住めば公園風田舎町

「住めば都」と言われるがわたしゃ田舎の方がいい。町全体が公園のようなそんな田舎町に住みたい。

712 ユダヤ教、キリスト教の渡来を考える 1

2008-10-04 15:14:11 | もしも、徐福が日本に来ていたら
日本書紀と日本語のユダヤ起源
最近、「日本書紀と日本語のユダヤ起源」という本を読んだ。
ヨセフ・アイデルバーグ著 、久保有政訳である。
ネットサーフィンで、その存在と内容は大体分かっていたが、熟読してみると誠に感慨深い。



 
日本には古くからユダヤ文化伝わっていたことを、数多くの実例を示して説明している。
そればかりではない、日本語の起源もユダヤのヘブル語であると主張している。
聞いただけでは、眉唾のように聞こえるが、そのあげられた豊富な例は、もはや、例を通り越して、事実であろう認めざるを得ないものである。

実は、guuchanも「もしも、徐福が日本に来ていたら」を書きながら、古事記や書紀を初め神道、仏教、出土物に見えるキリスト教、ユダヤ教文化の影響が色濃く見られ、早い時代に日本に伝わって来ていると確信するようになっていた。
それらを、どう整理できるだろうかと考えて居たが、この本にはそれらが、非常によく整理されて提示されている。

しかし、かねがね思っている何時到来したのか?という疑問は氷解しない。

時代の新しい方から遡ると、
804年法然、最澄の入唐のとき。景教(キリスト教)の影響が著しい経典や仏教思想を持ち帰っている。
600年遣隋使、遣唐使の派遣。聖徳太子の行った政治に著しい影響が見られる。
403年応神天皇14年(283年とあるが実年代は+120した403年と思われる)。弓月の君率いる秦氏の来日。秦氏一族は景教(キリスト教)信奉者。
BC220年徐福集団の来日。百工(多数の技術者、職人)は多くユダヤ民族であったと推測する。
BC950年頃「タルシシュの船団も所有していて、三年に一度、タルシシュの船団は、金、銀、象牙、猿、ひひを積んで入港した。」「22:これは王が海にタルシシの船隊を所有して、ヒラムの船隊と一緒に航海させ、タルシシの船隊に三年に一度、金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せてこさせたからである。(口語訳)」
「 once in three years came the navy of Tharshish, bringing gold, and silver, ivory, and apes, and peacocks. (king james version)」孔雀の原産地はスリランカやミャンマーである。
ソロモンの珍しいものを輸入するという政策は、アジア大陸南岸の諸都市を刺激したに違いない。
また船団の一部で調査、発注を担当す先鋒部隊が日本まで来たことも考えられる。ソロモンの時代在位(BC965~BC925)、海上貿易も盛んにし、直接ではなくてもインドとの交易があったと思われる。
BC1100~BC1200年頃海上交易で繁栄していたシバの女王の国は、現在のイェーメンであり、ソロモンの時代以前から、航海を通して、或いはナイルを通して、アフリカとエジプト、インダスやインドとアフリカをつなぐ貿易の中継地として繁栄していた。
その一部が中国や日本まで来て、倭人に周の皇帝に謁見させるという橋渡しをしたかもしれない。
 
BC2200頃ペルシャ湾のバーレイン島がメソポタミアとインダスを結ぶ海上貿易の中継基地であった。
(近年、バーレイン島で発見されたBC2200頃の墓から、インダス文字で書かれたバーレイン製のはんこが出土している。)
 


 倭人の世界史への登場の最も古い記述は、『論衡』という中国の古い書物である。
「倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す。」(巻八、儒僧編)とある。あるいは「成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢を貢す。」(巻九、恢国編)とある。
 この成王とは周の二代目の天子であり、紀元前一二世紀頃のことのようだ。

このような時代に、倭人が海外にどういう手段で、登場できるだろうか?
その謎の故に、この記述は謎のまま、だれも推測を加える人も無かったようである。

BC1200年当時は、日本列島には主な種族として縄文人と呼ばれる倭種とアイヌしか居らず、弥生人はまだ登場していなかったであろう。

彼等が食料を確保する方法は採集、漁労であったろう。
農業は、あってもせいぜい、家族単位、部族単位のもので大規模なものではなかったであろう。
元始的な社会では、交通手段が発達して居らず、広域の社会を形成する利益が見出せないからである。

そういう時代に、倭人が中国大陸に登場するには、他の力によらねばならない。

その可能性を、世界の海洋交通に探ってみた。

すると、ペルシャ湾のバーレイン島にあるBC2200年の墓から、インダス文字で書かれたバーレイン製のはんこが発見され、すでにその当時、メソポタミアとインダス(パキスタン辺り)との間に海上交易が行われていたことがわかった。
(インダス文明とメソポタミア文明の交易)

これほど昔から、インダスとメソポタミアがそうなら、絶大な繁栄を誇ったエジプトとインダス、インドとの交易が行われていたのは当然であろう。
その貿易の権益を得て繁栄したのが、シバの女王の国(現在のイェーメン)である。ローマ時代には「幸福なアラビア」と言われた。

この国の商船団は、エジプトの旺盛な需要に答えるため、世界の珍しいものを求めて、アフリカ沿岸、インダス、インド或いはその東にも足を伸ばしていた。
一般に、エジプトに運ばれた象牙はアフリカ象の象牙のように思いがちだが、イェーメンが介在することを考えると、むしろアジア象の象牙で、インダス、インドから持ち込まれた方が自然のようだ。

このことから、冒険しようと思うものが居れば、インドから更に東を目指すことも出来た。
その一部が中国や日本まで来て、倭人に周の皇帝に謁見させるという橋渡しをしたかもしれない。 
好奇心の強い倭人は一度他国を見たいと望むこともあったあろうし、外の世界があることを見せてやることは彼等が言うことの真実を証明することにも役立ったであろう。
また、中国の皇帝に他の民族やその産物を紹介することは、貿易商が皇帝に謁見するする良い口実になったと思われる。
しかも、『論衡』の記述では「成王の時、越裳雉を献じ、倭人暢を貢す。」(巻九、恢国編)とある。
 
遠い二国(ベトナムと日本)が並べて書かれている。
これは一緒に連れてきたものが居て、それが貢物を捧げる時、その産出国の人を同時に紹介したのではないかということを示唆している。
その仲介者は、アラビアの商人ではなかったろうか。
アラビアと取引のあるインドの商人ということも考えられるが、最終納入先のエジプトのパロに世界の珍しい商品を紹介する上で、自らその産出国を見ないでは、商品に値打ちが出ないから、それを確かめに来たのは、イェーメンの商人であったろう。

しかし、ここではまだユダヤ文化が入ってきたとは思われない。
また、倭において産出物の調査や、市場の調査をするために、一部は上陸して基地を築いたかもしれないが、航海の時間と、遭難の危険、得られる産物が限られていることから、その可能性は少ないのではないかと思う。


 




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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
guuchanさん.....おはよう御座います. (お気楽で--す.)
2008-10-05 07:35:40
はぃハィ 御無沙汰でした......
 そして 徐福...久しぶりです...
 夢とロマンの 追跡が 始まりましたね....
 頑張って 追求してください...奥深いです...
又 遊びに 来ます.
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お気楽さんーこんにちは (guuchan)
2008-10-05 15:01:36
 お久しぶりです。

 また、此れの他にも新しいことを始めてしまいました。
 この歳になっても浮気っぽいのですね。

 一芸に秀でる方が良いのでしょうが、一つに没頭するということが長続きしないのですね。

 忙しくて、更新を怠りがちです。
 ボチボチ更新します。

 本当は、毎日更新するという強い意思を持たないと、続けられないのですね。

 
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ご無沙汰ですが (自然を尋ねる人)
2008-10-05 16:40:12
わかるようでわからない話。
信じろと言われてもそのころ生まれていなかったし、
右や左が分かるまでしばらく勉強がてら拝見します。
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自然を尋ねる人さん~こんにちは (guuchan)
2008-10-06 07:15:02
ありがとうございます。

見てくれている人があるというのは、一番の張り合いです。

といいながら、ずいぶん更新を怠ってきました。

3日に一度でもこうしんしなければとおもっています。
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