NHKの大河ドラマ直江兼続の放映の頃から、どうやら山形市の長谷堂の辺りで合戦があり、県民の森の展望から山形市内を望む右手の綺麗な円錐形の山が長谷堂の戦いの舞台だと聞いた。山形の内陸特有の霧がその合戦を大きく左右させたとの不思議な話にも興味があった。いつかは行ってみたいと思いながら、いつかはいつまでも辿り着けない。
いつもの建築士会の会議よりも少し時間が早めに終わったので、一足飛びに向かってみた。こんな日に限って携帯を忘れてくる。カーナビだけが頼りである。
カーナビに従って走って行くと、目的地に着きましたの案内にも関わらず、長谷堂と言うべき御堂がない。小さな御堂にカメラを向けていたら、住民と思われる女性が歩いてきた。「長谷堂はどちらですか?」と問うと、「この辺り一体が長谷堂です。」と言われ、思わずブッと笑いが出た。「もうちょっと進むと、公園があって駐車場に車を止めて歩くと良いですよ。」とも教えて頂いた。
その駐車場は先ほど寄った所だ。それなのに、カーナビはもっと先だと告げるので走ったまでのこと。ならばと戻り、歩いて巡ることにした。
戦国時代は、皆目わからない。上杉・直江 VS 最上・伊達の戦いらしい。
小さな屋根の着いた案内板の左下に、パンフレットが入った箱が設置されていた。雨で汚れないようにとの配慮もされている。一枚だけ抜き取って、そこに書いてあった地図に従って歩くことにした。
公園近くの八幡崎口から歩いてみる。
まさか、長谷堂に登るとは家を出てくる時には思ってもいず、簡単な会議だからとかかとの高い靴を履いてきたのが間違いだった。
八幡神社
秋の午後、夕暮れにも近い時間に、女一人で登る所では無い。道は一部整備されている所もあれば、登山道のような道もあり、登る時には大丈夫でも下りはどうなるのだろうと思う程の山道だった。
標高はだんだん高くなる。
立て札は要所要所にあって、親切な所だと思う。
廻りを田畑に囲まれた山城なのだと気がついた。パンフレットや地図をもっと良く読むべきなのだが、PCや機械を触るにもマニュアルを先に読まないタイプなので、「おすすめ周遊60分コース」に気がつく筈が無い。
道はまだまだ上り坂である。
風が無いので、落ち葉が落ちる音でも、どきっとする。
合戦城跡を歩くには、絶好の時間である。何者にも出会わないようにと願うばかりである。
どこを歩くと、どこに着くのか。近道なのかも判らない。結構な高さを稼いだと思われる頃。
鳥居が立ちはだかっていた。
どうやら山頂に着いたようだ。
掻い摘まんで言うと、長谷堂城は最上義光の将の志村伊豆守光安が上杉軍の直江兼続から城を守った。その光安は後に庄内酒田の亀ヶ崎城主になったと書いてある。世間は狭い物である。
山形市街が見える。
大欅と長谷堂城跡の石碑
山形市とは反対の方の山並み。
そちら側から降りることにした。道はコンクリートで出来ており、滑り止めのカッター跡もあったが、結構勾配がきつくて、私の靴では心許ない。極力落ち葉を踏んで滑ることのないように、そろそろと降りることにした。前方には赤い鳥居が見える。
ここは春日神社らしい。
鳥居の正面にも春日神社の名がある。
鳥居を抜けると、奥に社が見えた。仏像に墓石。こちらは神社では泣く長谷堂観音。
鐘楼もあり、建物は3軒あった。
扉や壁を問わずに、御札が貼ってある。勿論私は怖い。お辞儀をして引き返す。
そこからの下り坂には、両側に紫陽花の咲いた跡があった。鎌倉の長谷寺も紫陽花が綺麗だった筈。時期が良ければ綺麗な花に出逢えるかもと思う。紫陽花の辺りは石段で、綺麗に掃き清められていた。地域や檀家の人達が毎日のように掃いてくれるのだろう。
次からは土の階段に変わる。落ち葉が表面を塞いでいた。
幾分下った辺りで、長谷山の鳥居があった。鳥居の前の両側の石は、カッパドキアの風景を思い出す。
長谷堂の家並みが近くなってきた。
山道の秋色。
家の庭の秋色。
白いシュウメイギクは好きだ。
家の中のリンゴ。成りすぎかと思う程の数。
比較的新しいと思われる土蔵。この辺りで一人の高齢の男性とすれ違う。登る前に出会った小学生は大きな声で「こんにちは!」と挨拶してくれたので、私もこの老人に「こんにちは!」と声を掛けた。すると、彼は自分の家が見つからない徘徊の途中だったらしい。「困った、困った。」と言いながら歩いて行った。私と私の足がもっと丈夫なら、一緒に家を探すか近くの人に頼むのにと思ったのだが、なかなか人の気配もしない。きっとそのうちに助けてくれる人に出会うだろうことを祈りながら駐車場に向かった。
山の中腹に阿弥陀堂と思われる御堂が見えた。
おすすめ周遊コース60分と書いてある地図。
ここで2200人の戦死者が出たのかと信じられない程の山城跡だった。よほど壮絶な戦いだったのだろう。