〈遠野物語・奇ッ怪其ノ参〉
物語には必然性がある。
貧しさや、家族の恥や、犯罪や、
都合が悪いことは物語によって正当化されて、
そして民は生きることを赦されたのだ。
遠野には2回行った。
最初は家族で。
まだ次男は生まれていなかった。
カッパ渕には自動音声ガイドの機械が設置されていて、
遠野の駅の周りはすっかり観光スポットになっていて、
何枚も河童のクゥのポスターが貼られていた。
2度目は仕事のつながりのある人たちと、
曲り家に宿泊して勉強会を実施した。
カッパ渕に向かう途中にホップの畑があって、
こんなところでホップが作られているのかと思った。
人々は生きるために工夫をして、
村はどんどん標準化されて、便利になって、
貧しさを克服して、そして物語は失われていく。
それはある意味で仕方がないことだけれど、
完全に失われる前に、記録を残さなくてはならない。
まったくその通りだ。
奇ッ怪なことには悲しみや憎しみや苦しみやいろんなことが隠されている。
怪しいことは怪しげなままでいい。
みんなで宿泊した曲り家の大部屋の片隅に小さな部屋があって、
何だろうと思ってそっと覗いて見たら、
一組の布団が敷かれていた。
宿の人に理由を問えば、もっともな答えが返ってくるのだろうけれど、
「座敷わらしのための布団だな。」ということにした。
朝起きて、外に出て、霞が立ちこめる山々を見ると、
まだあの辺りには神々や山人や、人ではない何かが住んでいるのだろうという気持ちになった。
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