日曜日の午後には、まちづくりデザインスタジオの一環で、日和山公園を皮切りに船場町、酒田本港、背割り堤を歩く。
常夜灯は、昔の灯台である。
これを寄進した方々の名前が並ぶ。
展望台から酒田港を見る。
陸に上がった船乗り達は、まず始めに金毘羅神社に航海の無事を感謝する。その後に街へ繰り出す。
金毘羅さんの狛犬は、酒田で一番古いと言われている。原型が分からないほどに風化している。
これは神明さんと呼ばれる皇大神社。近年行った屋根などの補修は、市民の寄付で賄われた。
こちらの門の屋根も、赤瓦である。
酒田から米などを運んだ北前船は、帰りに京のお雛様などの軽い物の他、船のバラストとして、笏谷石を酒田に運んだ。
神明坂にいた猫
中山商店と、杉野瓦屋さんの倉庫の隙間(余所んちの敷地)を通り抜けて、港湾道路に出る。
今度も人が擦れ違いの出来ない小路を通る。ここは初めての道である。子供の頃は集団で余所の家と家の隙間を走り抜けて遊んだが、そんなドキドキ感が蘇ってくる。
芭蕉坂に出た。芭蕉坂は何度も通ったことがあったが、この横道は知らなかった。
松尾芭蕉が最上川を下り、酒田に上陸した。この坂を上って酒田の街に入った。この先には、金毘羅さんや神明さんがある。
公園の下の池周りが工事中で、上れなかった。
荒木米屋さんの防風林は、タブの木で構成されている。
海洋センターは工事中だった。海鮮市場などのあるこの界隈も、海洋センターが港の前に壁のように建ち、海が見えない港になっている。これを壊してベネチュアのような広場に出来ない物だろうかとの声が上がる。
海洋センターの螺旋階段の壁に貼ってある昔の酒田港。
展示物は昔の酒田。
酒田周辺の絵図。
港に出る。
新しくなった飛島丸が見える。
ジオパークの決定を記念して、青く変身した。
魚市場の方へ歩いて行くと、丁度船が帰ってきて荷揚げをしていた。
うお!←ここ笑うトコ
大きい。
船が帰って来ると、鳥たちがやってきて、ヒッチコックの映画のようになる。
上から見おろしている鳥たち。
市場の中を覗き込む。
そして車に便乗して、背割り堤に向かった。背割り堤とは大正時代に最上川と新井田川(酒田港)を分離する目的で造成された。船舶の大型化に対応し、最上川からの多量の砂で港が埋まるのを防いだのである。
造船所あたり。ここだけが昔の酒田港の葦原が残っている。背割り堤の堤防は、元々石積だった。ハゼなどの魚も多く捕れた。垂直の岸壁になって、生態系は崩れていった。酒田本港の岸壁も、元々は石積だった。中学か高校の頃だったと思うが、私がその石積みの中を覗き込んだら、中が空洞になっていて、数匹の蛇がとぐろを巻いていた。
こちらは漁船が多い。烏賊釣り船団もここから出航する。
生憎と、鳥海山は見えなかったが、酒田の街並みを眺めるのに、絶好のポイントである。酒田市民の多くは、それを知らない。
もう少し突堤の先に行こうとして、止められる。
海はすぐそこだ。
太陽も沈んだ。
場所を山本さかな御殿に移して、宴会と盛り上がる。
凍える手を熱燗で温める。
これは鱈の天ぷら
注:一部 禁18有り
萬谷さんの女将さんが、表の酒田の生き字引なら、山本の女将さんは裏の酒田の生き字引だった。現在の南新町は酒田に3つあった中の1つ「興野浜・こやのはま」と呼ばれた遊郭街だった。今でもその名残が、旅館群として残っている。昭和33年の赤線廃止まで、繁盛していた。その辺りの話を興味深く聴く事が出来た。「ほんとは、33年以降もやってだ店もあったんよ。」とか「進駐軍向けのダーリンさん達は、随分と稼いだよ。」とか「もの凄くべっぴんさんが2人いてね。」とか「沢山の客が着いた床上手な女性もいてね、どうやるんだろうね。」とか「近くに専用の診療所があってね、定期的に女性達は通わねばならなかったみたいだよ。」とか、時効の話も含めて話は盛り上がった。