浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

北朝鮮を好む人びと

2013-02-28 18:20:27 | 日記
 国家の指導者に忠誠を誓って、国家の指導者が右向けといわれれば右を向く、そういう国民を好む人びとがいる。「教育再生会議」の人びとだ。

 北朝鮮の国家体制は、戦前の近代天皇制国家がモデルだという説がある。北朝鮮では、国家の指導者の写真を教室などに掲示している。

 戦前の日本の学校には天皇・皇后の写真(これをご真影といった)が保管されている奉安殿があった。登校してくる子どもたちは奉安殿に最敬礼させられた。そして祝祭日には、そのご真影が講堂などに掲示され、学校長は国家への忠誠を強制する教育勅語を「奉読」し、子どもたちはそれを聞かされた。
 
 「修身」という授業があって、そこでは忠君愛国の教育が行われた。

 こうした時代に郷愁を抱き、学校に「修身」を復活させたい人びと。忠君愛国の教科書をつかわせ、忠君愛国の意思をもつ子どもたちを育てたい、と心から望んでいるようだ。それはまさに北朝鮮の姿でもある。

 今日の『中日新聞』の社説である。


いじめと道徳 心に成績をつけるのか
2013年2月28日

 いじめ対策として政府の教育再生実行会議がまとめた提言は、冒頭に道徳の教科化を掲げた。「良い子」でいることを競わせ、成績をつけるのか。いじめの現実に立ち向かう手だてこそ考えたい。

 安倍晋三首相に出された提言には多岐にわたる方策が盛り込まれた。例えば、いじめに対応するための法律を作る。学校は相談体制を整え、家庭や地域、警察と連携する。重大ないじめは第三者的組織が解決する。そんな具合だ。

 どれも目新しくはないが、地に足の着いた中身だ。すでに先取りしている自治体さえある。絶えず実効性を確かめつつ仕組みを向上させてほしい。

 とはいえ、筆頭に出てくる道徳を教科に格上げするという方策は、いじめの問題とどう結びつくのかよくわからない。いじめ自殺のあった大津市の中学校は道徳教育のモデル校だったではないか。

 小中学校では週一回程度の「道徳の時間」が設けられ、副読本の「心のノート」を使って授業が行われている。教科ではないから成績評価はなされていない。

 提言によれば、充実した道徳教育が行われるかどうかは学校や先生によって左右される。だから教材を見直して教科として位置づけ、指導方法を打ち出すという。

 もちろん、子どもが成長に応じて思いやりの気持ちや規範意識を身につけることは大切だ。社会の構成員として高い徳性を培うための教育そのものに異論はない。

 しかし、道徳が教科になれば検定教科書が用いられ、心のありようがテストされて順位づけされないか。国の価値観や考え方が押しつけられないか。心配になる。

 国語や社会、算数とは違い、道徳とは体系立てられた知識や技術を習得するものではない。子どもが学校や家庭、地域で褒められたり、叱られたりして考え、感じ取っていくものだろう。学校の道徳教育はその一助にすぎない。

 東日本大震災の光景を思い出してみよう。被災地では大きな暴動や略奪は見られず、人々は譲り合い、助け合って修羅場をくぐり抜けてきた。その姿は世界中に感動を与えた。日本の人々は道徳心をたっぷりと備えている。

 いじめる子の心は根っから荒(すさ)んでいるのか。家族崩壊や虐待、貧困、勉強疲れからストレスを抱え込んでいるかもしれない。背景事情に考えを巡らせる必要がある。

 大人の世界にもひどいいじめがある。道徳とは世代を超えて日々共に学び合うべきものだろう。
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不安定なかの安定志向

2013-02-28 09:43:17 | 日記
 先が見えない時代、といっても、少子高齢化は劇的に進んでいくから、先は日本の衰退ないしは衰滅であろう。そういう時代に何とか生き抜こうという姿勢を持った若者は、医学部に殺到しているという。理学部なんかより、とりあえず職がある医者になろうという思考が、成績上位者にあると、「いつやるか、今でしょ」で有名な予備校講師の林修さんは書いている。

 若者は生き抜くために保守化しているのだそうだ。

 地方公務員(教員も含む)の給与、退職金は、これも劇的に減らされ、公務員は安定しているといわれながらの給与削減。これに国民も快哉を叫ぶ。

 公務員の給与は確かに相対的には安定している。景気が良くなって、民間の給与が劇的に増加しても公務員にはほんの少しのおこぼれが渡されるだけで、民間の労働者諸氏が浮き世の春を楽しんで無数の宴を囲んでいても、ちらっと見てやり過ごす。バブルの時、民間給与が通常の年収の二倍になったということを聞いたことがある。しかし公務員には、そういうことはありえない。民間が不景気になり、民間給与が減っていくと、もちろん給与は削減されていく。

 なぜかそうなると、マスメディアも含めて、国民は喜ぶのだ。

 日本人は足の引っ張り合いが好きのようだ。

 そうではなく、みんなで足並みをそろえて、給与が上昇していくようにすべきであるのに、そうはしない。

 公務員でも、中央省庁のエリート官僚は給与が高く、天下り先も用意されている。

 しかし、国民はそういう上級公務員、あるいは国会議員の歳費などを攻撃することはまずない。近くにいる公務員の給与や退職金を「ねたむ」のだ。

 一般公務員の給与の削減は、民間労働者の賃金の削減などに必然的につながっていく。公務員の退職金が減らされれば、民間のそれも減らされていくだろう。

 そうではなく、賃金の低下を防ぎ、賃金の上昇を、足並みをそろえて獲得していくというようにならないものか。

 昔は労働組合が「春闘」という、給与アップをめざした運動を繰り広げた。しかし今やそれは過去の
話。年度途中で退職金が削減されても、労働者は声を上げない。

 支配層に都合の良い社会が出来上がった。そのなかで、支配層の思考に沿うような、安定志向の若者が生み出されているようだ。

 その支配層は、近視眼的な政治に精力を注ぎ、短期的に金儲けが出来ればあとは野となれ山となれとばかりに動いている。

 少子高齢化の進展は、日本の衰滅につながる。今の支配層は、ナショナリストのようでいて、実はそうではない。それを見抜くことが出来なければならない。
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葬儀費用  “曹洞宗の坊主丸儲け”

2013-02-27 20:32:59 | 日記
 今日葬儀に参列した。宗派は曹洞宗である。

 いったい葬儀にどれくらいのお金がかかるのか。今日参列した家の場合、葬儀社にいくら支払ったかは知らないが、寺院へは125万円だという。

 寺院や宗派によって、あるいは地域によって、葬儀時に支払う金額は千差万別だというが、ボクはその金額125万円と聞いて、葬儀はやめたくなった。

 本来仏教というのは、生きている人のための宗教であったのに、現在の日本では、ほとんど「葬式仏教」である。地域では、葬式や法事の時だけ、僧と接する。寺院は、人の死によりカネを得る。

 一体相場はいくらくらいかを調べたら、2010年に日本消費者協会が葬儀費用について調査したそうだ。それによると、

  葬儀費用一式  1,266,593円
  飲食接待費用   454,716円
  寺院の費用 514,456円
  葬儀費用の合計 1,998,861円

ということのようだ。となると、私の地域での125万円は、平均の2倍以上ということになる。何と葬儀費用300万円!!

 寺は宗教法人だから、布施に課税されないから、まさに「坊主丸儲け」ということになる。

 退廃する仏教界の金儲け主義。仏教界の退廃は、仏教界の衰退、さらに衰滅への道である。


[追記]

 ここに書いた125万円。寺では葬儀当日に現金で支払って欲しいといってきたという。葬儀を出した家は、お金をかき集めて寺に納めた。葬儀という、家族にとってきわめて重要な、しかし悲しみにうちひしがれたその当日に、カネを出させる寺院。

 そうしたら、今日の『中日新聞』のテレビ欄に、曹洞宗「東海管区教化センター」の広告があった。その広告の文面は、「人の喜びは私の幸せ」。曹洞宗は、「檀家のカネは俺のカネ」、「人の悲しみはカネの種」、「人の悲しむ日は、カネを生み出す日」・・・という宗教であると、ボクは思っていた。こういう広告を出す前に、曹洞宗の坊主を集めて「教化」すべきではないか。

http://soto-tokai.net/

 その寺の住職は、「ありがとう」ということばが好きなようだ。それはそうだろう、檀家から大金をせしめているのだから。「ありがとうから頂くありがとう」ということばがあったが、どういう意味だろう。「頂く」は、カネを「頂く」ことなのか。



 
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風のない日

2013-02-26 21:31:22 | 日記
 今日の浜松地方は晴れ、そして風がない。こんな日は、あまりない。朝起きてから、今日何を行うかを考えた。

 親戚の法事のために生花を注文すること。今日までの原稿を二本書いて送ること。高齢者世帯の調査を済ますこと。じゃがいもを植えること。通夜に出ること。質問状をつくること。図書館に行くこと。

 生花は注文した。「時代の変化をとらえること」、「大杉栄・伊藤野枝・橘宗一虐殺90年」という二本の文を書き上げて送付した。いずれも某団体の機関紙への寄稿である。高齢者世帯の調査は、留守のため2世帯ができなかった。じゃがいもを植えることはできた。男爵である。質問状をつくり家人に見せた。公的団体に対する抗議をこめた質問状である。はたしてきちんと回答してくるか、もし回答がない場合は、他の抵抗の手段をとろうと思う。

 そして通夜。図書館へは行けなかった。

 したがって、今日活字を読むことはなく、ボクがいくつかの文を書くだけで終わった。

 明日は葬儀。その後、浜松市政についての調査活動に主体的に参加する。しばらく忙しい。
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世論

2013-02-25 15:59:41 | 日記
 世論調査というのは、つかむことができない国民意識を、あたかも少数のサンプル調査の結果で、まことしやかにつかむことができたと宣伝する、悪しき政治的行為である。

 だがこの悪しき政治的行為が、一定の政治的効果を生む。

 今日の朝刊に、共同通信配信記事がでていた。TPP参加に、63%が賛成というのだ。

共同通信社が23、24両日実施した全国電話世論調査によると、環太平洋連携協定(TPP)の交渉参加に賛成は、前回1月調査の53・0%から10ポイント増の63・0%に上った。日米首脳会談で「聖域なき関税撤廃が前提でない」と認められたのを受けて賛成論が広がった形だ。反対は24・7%。安倍内閣の支持率は前回比6・1ポイント増の72・8%に上昇。民主党支持率は6・0%で、旧民主党などが合流した平成10年の結党以来最低となった。

 TPP交渉参加に賛成する理由(二つまで回答)は、「貿易自由化は世界の流れで、日本にとっても不可欠だから」の59・2%、「日本企業の輸出機会が増え、韓国などに対抗できるから」の43・0%が上位。反対理由の最多は「農業が打撃を受け、農地が荒れて環境面への影響があるから」の45・4%。内閣支持率の70%超えは平成21年9月の鳩山内閣発足当初以来となる。


 だがTPPについて、どれだけの人が認識しているだろうか。確かに新聞やテレビは、報道はしている。だが、その問題点についてのきちんとした報道はない。したがって、TPPが抱える問題をほとんどしらないから、上記の設問の、下線を引いた部分に着目すれば(ご丁寧に、設問の選択肢はTPP参加に肯定的である)、多くの人は賛成としてしまうだろう。「貿易自由化は世界の流れ」といわれ、「日本企業の輸出機会が増え、韓国などに対抗できる」のなら、賛成しようと思うだろう。

 国民健康保険や農業の問題など、TPP参加によって引き起こされるであろう事態をまず記しておいて、あなたはどう考えるかなら、まだ良い。こうした調査は、きわめて誘導的であるというしかない。

 TPPの問題については、下記のサイトにアクセスして欲しい。

http://uekusak.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-9e9b.html

http://igajin.blog.so-net.ne.jp/2013-02-24

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/tpp51-ad7a.html
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無知

2013-02-24 21:44:52 | 日記
 今日は朝から冷たい西風が間断なく吹きつけていた。それも唸りをあげながら。夜になって風の音はやんだが、シンシンと冷えてきている。今までにない寒さだ。暖房のない部屋の壁からは、寒気が湧きだしているようだ。

 ボクはアルコールをほとんど飲まないが、机に向かうために仕方なく焼酎をお湯割りで飲んでいる。もちろんほとんどがお湯で、ほんの少しが焼酎だ。でもそれを飲むと、体が温かくなる。

 借りていた本、『世界文学のフロンティア5 「私の謎」』(岩波書店)所収の、「記憶の場所」という文を読んだ。トニ・モリスンというアメリカの女性作家が講演会で話したもの。彼女は黒人である。1993年にノーベル文学賞を受賞している。

 ボクはこの作家についてまったく知らなかった。何かの本で、この文を引用していたので読んでみたくなったのだ。彼女は、「黒人奴隷として始まった自分たちの祖先にこだわり、語られ得なかった過去、忘れられ得ない過去に声を与えることを自らの使命だと」(解説文)している、という。

 ボクがやっている歴史研究も、そういう観点を持っている。だから親近感がある。もちろん歴史学であるから、史料なしにはそうした過去に声を与えることはできない。だが、忘れてはならない過去に声を与えることは、とても重要だと思う。その意味では、文学からも学ぶことがあるのではないかと思うのだ。

 さてこの講演。含蓄のある文があった。

 「事実は人間の知性なしで存在しえますが、真実はそうではありません」(201)そのためには、まずイメージだと、いう。「イメージからテクストへと動く想起です。テクストからイメージではありません」。

 ウーム、そうした方法を、ボクは彼女の小説から学ばなければならないと思った。

 「作家の記述がいかに「フィクショナル」であったとしても、あるいはどれほど創意の産物であったとしても、想像の行為は記憶と深く結びついている」(206)

 いったいどういう小説を書いているのか、これは読んでみなければならない。「ソロモンの歌」、「青い眼が欲しい」、「スーラ」、「ビラヴド(愛されし者)」などがあるという。『白さと想像力』(朝日選書、1994)という評論もあるようだ。

 読まなければならない本が無数にある。無知を少しでもなくしていきたい。
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【本】東海テレビ取材班『名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の半世紀』(岩波書店)

2013-02-24 17:21:41 | 日記
 死刑囚とされた奥西勝さんは、すでに87歳。農薬が入れられたぶどう酒を飲んだ地元の村人の女性が5人亡くなった。その中には奥西さんの妻もいる。

 重要参考人とされた奥西さんは「自白」をする。しかし奥西さんを犯人とする物証はなにもない。証言も、奥西さんを犯人とするものはひとつもない。

 検察や警察は、奥西さんを犯人とするために、証言を変えさせた。

 第一審は無罪判決であった。しかし第二審は死刑判決。上告も棄却され、死刑は確定した。しかし奥西さんは何度も何度も再審を申請した。

 東海テレビは、この事件をひたすら追い続けた。その事件と、追い続けた結果が、“約束”という映画となった。

 正直言ってこの本は、おもしろい本ではない。えん罪事件を扱っているから当然といえば当然だ。第二章、第五章は、それぞれ支援者の日記、奥西さんの母親の手紙で構成しているので、冗長な気がしないでもない。
 だが、本書を読めば、名張毒ぶどう酒事件の全体像をつかみ、またえん罪事件に共通するものを発見できる。

 それを前提にして、本書の白眉は序章にあると思う。なぜ東海テレビが取材を続けたのか。

 地方の民放テレビ局は、一般的にキー局からの電波を受けてそれを地元に流し、夕方の一部の番組だけをおもしろおかしく制作する。もちろん日々の地方ニュースも取材して放映する。それが地方民放局の仕事だ。失礼ながら、ジャーナリズムの世界とは無縁の世界だといってよい。

 そのなかでも、地方民放局に、ジャーナリスト精神を持ってドキュメンタリー番組を制作する人びとも少数ではあるがいることを、私は知っている。

 そういう人たちに、この本の序章を読んでほしいと思う。

 この事件を追い続けたのは一人ではない、三人の人が受け継ぎながら取材を続けたのだ。

 テレビ局は、報道畑だけではなく、技術系、広告とりなど仕事は多岐にわたる。ずっと制作現場に居続けられる人はまれである。したがって、ジャーナリストとしての仕事をめざして入局しても、徐々に問題意識を摩滅させていく人もいる。

 だが東海テレビの三人は、「テレビ局員は、どの部署にいても、みなジャーナリストである」として、部署が変わっても、とにかく事件を追い続けたのである。それが財産となって、今回の映画化となった。

 本書は、“約束”の原作本という位置にある。マスメディアへの就職を考えている人は、すくなくとも序章だけは読んでほしいと思う。
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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

2013-02-23 16:30:56 | 日記
 やっと読み終えた。謎だらけの小説であった。謎を謎のままにしておいて、主人公がその謎を解くために、いろいろ想像したり、夢をみたりする。読む者を、決してわからせようとしない。村上作品が主人公にいわせる「わからない」は、読む者を「わからない」の状態に吊り下げたまま決して下ろしてくれない。

 この小説第三部、これまた読者を中空に吊り下げているかのような状態。

 主人公は、例の「屋敷」にある井戸に入っていく。そこでなぜか区民プールで泳いでいることを思い浮かべると、「べつの暗闇の中」にいく。「壁を抜け」て。そしてどこかの部屋にいる。ホテルのようなところだ。その部屋は208。そこには誰かがいた気配があった。「部屋のドアには208という番号がついていた」のだから、208なのだろう。そしてそこをでる。ロビーに出ようとしたのだ。途中、「泥棒カササギ」の曲を口笛で吹いていたボーイに遭遇する。その後を追っていくと、208。そこは「誰かがいる」。そこは「何か危険なものが潜んでいる」のだそうだ。しかし「壁を抜け」て最初に到達したのは、208だろうが。なぜ「危険」があるのか。主人公は部屋に入るのをやめてロビーに行く。するとテレビでは、クミコの兄がバットで襲われて重傷というニュースを報じている。暴漢は、なぜか主人公とそっくりだ。主人公はロビーから逃げるようにロビーを去る。人が追ってくる。すると「顔のない男」が主人公を助ける。なぜ助けるのか?なんて聞いてはいけない。因果関係なんかない。突然そういう状況が提示される。そして208に入る。そこは「危険な場所」だそうだ。

 そこには「女」がいた。主人公は、その「女」をクミコとみなす。そして主人公は、みずからの想像していたことを「女」に話す。しかしその想像はすでに過去のものではなく、今想像するのだ。村上作品に多用されることば、「考える」だ。「考えなくてはならないことは多すぎる」、「考えるんだ」。作品のなかで、主人公たちは「考え」なければならない。

 村上作品はたいへんだ。主人公が「わからない」こと、主人公が「考える」ことに、読みながらつきあっていかなければならないからだ。

 主人公がクミコと見なす「女」との会話。

 「それがあなたの想像なのね?」
 「いくつもの思いつきをひとつに繋げたものだよ」と僕は言った。「僕にはそれを証明することはできない。それが正しいという根拠はなにもないんだ」


 ボクは、村上作品の本質がこの会話に表現されていると思ってしまう。

 「思いつき」の羅列。

 主人公は、この後この「世界」で乱闘し、ケガをする。すると主人公は、なぜか井戸の中にいる自分を発見する。その井戸には、今まで水がなかったのに、水が湧いてきていた。主人公は動けず、死を覚悟する。

 ところが彼は救出される。シナモンによってだ。しばらくシナモンはあの「屋敷」にずっと来なくなっていたし(村上風の書き方だ)、主人公が連絡を取ろうと思ってもできなかったのに、なぜ急に出てくるの?そして主人公はケガをしている。その傷を治療したのもシナモンだ。「どちらの傷もシナモンがありあわせの針と糸を使って縫っておいてくれたわ。彼はそういうのがうまいのよ」。シナモンは突然コンピュータが得意となり、またケガの治療もうまいんだ。そう語っているのは、ナツメグ。あれ、ナツメグとも連絡がとれなくなっていたんじゃなかったの?

 そしてナツメグは言う、「この屋敷はもうすぐ処分されることになっているの」と。あれれ、この屋敷は、主人公がリースしていたのではなかったの?契約上からみても、ナツメグは「処分」なんかできないはずだ。

 そしてクミコから手紙が来た。そこに「彼(クミコの兄)は私たちを汚したのです。正確にいえば肉体的に汚したわけではありません。でも彼はそれ以上に私たちを汚したのです」とある。何これ?このような書き方をあちこちでして、読者を宙づりにするのだ。宙づりにされた読者は、宙づりにされたまま、その後を読まされる。とにかく話は続いているからだ。ひょっとして、その解答がこの後にあるのではないかと思いつつ。だがその解答はない。

 矛盾に満ちた小説。しかしところどころにしかけがある。断定を、より断定するしかけ。例えば、「でもバットはどこにも見つからなかった。それは消えていた。完全にあとかたもなく消えていた」。

 読者を宙づりにしたまま、どうでもよいようなところで、こうした強い断定を行う。

 そして先ほどの「顔のない男」は、「私は虚ろな人間です」というのだ。こういうある種「哲学的」な、あるいは衒学的なことばがあちこちに置かれる。すると読者は、そこに言いしれぬ魅力というか、「深さ」を感じる

 加納クレタ、加納マルタは夢の中でしか登場しないが、夢の中でマルタが子どもを生んだというのだ。名前はコルシカ。そして末尾、主人公は笠原メイにいう、もしクミコとの間に子どもが生まれたらコルシカという名にすると。メイは「素敵な名前じゃない」と答える、滑稽を通り越して、ボクはいい加減にしなさい!といいたくなった。

 しかしそれでも村上ファンは、ついていく。村上に何かを感じさせてもらうのだ。感覚でしか、とらえられない世界。

 そして多くの評論家たちは、村上を論じる。
  

 


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招待券

2013-02-23 10:45:25 | 日記
 ボクはクロスワードパズルが好きで、送られてくるダイレクトメールのうち、パズルに毎月答えて送り続けている。そのパズルで、一泊旅館券があたり、昨日家人と一泊してきた。

 旅館といっても浜名湖沿いにある小さなものだ。ボクはそこでふぐ料理を食べ、家人はウナギを食べた。

 昨夜、ボクらが到着したときにはすでに暗くなっていた。食事をとり、そして風呂に入り、そして本を読んだ。ボクはそこへ2冊持って行った。『PLANETS』と『日本帝国と民衆意識』である。後者は著者からいただいたものだが、まだ読んでもいないし、書評を書くこともしていない(読んだら書評を「会報」に書くと、礼状で書いておいた)。礼を失した行為だ。

 20日、静岡大学の学生がこの本の書評をゼミで発表したということをきいた。その際、その学生が言ったことがどうも気にかかり、とにかく読んでみなければならないとおもったわけだ。

 もちろん昨夜だけで読む終えられるわけでもなく、この後も、おそらく考え込みながら、付箋に気がついたことを書きつけながら、読んでいくことだろう。

 それらの本については、近日中に書くことにする。

 さて、旅館の窓は東に向いていて、すぐ隣は浜名湖である。いつもより早く寝たせいか、今日は6時頃目が覚め、日の出をみることができた。太陽の光が部屋の中に入り、部屋をさっと暖めた。

 湖上には鴨が羽を休めていた。しばらくすると、旅館のスタッフがえさをまき始めると、カモメが群がり来てえさをついばんでいた。

 先ほどは海水に埋め尽くされていた湖面のところどころに干潟が顔を出すようになった。その向こうでは、遠州灘の方向に急速に潮が引いていた。そしてその上を、新幹線特急が、轟音を立てて走り去った。20世紀の技術がつくりだした新幹線と、悠久の時間を日々刻み続けてきた潮の干満が交差していた。

 「僕」は有限と無限について考え始めた 

 村上春樹ならこう書くだろう。でもタダの人であるボクは、津波が来たら新幹線は消えてしまうだろうが、潮の干満はその後も、何もなかったかのように時間を刻み続けるのだろう、と思った。


 
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あらら・・

2013-02-22 12:55:02 | 日記
 『ねじまき鳥クロニクル』ですが、登場人物はあるときにとても饒舌になるのです。

 たとえばクミコ(この人は家を出て行った主人公の妻)のお兄さんの「秘書」の牛河さん。饒舌ですね。

 この人が二度目に登場したとき、驚きの事実が示されます。なんとあの井戸がある旧宮脇邸。主人公がそこをリースしているというのです。この第三部で不動産屋の市川さんに、買いたいと言っていたのに、いつのまにかリースしているなんて。

 そしてその金額は8000万円。おそらくそのお金は赤坂ナツメグさんからもらっているのでしょう。だけど、街中でふと巡り会ったオバサンがなぜそんな大金を主人公に与えるのでしょうか。

 ボクは、暑い時に水を飲むようには、この小説を読み通すことは出来ないのです。

 ところで笠原メイは、かつら製造工場で働いています。突然そういう手紙が来て、教えてくれました。ハゲについての蘊蓄を、第二部でも聞かされたけど、第三部でもハゲについていろいろ解釈が書かれている。このハゲも、メタファー?

 あれっ!突然の情景。主人公はあの旧宮脇邸にいて、ナツメグさんがやっていたように、客をとって「何か」をしています。そして突然その「屋敷」(主人公らは旧宮脇邸をこう呼ぶようになっています)にはコンピュータが設えてあって、何とクミコとチャットをやるのです。それも、なぜか交信の際のパスワードを、教えられてもいないのに、通信ができてしまうのです。主人公は、説明できないすごい能力をもっているのです。ここらへんになると、もう滑稽としか言いようがありません。滑稽を通り越して笑えてしまいます(村上のように、こうした追い込んだ表現をして意味を強化していくのだ。ヘヘヘ・・)
 そして次にはクミコの兄ともチャットするのです。

 そしてそのコンピュータは、ナツメグの息子シナモンがよくわかっているようで、彼が設えたものなのです。突然コンピュータが出てきて、そういう説明がなされました。

 なんか、この小説は突然出現する情景が多いのです。ひょっとして、

「思いつき」のオンパレード?

 昨日午後、ボクは強風の中、畑で土を掘り返していた。この前もそうだったけど、ボクがスコップや鍬を使い始めると、どこからか小鳥が飛んできて、じっとボクの行動を見ている。「ねじまき鳥」?

 春樹風に書くと・・・

 強い風が吹いていた。土埃が立つほどだ。僕は寒さに耐えながら鍬をふるった。ふるい続けた。突然僕の足下に動くものがあった。見たこともないような鳥だ。なぜこんなところにとんできたのか、僕にはわからない。今まで、僕は田を漁っているカラスしか見なかったし、あたりには木も何もない。およそ鳥がいる環境ではないのだ。
 鳥は、畑の中にタダ一本打ち込まれている杭の先に止まり、僕の姿をじっと見つめていた。僕に「何か」(傍点のつもり)を伝えに来たのかもしれないと思った。その時、急に鳥は僕の足下に入り込んできた。僕は恐怖を感じた。


 へへへ・・つまり、この鳥は、ボクが掘り返した土の中のミミズを食べるために来ているのです。終わり

 もうじき『・・・クロニクル』読み終わります。そしたら続きを書きます。


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疑問

2013-02-21 21:17:44 | 日記
 村上作品を読む人は、水を飲むように読んでいくのだという。おそらく、その場合、暑い日、戸外でスポーツなどをやっていた直後に飲む水なのだろうと思う。

 ボクは、そうではない。ムムッ、これはおかしい、と思いながら読んでいく。

 今『ねじまき鳥クロニクル』第三部を読んでいるが、まず確か第二部の最後で、路地の向こうの空き家(もと宮脇さん宅)の土地はどこかに売れて高い塀が建てられたのではなかったか。

 ところが、第三部の9は「井戸の底で」だ。主人公は井戸には入れたのか。それともそれは空想の産物なのか。

 そして赤坂ナツメグ。彼女は主人公の問いかけ、たとえば「なぜ服を買ってくれるのか」という問いに「返事を」しないのに、自らの過去、戦時中の話については饒舌なのはなぜ?

 さらにナツメグはこういう。「(みずからの記憶について話していて)それについて深く考えれば考えるほど、その鮮明さのいったいどこまでが真実で、どこからが私の想像力の創りあげたものなのか判断がつかなくなってくるのよ。まるで迷宮に迷い込んだみたいにね。そういう経験ってあなたにはある?」と。

 主人公ー「僕にはなかった。」

 それはないだろう。主人公のそういう場面を、今までにいっぱい書いているではないか。

  「満洲」(ボクは「洲」を使う)の「新京」の動物園で、そこの動物が日本軍によって殺された。そこで獣医は考える。

 動物たちが存在していた世界と「抹殺された」世界。「とすれば、そのふたつの異なった世界のあいだには何か大きな、決定的なずれのようなものがあるはずなのだ。なくてはならないのだ。」村上は、こういう追い込んでいくような書き方をよくする。そして「でも彼にはどうしてもその違いを見つけることができなかった。」

 これってとても「思わせぶり」。なぜ動物園の動物たちが殺される前と後で「世界」に「ずれ」があるの?
そして獣医は、村上作品によく登場する「突然、彼は、自分がひどく疲れていることに気づいた」がその後に続く。そう村上作品に登場する人は、とにかく疲れるのだ。たいへんな方たちだ。 


 話の筋から言うと、前後してしまうが、さらにさらに、ナツメグが「満洲」から帰ってくる時に、米軍の潜水艦に船を止められた。このときの記述。

 この潜水艦は、私たちみんなを殺すために深い海の底から姿を現したのだ。でもそれはべつに不思議なことじゃないと、彼女は思った。それは戦争とは関係なく、誰にでもどこにでも起こりうることなのだ。みんなはこれがみんな戦争のことだと思っている。でもそうじゃない。戦争というのは、ここにあるいろんなものの中のひとつに過ぎないのだ。 

 潜水艦が「殺すために」姿を現したんだったら、それは戦争だよ。しかし、この「潜水艦」のことを、評論家たちは、オウム真理教による無差別テロのような無差別殺人(秋葉原やグアム島で起きた事件)のことを象徴しているのだ、と言うのだろう。

 村上春樹流に、ボクは「そうかもしれない」と一応は言う。だがこの脈絡で、そういう「読み込み」は可能なのか。「戦争体制」は平時からの延長線上にはあるが、質的に平時とは異なる。ついでに言っておけば、その質的変化は「ずれ」で片付くものではない。

 「戦争」と「テロ」は法的にも異なる扱いだ。「戦争」と「テロ」を同レベルにまで押し上げたことがないわけではない。ブッシュがそうした。もちろん、「暴力」という次元でなら、それは共通ではある。だが、「戦争」と「テロ」を同格にするのなら、それはブッシュの論理でもある。村上は、そこまで踏み込むのだろうか。

 (続く)
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訪問(その2)

2013-02-21 13:54:32 | 日記
 今日は、浜松市発達医療総合福祉センターを訪問した。障がいをもった方々の健康で文化的に生きる権利を保障する施設だ。

 ボクははじめての訪問だ。しかし外見を見て、ただでさえ寒いのに、建物そのものが寒々しいのだ。いわゆるコンクリートの打ちっ放し。色はない。

 冬だからかもしれないが、もっといろいろな色がある温かい建物であってほしいと思った。そして中に入る、天井が高くこちらも暖房が十分に効果をださないようなつくりだ。

 最初、4月からボクがボランティアで講義をする講座室に案内していただいた。「室」ではなく、廊下とは間仕切りで仕切られているだけで、廊下を歩く人たちの声がそのまま入ってくる。

 ボクは、この建物、浜松市が建設したそうだが、いったいどのような設計思想でつくったのか疑問をもった。この建物、20年を経過するという。

 その後、知的障がいの方々の生活介護、就労支援施設「かがやき」、そして「はばたき」に案内された。入所している方々は、明るく大きな声で挨拶をされ、またボクの名前をノートに書いてほしいといわれた。「はばたき」では、祭典時に門などに飾るピンクの花をつくっていた。

 「ひまわり」は、障がいをもった子どもたちの施設だ。発達障がい、知的障害、心身に障がいをもったこどもなど、笑顔でボクを迎えてくれた。

 障がいをもった人や子ども、そしてその家族、日本はまだまだ福祉社会ではないから、そうした人びとの生活と権利が十分に保障されていない。だから、障がい者に関わる人びとがとってもたいへんだ。頭が下がる。

 アニメで「ドングリの家」をみたことがある。ボクはそのビデオも持っているが、そこに描かれている世界は、たいへんな世界ではあるけれども、生きるということの感動を与えてくれる。それは以前紹介した「夜明け前の子どもたち」(滋賀県・びわこ学園の子どもたちの姿を撮影したものだ。ただしもう40年ほど前のもの。だけどまだその上映会が行われているようだ。)も、とてもとても感動的なものだ。「人間の尊厳」とはどういうことなのかを教えてくれる映画だ。

 4月から、ボクはここにも関わりを持つようになる。ボクは、ボクの持つ力を少しでも提供していきたいと思う。

 「世のため、人のため」は、いつの時代でも求められているのだから。
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この事実は、重い!

2013-02-20 23:17:22 | 日記
 とにかく、下記のアドレスをクリックして読んでほしい。

 福島原発事故が、以下に多くの人々を困難へと導いているか。こういう何の罪もない人びとが苦しまなければならないのか。

http://tanakaryusaku.jp/2013/02/0006697
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訪問

2013-02-20 22:43:20 | 日記
 今日午前中、地元の中学校を訪問した。たいへん荒れているということを聞いていたし(村上春樹的に使ってみた。村上は、以前も指摘したように「・・・いたし、・・・・」を多用する)、ある会議で中学校の保護者の嘆きと怒りを聞いたからだ。別にボクの近親者が中学生ということではない。

 今日は、地域の人に学校を開放する日とされているそうだ。行ってみると、保護者や近隣の小学校の校長らが廊下をうろうろしていた。

 ボクは、学校の荒れは、その学校の校長が先頭になって取り組んでいかないと良くはならないと思っている。しかしこの学校の校長は、そういう姿勢を持っていないようだ。

 さてボクも廊下から子どもたちの姿を見つめた。授業が開始されたばかりだというのに、ある一年生のクラスでは3~4人の子どもが伏せている。廊下を巡視している先生に尋ねたら、この授業担当は強いことが言えないので、他の教員が教室に入って注意するそうだ。もちろんそういう先生については、他の先生が支えるべきであって、そういう先生を責めてはいけない。要するに、荒れを克服するためには、教員の「団結」(もう死語になりつつある?)が欠かせない。
 
 国語の授業を見ていたら、担当の教員が戸を開けて中に導き入れてくれた。ボクは、後ろで伏せている子どもの肩をもみながら、「君はなんで参加しないの」?と尋ねた。「何も持っていないから」という。「紙をもらって黒板に書かれているものを書き写しなよ」と話した。すると先生が紙を持ってきてくれたので、ボクは黒板の最初の文字をその紙に書き、「この後を写しなよ」と言うと、彼は書き始めた。その他に二人参加していない子どもがいた。机の上には何もなかった。

 彼らは勉強をしないという姿勢を示すことで、自らの存在をアピールしているのだ。何らかのコミュニュケイトを、教師をはじめとした大人たちがすべきだと思う。大人たちは、そのアピールにとにかく応えるのだ。肩をもんだり、話したり、あるいは叱ったり。

 ボクはほぼ1時間の授業時間各教室を廻った。

 だが、今日は、パスタをつくらなければならなかった。だから引き上げた。ボクはまた訪問するつもりだ。とにかく勉強してもらわないと、社会はよくならない。
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時代遅れ

2013-02-20 13:32:05 | 日記
 昨夜眠れないままに『PLANETS』を読んでいたら、ボク自身すごく時代遅れの状態にあることがわかった。

 まず使われていることばがわからない。たとえば「けいおん!」。これはアニメだそうだ。“「けいおん!」的な”なんてことばが交わされていると、理解が吹っ飛ぶ。

 またAKB48についてである。この雑誌の対談のなかで、濱野智史がこう言っている。

 秋元康は、ある種適当に「だいたい、こんあものかなあ」と200人くらいメンバーをグループ内に抱え込むわけです。で、劇場や握手会の場にひたすらその200人を立たせる。そうすると、どんな子でもファンはつくもので、その子と握手会で何を話したとかいうストーリーを2チャンネルやらWikipediaやらに書き出す。で、それが話題を呼ぶとまとめサイトにまとめられて、秋元康や運営が、「なるほど、こいつはこういうキャラでこう受けているのか」といったことをボトムアップで気付くという仕組みになっています。

 へえ~~。だとすると、ずっと以前AKB48のファンに、「なぜ好きなの?」と尋ねた時の答え、「育てがいがあります」は、真実だったのだ。

 スマホとか、インターネットを利用した端末が大きな市場となっているが、それを多くの若者が手に取り利用することによって、社会にどのような変化が現れてくるのか、ボクやその外の「オジサン」や「オバサン」はわからなかったし、理解しようとも思わなかった。それでいて、今の若い人は・・・・と論じていた。

 変化している現実に対応する努力をしなければならないと思った。

 この雑誌、読み始めたばかりであるが、「新出語」に注意して、現代社会を理解しようと思う。ひょっとしたら、ボクたちは、ドン・キホーテかもしれない。現実を知らずに、現実から遊離した観念で、何ものかに向かって頑張っている・・・・しかし、それは結局徒労に終わる?

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