けてきた。その姿は世界中に感動を与えた。日本の人々は道徳心をたっぷりと備えている。
いじめる子の心は根っから荒(すさ)んでいるのか。家族崩壊や虐待、貧困、勉強疲れからストレスを抱え込んでいるかもしれない。背景事情に考えを巡らせる必要がある。
大人の世界にもひどいいじめがある。道徳とは世代を超えて日々共に学び合うべきものだろう。