無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

縄文の環状列石

2018-09-24 20:16:39 | 建築・都市・港

大湯温泉まで来たのは、車が3台。道の駅おおゆを見なかったら、今回の見学会は拍子抜けだったと思う。特にH先生は朝早くから新幹線で来てまで参加する価値もちと怪しい。移動の時間は掛かっても、おおゆを見て良かったと思った。
2度目の解散をして、秋田へ向かうと、車の中で縄文のストーンサークル、環状列石の話になった。まだ見たことがないと言うと、H先生はこの近くにある筈だと言うことになって、携帯のナビで場所を探す。本当に数分の距離だった。

駐車場に着くと、先ほど別れたばかりの2台の車が、先に着いていた。「またお会いしましたね。」考えることは同じだった。

H先生が以前来た時には、こんな施設はなかったそうだ。大湯ストーンサークル館が出来ていて、内部は多分資料館と思われる。芝生の中央に小さな環状列石があったが、これは本物ではなく、レプリカらしい。まさかこれで終わりかとがっかりしそうになった。本物は少し離れた場所にあると教えられた。

ロープが張られた林の中を通り、広場に向かった。

列石と言うよりも、茅葺きの小屋が目立つ。

日本にストーンサークルと呼ばれる物は178箇所もあり、北海道や東北に集中しているが、その中でも74箇所が秋田県にある。イギリスのストーンヘンジは世界的に有名だが作られた年代がBC2500-2000年、それに比較して日本のストーンサークルは縄文時代6000年前から作られ始めたと言われている。使われている石は小さくとも、規模は大きく、広く散らばっている。縄文時代が長く続いた証だろう。

大湯温泉近くの大湯ストーンサークルに行くのが酒田から遠い場合には、大館能代空港のすぐ近くには伊勢堂岱遺跡がある。ただ、こちらは環状列石ではなく、半円だったり弧を描いている。ますます日時計の用途に近くなったと言うべきか。秋田県ストーンサークルツアーを行ったら、74箇所も回らねばならないが、どうだろう。歩いて古代を偲ぶだけでも、心豊かになりそうだ。

先日見たヒトヨダケを思い出した。

上から列石が見えるように、見晴台が置かれていた。

小屋は復元した物と思われるが、本当にここにこの様に並んでいたかは判らない。

数多くの石だけは、並んでいた。ただ丸く置かれているだけでなく、小さな環状列石が、さらにぐるりと環状に並んでいる。せっかく見晴台に上がっても、目線が高くなって全体を見渡せても、広すぎてカメラの画面には入りきれなかった。普通の人なら2枚を繋げて大スクリーンにするのだろうが、想像でカバーして欲しい。

元々、中央の石は縦に置かれていたのではと思われる。

近くに栗の林があった。東北地方には縄文遺跡が沢山あって、大きな物では青森の三内丸山があるが、狩猟民族と思われていた縄文が、栗などの栽培を行い稲作や農耕も行っていたと言うのが現代では考査されている。別の場所で日本での最初の稲作の跡が見つかったが、8000年前のものだそうだ。稲は亜熱帯に近い暖かい地域で自生した植物で、海の道を通って日本列島に運ばれた。その頃の東北は暖かくとても豊かな時代だったようだ。

その頃でも、壁のない、このような小屋で住んだのではないような気がする。それとも見学者用の単なる東屋か。

我々が想像する列石は、暦か宗教儀式に使ったのではと考えるのだが、暦が必要なのは農耕民族だろう。

ここでもロープが張られているのだが、ロープの間には電流柵も設置してあり、何を避けた物だろうと思う。高さはそんなに高くはない。この辺りに猪や猿などでも出るのだろうか。石を守る為か、栗を守るのか。

大湯の環状列石は、先ほどの列石の他、廻りに沢山の列石群があるのだそうだ。道路を挟んだ向こう側にもあるのだそうだが。

看板の後ろにはリンゴが植えられていた。おお、赤く色づいている。

3度目の解散をして、秋田へ向かった。

 

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