まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

そこから始まる

2005年01月12日 | 雑感(日記)
父親が公務員ということもあり、生活構成を考えない転勤が常態化していた。
もっとも家賃は安い。
現在、大いに盛り上がる世論に返す言葉も無いのだが、確かに生活は楽だったはずだ。
70年代、80年代と社会の主軸を勤めた人間たちは、戦後、もっとも金銭的にも、
人生のプロセスにおいても、勝ちを享受できた層であろう。
それが、今、世界をこうしてしまった当事者でありながら、子供らに社会奉仕だなぞ、言える身分でもなかろうに。
今流行の、自己責任が最も欠落していた層でもあった。

そうはいえ、借りの宿とはいえ、裏手の家の風呂の空焚きで、角に密接していた4軒が全焼した。
小学校5年の出来事だ。

当家は角地で、正面に公園が、細い路地を挟んで、右向かいが墓地と、密度の高い平屋の
群れの中では好条件ではあったが、全て木造の建築物だ。
明け方ということもあり、新聞配達の人間に、急増ででっちあげたぶりきの塀をたたかれて、
事態を理解した。

柱が1本でも焼け残っていると、全焼にならない。保険のあざとさを理解したのもこの頃。
急遽、焼け出された内、2件にはプレハブ住宅が用意された。
意外な体験だった。

これを機に転校が数回始まることになる。
後に、成人になってその地を訪れたのだが、それ以来建物が建つことなく、駐車場として
そのまま使用されていた。
4軒があった、その区画にだ、とめられる車の数が4台というのには、笑えた。
成長の激しい時期に、時を断絶した空間は、当たり前だが、成長するはずもなく、
距離感も、何もかも想像以上にミニチュアの世界が広がっていた。
確かにその公園で野球の真似事をしたはずだが、今の自分のサイズでは
キャッチボールも不可能であった。
飛び越え損ねて落ちたどぶ川も、渡りが1メートルもない側溝にすぎなかった。
しばし、たたずみはしたが、幼い頃からの友達すら覚えていない自分にとって
相変わらず根無し草のような思いを感じた1日ではあった。