餅つき
昨日、餅一臼分を知人に注文することができた。例年の年末には多くの人が集まっておでんや雑煮を食べ、一杯飲みながら賑やかに餅つきをして来たのだという。我が家もそれを聞き付け、昨年から餅を注文するようになったのだが、今年は人を集めず餅つきだけになるのが寂しいという。昨年、我が家では数十年ぶりの臼でついた餅を口にしたのだが、やはり臼でついた餅の美味しさは格別だった。
大学時代、毎年冬休みに入る直前にクラブの部室前の空き地に竈を作り、近所の農家を廻って借り集めた臼・杵・蒸篭などを使って餅つきをしていた。昼過ぎから時間の空いた学生が集まって火をおこし、蒸篭でもち米を蒸して餅をつき始める。蒸篭の中のもち米をつまんでもち米の蒸し具合を確かめるのだが、そのまま全部食べたくなるほどのその美味さが印象に残る。
大学一年で初めて杵担当となった時、良く知らないまま全体を均等にしようと周辺まで杵を当て、杵が石臼に当たって欠けたことも。木くずが餅に混ざるわ杵は傷むわで、杵は真ん中だけを狙うものだと学んだ。その代わり、十分につけてない部分を真ん中に持って行くための「絶妙な返し」が必要なのだ。石臼は最初に煮え立った湯で臼を温めるのが肝心、それでもゆっくりつくともち米が冷えてしまうので手早くつき上げることが必要。同級生の女子に叱られ、いろいろ学んだものである。臼にもち米を入れたら杵を使って手早く潰し捏ね上げ、大方その段階でほぼ餅に近い処まで持って行くので、杵を振り上げる所謂「餅つき」動作はほんの仕上げでしかないこともその時に悟った。
そうやって部活でつき上げた餅をすぐに餡餅や雑煮で食べたのだが、その美味しい味を数十年ぶりにまた味わうことができるようになったのがなんとも嬉しい。やはり、「餅は手でつくに限る」。家に庭が出来た時、よほど自分の家でもやってみようかと考えた。しかし、一家族が食べる程度の量では少なすぎて「餅つき」にならないし、やはりある程度大量につかなでれば「餅つき」の醍醐味は味わえないとあきらめた。今年はコロナ禍で餅つきも中止かと思っていたが、人の集まる "集い" は中止しても餅はつくということ、昨年に続いて「臼と杵でついた餅」を味わえることになり安堵した気分である。