まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

自己認識の方法

2005年01月17日 | 教育、文化、少子化
比較をする、こと、からでしか、あらゆる関係は証明できない。
当然のこととして、自分を知ることも、他人を知ることによってのみ
成立する。

環境が変わることは、人として、あらゆる意味でチャンスだ。
移った先で、その環境の先住者である他人も、己を省みるチャンスのはずだ。
それぞれ、環境をシャッフルする意味は其処にあるはずだ。

しかしだ、そのようにとれない人間が多くいることは、こと5月にイベントを
多く発生させるこの優しい社会が証明している。
5月病は、もともと、他人の目を持ち合わせる勉強を怠った、
結局、我儘な人間に用意されている、エアポケットのようなものだ。
自分で自分を理解できないことを、目標が、人間関係が、会社のあり方が、
など、実に多くの言い訳をしつらえる。
言ってみれば、自分は悪くは無いんだが、他人なり社会が正当に評価してくれない
という全くの「他人のせい」の爆裂だ。

餌を得るために、せっかく社会が複雑にしてくれて、ビギナーもプロも
相応に場を用意していただける環境があるのにもかかわらず、
己の選択責任を棚に上げる人間の多いこと多いこと。
ロジカルな組み合わせが多くなればなるほどリスクが増大することは
当然。仕組みが確立されている「仕事」はリスクがない。
ただそれだけのことで、そこに優劣も尊卑も介在しない。
その観念が日本にはない。

餌を施す、そのシテムが長く日本に続いたた一方、
近代、相続法による、結果平等主義にその止めがなされた。
餌を得る作法を、観念的に制約する。
システムとしては、失敗した共産主義に見られる方法が、
良し悪しは別にして、資本主義陣営にいる日本のあり方のダッチロールに結びつく。

転校は、奔放に過ごすことを許された己に強烈な負荷を与えた。
初めて、まっさらな他人の評価を浴び続け、己の存在理由の崩壊がおきた。
結果、内向的に、ただ、自分が言った内容、とった行動が、どう評価されているのか
そればかりを気にする人間がそこにいた。
どんな仕打ちをうけようとも、家の消失前の学校環境は、そういう意味で、幸せだった。
一度目の転校は、そのようにして始まった。