ボクは今まで民芸というものにまったく興味を持ってこなかった。私の住む地域の歴史を話すという仕事を引き受けたとき、少し調べたら民芸運動がここ浜松と関係があることがわかってきた。
だから夏、柳宗悦の創建した「日本民芸館」にも行ってきた。そこには、素朴でありながらも美しいものが、決して自己主張することもなく並べられていた。ボクはそこで、民芸の理念といったものを具体的に垣間見た感じがした。
そして話すために、ボクは柳や民芸関係の文献を渉猟し、もちろんそれらを読みはじめている。そのなかに
柳の『手仕事の日本』(岩波文庫)があった。これがまた、ボクの狭い世界をより広げてくれた。民芸の世界の思想といったものが、より具体的に見えてきたのだ。そしてこの民芸が、ひょっとしたら日々の生活を豊かにすると同時に、地方の価値というものをより鮮明にしてくれるのではないかと思った。
この本は、柳が全国をまわって、それぞれの地域の手仕事の状況を報告したものだ。民芸品は、手仕事でつくられる。民芸を訪ねるということは、手仕事の現場を見ることなのである。
そうすると、民芸品が豊かにつくられるところは、都会の中心地ではない。地方で言えば、東北であり、北陸であり、山陰地方であり、そしてまた沖縄である。東京でいえば下町である。東京を除けば、現在過疎化したり、あるいは活気を失っているような地である。しかしそういうところこそ、実際は豊穣な文化が育っていたのだ。ボクはこの本を読みながら、民芸に注目することがとても大切なことだと思い始めた。
民芸とは、「美に輝く日常の道具」を「民衆的工芸」として創り出されたことばだ。
各地に根付いた手仕事は、「遠く深い伝統の上に立っている」ものではあるが、その伝統は決して閉鎖的なものではなく、「創造と発展」をもった開放的なものでなければならない。職人さんは、そうした伝統を引き継いでいる。しかしそれらをつくり出す職人さんたちは無名である。
柳は「彼らが貧しい人々であり、作るものが普通のものであろうとも、大きな伝統の力に支えられている」、その伝統が職人さんに「仕事をさせている」のだという。「いわば品物が主で自分は従なの」だ。「彼らは品物で勝負をしているのであ」って、「もので残ろうとするので、名で残ろうとするのでは」ない、と。
この柳の、伝統の力、名ではなくもので残る、という指摘など、とても新鮮である。
そして「生活の中に深く美を交えることこそ大切」だという。日々の生活の中に「文化の根元」があり、「人間の真価は、その日常の暮らしの中に、もっとも正直に示される」というのも、重い言葉だ。
そしてその美とは何か。「よき働き手であってこそよき実用品」であるから、それは「健康」であることだという。「健康」であることは、「一番自然な本然の状態である」というのだ。そして「この世にどんな美があろうとも、結局「正常の美」が最後の美であること」、「凡ての美はいつかここを目当に帰って行く」。
実用品のなかに美を見出し、その美をとらえ、生活の中で使用していくことが、柳のいう「生活の中に美を交える」ということなのだろう。
柳がこうした考えを持つきっけになったのは、朝鮮の民芸であった。朝鮮の民芸のなかにある美に開眼した柳が日本を振り返ったときに、日本の民芸に美を再発見したのである。
だから柳は、「他の国のものを謗るとか侮る」ことをするのではなく、「国々はお互いに固有のものを尊び合わねばなりません」という。
ボクは柳をはじめとした人々の民芸運動から、多くのことを学ぶことができるような気がする。そのわくわくした気持ちを、聴講する方々に伝えられればいいと思うのだ。
だから夏、柳宗悦の創建した「日本民芸館」にも行ってきた。そこには、素朴でありながらも美しいものが、決して自己主張することもなく並べられていた。ボクはそこで、民芸の理念といったものを具体的に垣間見た感じがした。
そして話すために、ボクは柳や民芸関係の文献を渉猟し、もちろんそれらを読みはじめている。そのなかに
柳の『手仕事の日本』(岩波文庫)があった。これがまた、ボクの狭い世界をより広げてくれた。民芸の世界の思想といったものが、より具体的に見えてきたのだ。そしてこの民芸が、ひょっとしたら日々の生活を豊かにすると同時に、地方の価値というものをより鮮明にしてくれるのではないかと思った。
この本は、柳が全国をまわって、それぞれの地域の手仕事の状況を報告したものだ。民芸品は、手仕事でつくられる。民芸を訪ねるということは、手仕事の現場を見ることなのである。
そうすると、民芸品が豊かにつくられるところは、都会の中心地ではない。地方で言えば、東北であり、北陸であり、山陰地方であり、そしてまた沖縄である。東京でいえば下町である。東京を除けば、現在過疎化したり、あるいは活気を失っているような地である。しかしそういうところこそ、実際は豊穣な文化が育っていたのだ。ボクはこの本を読みながら、民芸に注目することがとても大切なことだと思い始めた。
民芸とは、「美に輝く日常の道具」を「民衆的工芸」として創り出されたことばだ。
各地に根付いた手仕事は、「遠く深い伝統の上に立っている」ものではあるが、その伝統は決して閉鎖的なものではなく、「創造と発展」をもった開放的なものでなければならない。職人さんは、そうした伝統を引き継いでいる。しかしそれらをつくり出す職人さんたちは無名である。
柳は「彼らが貧しい人々であり、作るものが普通のものであろうとも、大きな伝統の力に支えられている」、その伝統が職人さんに「仕事をさせている」のだという。「いわば品物が主で自分は従なの」だ。「彼らは品物で勝負をしているのであ」って、「もので残ろうとするので、名で残ろうとするのでは」ない、と。
この柳の、伝統の力、名ではなくもので残る、という指摘など、とても新鮮である。
そして「生活の中に深く美を交えることこそ大切」だという。日々の生活の中に「文化の根元」があり、「人間の真価は、その日常の暮らしの中に、もっとも正直に示される」というのも、重い言葉だ。
そしてその美とは何か。「よき働き手であってこそよき実用品」であるから、それは「健康」であることだという。「健康」であることは、「一番自然な本然の状態である」というのだ。そして「この世にどんな美があろうとも、結局「正常の美」が最後の美であること」、「凡ての美はいつかここを目当に帰って行く」。
実用品のなかに美を見出し、その美をとらえ、生活の中で使用していくことが、柳のいう「生活の中に美を交える」ということなのだろう。
柳がこうした考えを持つきっけになったのは、朝鮮の民芸であった。朝鮮の民芸のなかにある美に開眼した柳が日本を振り返ったときに、日本の民芸に美を再発見したのである。
だから柳は、「他の国のものを謗るとか侮る」ことをするのではなく、「国々はお互いに固有のものを尊び合わねばなりません」という。
ボクは柳をはじめとした人々の民芸運動から、多くのことを学ぶことができるような気がする。そのわくわくした気持ちを、聴講する方々に伝えられればいいと思うのだ。