2021年11月12日(金)
大垣市上石津町は鈴鹿山脈と養老山地に囲まれた地域。
江戸時代西高木家の陣屋があり、今も素晴らしい高石垣が残っていて、以前訪問した記録をブログでも取り上げました。
今回は近年新たに確認された戦国時代の城跡を探訪するために再び「上石津郷土資料館」を訪問しました。
ここは大垣駅から路線バスありますが、時間の制約もあり資料館の駐車場にマイカーを置いて資料館の受付へ。
城跡のパンフレットをget。
展示物を見学せず、パンフだけもらうなんて厚かましい。
そのせいか、係員さんが
『城跡は私有地なので節度ある行動をとってください!』
と、何度も念を押された。
耳が痛かった…😥
パンフ片手に城跡へ向かいました。
「山城跡」という案内看板が随所に建てられてるので助かる。
でも迷ったけどね。
開けたら閉める
小学校の裏側を通った
そして、
約20分歩いて獣柵に到着。
↑ここに関連史跡の案内図があります。
獣柵を入り奥へ進む
「観音寺跡」
平安時代末に建てられた由緒ある寺院だったようです。
坂道を登ると高石垣が現れる。
近江の観音寺城のような城郭寺院だったのではないか?と思える。
これは萌えます!
登ると
現在は小さな祠があるのみ。
しかし、昭和45年に焼失するまではちゃんとした建物があったそうです。
手を合わせる女性像が。
ここから遠回りして西側の
「北高木家墓石群」へ。
墓石群は右下の奥へ↓
江戸時代、旗本高木家は交代寄合として大名並みの格式を誇り北・東・西3つの家に分かれてこの地を支配しました。
ここは北高木家の累代墓地でたくさんの墓が並んでます。
で、墓石をよく見てみると
「江州大溝城主分部若狭守」
「泉州??越中守…」
なにこれ?高木家と親交のあった大名の墓も列ねてるのかな?
次に「観音寺経塚」へ
観音寺の僧が、平安時代末期の兵乱の戦死者の耳を埋めた耳塚です。
急な斜面をロープ頼りに登る
合掌しました。
史跡巡りはここまで。
観音寺跡から北へ進むと
↑削平地?
この左手に
「多羅城」の幟が。
多羅城跡を特定できないため、上石津町周辺の城跡の総称として使用されてます。
多羅は明智光秀ゆかりの地。
一方、山の東側に接する近江の多賀地区も明智光秀ゆかりの伝承地。
多羅と多賀、発音が似ていて近接してる。
なんか、因縁めいたものを感じます。
説明板によると平成31年2月に調査されて戦国時代後半の山城と確認された、とある。
以前から城跡があるとわかってたが正式に確認されたのが今年2月という真新しい城跡なんです。
↑現地縄張図
坂を登ります
土橋
横堀
横堀と竪堀↓
さらに登ると土塁の間が虎口、
左手の土手が方形の櫓台だとか?
で、枡形虎口だとか?
虎口付近の防御は厳重ですな。
城内に入りました。
単郭の削平地です。
全体像は南側が折れていて五角形のような感じ。
反時計回りに進んだ。
入口付近に井戸跡
↑北西の堀切竪堀
↑下の段曲輪を見てるがわからないですね。
↑西側の土塁
土塁は南側だけが残ってない。
もともと無かったのか、それとも後世に消滅したのか?
伊賀、伊勢では三方のみ土塁というのをよく見かけます
うーん…
一旦、登城口に降りて北東側へ移動した
北側から主郭を見上げてます
北側の下には帯、段曲輪↓
東側の横堀の終点から虎口へ向かう
虎口へ向かう横堀↑
周囲をもう少し探索したかったが、
資料館で私有地だと釘をさされたので余計な振る舞いは自粛しました。
うーん…😥
この後、虎口で昼食をとりさらに南の樫原城へ向かいます
次回に続く
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
我が輩、長いこと生きてますが、
70センチを超える豪雪は記憶にない
彦根市の豪雪記録更新だとか?
一日中雪かきしてました。
真上を報道ヘリが旋回して我が家付近はテレビニュースのネタにされてたようです。
というか、雪の重みで家が潰れないか心配ですわ😭
馬《●▲●》助ヒヒーン♪