まとめて読みたい方は、上の「もしも、徐福が、、、(カテゴリー)」↑ をクリックしてください。 目次は、ここをクリックしてください。 | |
523-1 弓月の君(1) 弓月の君とは、また優雅な名である。 誰が名づけたのであろうか? 新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)は平安時代初期、815年に編纂された古代氏族名鑑であるが、その中に、次の記述がある。 男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀。]八年来朝。男融通王[一云弓月王。]誉田天皇[謚応神。]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐 guuchanの勘では、融通王はむしろ音を主体に示しているものであり、意味は弓月君のであったと思われる。 しからば弓月君には、いかなる意味が在るのか。? それはしばらく置くとして、 男功満王が仲哀天皇8年(199+120=319年)来朝とある。 続いて男融通王(弓月王)が誉田天皇(応神天皇)十四年(283+120=403年)来率廿七(百二十七か?)県百姓帰化したとある。 功満王と弓月王との間に84年の差がある。 功満王と弓月王が血縁関係にあったとすれば、弓月王は功満王の孫もしくは曾孫に当たろう。 功満王が来朝したのが仲哀天皇8年と云う事が、極めて重大だ。 何故なら、このとき中哀天皇と神功皇后は九州の香椎にあって熊襲を討とうとしていた。 そのとき、神託が下って海の向こうの新羅を討つことになったのである。 参照:guuchanブログ7月25日中哀天皇と神功皇后 神託が下って唐突に新羅を討つ話しが出てくるのである。 神功皇后が神託を天皇に伝えたのであるが、そのとき降った神が功満王とするならば、パズルはまさにぴたりと合う。 つまり情報源は功満王だった。 313年に高句麗が楽浪郡に侵攻してきたため、帯方郡も瓦解した。 319年に仲哀天皇、神功皇后に情報がもたらされた。 帯方郡を支配していた中国の太守一族は、自力で、帯方郡を守ることは不可能と判断した。 一族の身の安全を考えるため、人を何度も倭に派遣して豪族などと接触して調べていた。 そして、倭に望みありと見ていたときに、仲哀天皇、神功皇后が九州に来ると聞いた。 その知らせが、帯方郡に居た功満王にもたらされ、功満王自ら会いに来たのではないだろうか。 |
最新の画像[もっと見る]
-
令和二年、あけましておめでとうございます 5年前
-
角島・千畳敷・竜宮の潮吹 8年前
-
角島・千畳敷・竜宮の潮吹 8年前
-
角島・千畳敷・竜宮の潮吹 8年前
-
角島・千畳敷・竜宮の潮吹 8年前
-
角島・千畳敷・竜宮の潮吹 8年前
-
946 ETに出会う 10年前
-
945 四つ葉のクローバー 10年前
-
945 四つ葉のクローバー 10年前
-
944 節分草 10年前
海の向こうと繋がっていたのですね。
こちらも奥が深いです。
ヤマトタケルが討ったクマソタケル、は南九州かもしれませんが、仲哀天皇が討とうとした熊襲は福岡県内のようです。
guuchanにも神託の裏、な~るほどでした。
融通王=弓月王・・・いい名前に変わりましたね。
日本もその頃から海を隔てた世界と深く繋がっていたのですね。
そして大陸とはその後ず~と関わりあって行くのですね。
それから仲よくなったり反目したりの歴史ですね。
何故そうなるかはちょっと見えてきた気がしました。
意味も忘れていたので、調べてやっと南九州の一族のことと知りました。
となると、南九州の熊襲を討つのをやめて、正反対の方向に向かったのですね。
神託の裏も解けました。な~るほど、です。
神託の正体見たりですね。
歴史の謎に迫るのは面白いですね。
そして 7/25日 お気楽も カキコしていました
漁夫利と 間違いなく 書いてました...
其れが ココに繋がるとは お見事でした....
又 遊びに 行きます.