浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

「3月29日」を否定する日を

2016-03-29 22:08:33 | その他
 今日「3月29日」は、違憲の「参戦法」が施行された日である。国会周辺はじめ全国各地でデモ行進が行われていた。60年安保は、安保条約の「自然承認」、岸内閣の退陣により、国民の怒りは急速に衰えていったが、今回の「安保闘争」はそうはならないだろう。

 というのも、ボクたちが抗議の声をあげ続けなければ、自衛隊員が危険な任務のなかで死傷する可能性もでてくるし、また自衛隊の武力により誰かが死傷するかもしれない。「60年安保」と質が異なる。

 2015安保の闘いは、「3月29日」を否定する日が来るまで、続けられなければならない。

 今日の『日刊ゲンダイ』は、以下の記事を掲げる。

「安保法の影響深刻 自衛隊の中核「曹候補生」応募者が激減」という記事である。

http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/178252

 また自衛隊入隊をやめた高校生のことが今日の『中日新聞』に載っていた。

 防衛大学校の卒業生の中に、自衛隊任官を拒否した者が多い、というニュースもあった。

 様々なかたちでの抵抗が、この「参戦法」を無化していく。
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現在という時代の正体

2016-03-29 09:17:19 | その他
 『世界』別冊を読む。青木理の「このままジャーナリズムを死滅させないために」と石崎学の「絶望以上の希望を、この街からつくりだす!」は、現在の日本の表現の自由が、どういう状態にあるかを示している。

 昨年8月30日、国会周辺は無数の人によって埋め尽くされた、そのなかにはボクもいたが、青木もいた。かくも多くの人々が国会周辺に集まったという事実は、当然にも「事件」である。だからこれは報じなければならない。『朝日』、『毎日』、『東京』は大きく載せた。しかし、政権と蜜月状態にある『読売』、『産経』は、おそろしく意図的な報じ方をした。とりわけ『読売』は、数日前に行われた参戦法賛成のグループの500人程度の集会とひとくくりで報じた。

 そこで青木はこう書く。

 政権寄りの経営陣や社論の意向が末端にまでいきわたっている様は、それこそ読売や産経が常日頃声高に批判する独裁国家の国営メディアと変わりない。

 そして安倍政権が、新聞やテレビに対して、陰に陽に圧力をかけている姿を挙げ、

 政権が考える「公益及び公の秩序」に反する言論・表現の自由に制限をかけても「当然」なのだという発想が、(安倍政権や自民党の)すべての発言、振る舞いの背後を串刺しのように貫いている。そこに一切の矛盾はない。私たちはいま、そんな政権を戴き、これと対峙しなければいけない状況に追い込まれている。

 と記す。

 次に石崎の文が続く。そこには川崎市で行われたヘイトデモとそれにこうする人々の動きが書かれてる。

 言論の自由だといって、ヘイトデモを許し、なんと在日の集住地区にもそのデモを入らせようとしたのだ。差別に国家権力が加担しているのだ。

 なるほど、となると、このヘイトデモは、「公益及び公の秩序」には反しないのである。

 安倍政権や自民党の考える「公益及び公の秩序」の実態が、そこにあらわになる。

 ボクらは、彼らが考える「公益および公の秩序」を暴露する必要がある。こ

 の二つの文は、期せずしてそれをあらわにしている。

 
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「安保法」施行

2016-03-29 08:56:27 | その他
 今日の『中日新聞』一面トップは、「安保法施行」である。「安全保障関連法」の略だが、実質は他国、とりわけアメリカが行う戦争に参戦していくことを可能にするものだ。だから、「戦争法」、ボクは「参戦法」とよんでいる。

 『中日新聞』は、大きな紙面をつかって、この法についての解説をしている。『中日新聞』は、これに関して明確に反対する論陣を張り、詳しい報道を展開してきた。

 もういちど、この法律を確認するために、このような大きなスペースをつかっているのだろう。そして、「「無言館」からの警鐘」と題する社説も掲げる。無言館館主の窪島さんの「日本は1センチでも戦争に近寄ってはいけない国だ。角を曲がって戦争の臭いがしたら、戻ってこなければならない。このままほっておけば『無言館』がもう一つ増える時代がやってくる」で最後を固めた文だ。

http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2016032902000111.html

 「無言館」の絵の前に佇むとき、ボクらは声を失う。生と死がその絵画に漂っているからだ。ボクらは、そのとき、生者の声と死者の声を同時に聞く。その声の狭間には、戦争という悪魔が存在している。その悪魔の存在を凝視する。悪魔を払いのける力を持たなければならないと思う。

 
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