GOSEO BLOG

2-0が怖いのではない、お前達の勘違いが怖い

私のDTM遍歴

2024-02-18 14:51:26 | 音楽
趣味振り返りモードに勢いがついて、DTM(デスクトップミュージック)も振り返ってみる。

私がDTMを始めたのは、15歳のころにYMOを聴いて、こういうのを作りたいと思ったのがきっかけ。15歳というと1991年なのでYMOが散解してから8年経過しているが、ラジオか何かでライディーンを聴いて「こういう音楽あったよな」と思い出したのだと思う。

また、パソコンが欲しかったのだが、DTMはパソコンを購入する動機付けとして働いたとも思う。DTMをやりたくてパソコンを買ったのか、パソコンが欲しくてDTMをやったのか、どちらだったかは思い出せない。

初めて買ったパソコンはMacintosh LCⅡ。LCはローコストカラーの略で、あの頃はカラーで手が届くのがこの機種のみだった。


このLC2と、ローランドのミュージ郎forMACとヤマハのMIDIキーボードCBX-K2が初めてのDTMセットだった。


YMOのビハインドザマスクや、佐野元春のミスターアウトサイド等、譜面を買ってきてマウスでポチポチと打ち込んでコピーしていた。

その後、シンセサイザーが欲しくなり初めて買ったものが立川の楽器店で中古で6万円で購入したコルグWAVESTATION。私がシンセに求めていたのは生楽器の電子版の音(ピアノやストリングス)だったのだが、この機種はシンセでしか出せないような奇妙な音ばかりが入っており、オーソドックスな楽器の音が少なかったので、少し期待外れだったのを覚えている。とはいえ、この時期のコルグシンセの鍵盤は適度なクリック感があって押し心地がよく、デザインも秀逸だったのでずっと持っていた。


YMOの後は、野田努が編集したデトロイトテクノのコンピレーションアルバム「コズミックソウルⅡ」の中に入っているURのJupiter Jazzに衝撃を受け、それ以降、更にテクノに興味が深まっていく。

初めて買ったサンプラーがAKAIのS01。これでサンプリングしたサザエさんの中島の声で作った「中島クリスタル」という曲が、私の最初のオリジナル曲。その後ボイスサンプリングの曲はいろいろ作ったが、ボイスサンプルの曲で私が一番気に入っているのが渡辺篤史の声でつくった「Home殺し」。

その後、シーケンスソフトをスタインバーグのCUBASEに変えた。TB-303とTR-808のモデリング音源であるRe-birthとのセットのパッケージを買ったと思う。Recycleというサンプル音を切り刻んで再配列するソフトが入っており、これが非常に使い勝手が良かった。サンプルスライスを並べて曲を作る方法は、手弾きもできずまた楽典知識の無い私にとっては有難いやり方だった。


大学時代は研究室の先輩田中さんからシンセを借りて曲を作っていた。ローランドのJupiter‐4とヤマハDX7 ⅡFDを借りた。いま考えると、よくこんな貴重なビンテージ機材を貸してくれたと思う。「Fight shin-ei」という曲はJupiter-4のアルペジオをサンプリングして作った。「Quantum theory」という曲のリードはDX7を使っている。


大学卒業間際では、WindowsPCで曲を作ることも増え、SoundForgeで編集したデータをACIDに貼り付けて作ったものも多い。この頃が一番多作だった。

Roland Juno-106をハードオフで見つけて、たしか5万ちょっとで買ったと記憶している。続けて音をだすと何音か目に「ミョーン」と発振した音が出る不具合を抱えていた。ICの故障らしいのだが、その頃にはもうそのICは売っていないので直せないという状況だった。この故障の情報は研究室の野口さんが教えてくれたのだが、Jupiter4を貸してくれた田中さんといい野口さんといい、大変恵まれた人的環境だったんだなと思った。音響に関わる研究室だったのでこういう人達が居た。「Pac-land」という曲のシーケンスフレーズはこのJuno-106を使っており、所々ミョンミョンと発振しているのが聴くとわかる。


社会人になってからもDTMは細々と続けていた。同期に借りたローランドJV-50を5年以上借りっぱなしにしていた記憶あり。ほとんど使わなかったのにずっと借りっぱなしで悪いことをした。


ハードオフでコルグT3を2万で見つけて買ったこともあるが、その頃はDTM熱が下火だったのであまり使わなかった。


2011年に自宅を購入する際に再度自室でDTMをやろうと思いiMacとCUBASE、Autriaのソフトシンセを導入した。結局このセットで完成までこぎつけた曲は1曲だった。仕事が忙しく何年も電源を入れない日が続いたので全て売ってしまった。


人生の中でもう一度DTM環境を構築したいと思っている。その際は盆栽スタジオと命名し、たとえ電源を入れなくても眺めているだけで良いという心持ちで過ごせる環境にしたい。DAWはAbleton Live、MIDIコントローラはPushにしよう。いつやるかは未定。

なお自作の曲をサウンドクラウドにuploadしてショートカットをつけたのだが、このgoo blogだと文章にサウンドクラウドドットコム(のアルファベット)の文字列が入っているだけで不正な書式というエラーが出てしまうので、曲のショートカットをつけるのは諦めた。

追記:高専の時のクラスメイト大石君から買ったnovation bass stationと、社会人になってからハードオフで8000円で買ったYAMAHA SY85を載せるのを忘れたので載せておく。SY85は長女のピアノ練習にも使った。


私のラジコン遍歴

2024-02-18 00:21:28 | 日記
アラフィフともなると過去の趣味を復活する(二巡目、三巡目)ことが多くなると思うが、先日買ったテントは人生初の一巡目なのでそういう意味でも楽しみ。

これまでの私の趣味だとラジコンは4巡目まで行ったと思う。死ぬまでにもう一度、ヨコモのハイエンドツーリングをやりたいと思っているが、今回はキャンプに振った。過去を思い出すモードの一環で、4巡したラジコンの遍歴を書いておく。なお、画像は全てWebから引っ張ってきたもので自分のものではない。

1巡目 トイラジコン期

1台目 カウンタック(トイラジコン)
人生初のラジコンはカウンタックだったと思う。この写真のものは赤だが、私が持っていたのは黒だった記憶がある。


2台目 トヨタハイラックス
良く走った記憶がある。トイラジコン期は小学校入学前だったと思うが、稲荷町の原っぱで佐々木君と会ったときは、たしかラジコンを走らせていた時だったような気がする。


2巡目 ラジコンブーム期
私が小学校3年くらいの時、近所の公園で誰かが走らせていたグラスホッパーを見た時に、トイラジコンしか知らなかった私はその速さに衝撃を受けたのを覚えている。その衝撃からラジコンに興味を再び持ち、ホーネットを買った。当時はラジコンのブームだった。

3台目 タミヤホーネット
プロポは双葉のアタックだった。自分で組み立て始めたが、ディファレンシャルギヤの仕組みが分かっておらず、片側を回転させると反対の輪が逆回転することが間違っていると勘違いしてしまい、ギブアップしてうっくんのお父さんに作ってもらった。初めての本格的なラジコンで大変気に入って楽しく走らせていた記憶あり。

4台目 京商ジャベリン
たしか小学4年生の頃に買った。これをもって夏休みに新潟の父親の実家に行って組み立てをやったと思う。で、ステアリングサーボの取付ができなくて、ジャベリンは結局まともに走行することができずに終わったと思う。そう考えると、私の工作能力って低かったんだなと改めて思う。私の家族はメカものは苦手なので助けてもらうこともできなかった。

5台目 タミヤホットショットⅡ
これが自力で作ることができた初めてのラジコンだった。プロポはサンワのMサンク。小学5年になってたかな?このマシンでぐっちゃんと一緒になかの模型のラジコンレースに出た。自分の出たヒートは6台中5位とか、そんな結果だった。鶴瀬駅から15分ほど歩いたところにコースがあった。行く途中にマクドナルドのモーニングで初めて食べたソーセージマフィンの味や、コンチネンタルボンという建物かなにかの名前で爆笑したのを思い出す。あと、なかの模型店で店主から「うちは京商のテストコースだ」「レースに勝つなら京商だ」と30分くらい力説されて怖かったのを思い出した。


6台目 タミヤウィリアムズホンダF-1
初めてのオンロードカー。バギーよりもスピードが出て楽しめた。公民館の横の道路でひたすら走らせていた。


7台目 京商オプティマミッドカスタムスペシャル
初めてのベルトドライブ4WD。ホットショットのシャフトドライブと違って静かな駆動音がよかった。その後、リアの駆動系をフロントに取り付けてFF車に改造した。FFの安定したコーナリングをこれで実感していた。この改造には瞬間接着剤を使っていたのでぐっちゃんからは馬鹿にされたが、ジャベリンを作ることができなかった私がFFをつくることができるようになったのは進歩だった。このオプティマミッドで2巡目は終了。

中学ではサッカー部に入った。小学生時代にサッカーをやったことはなかったのだが、「何か運動部に入らなければいけない」「ラジコンなんかやっているのは根暗な奴だ」という世間体ドライブが大きかったと思う。多分。ここでラジコンからは離れた。


3巡目 社会人初期
中学、高専、大学と、ラジコンから離れていた。前述の世間体ドライブもあって。社会人になり、久々にラジコンでもやるかと思って、タミヤが本格的にレース車両を作っているのに興味があったのが3巡目のきっかけ。


8台目 タミヤTB EVOLUTION Ⅱ
吉祥寺のユザワヤで買った。ノバックのFETアンプとキャパシタで、直線がめちゃくちゃ速かった。

9台目 タミヤTRF414M
オークションで、本体だけでなく、持ち運ぶバッグ、スペア部品などのセットで購入した。この時の職場は北関東で、同期でラジコンが趣味の人がいたので一緒にコースに行って走らせた。静かで速いマシンだった。

10台目 タミヤデザートゲイター
久しぶりのバギー。北関東の空き地で走らせてた。


4巡目 タミグラ期
北関東期を終えてから2年後くらい、4巡目が始まった。
11台目 タミヤTB EVOLUTION Ⅴ
3巡目で経験を積み、工具類もそろっていたので気合を入れて組み立てた。プロポは当時のハイエンドサンワM-11。アンプはキーエンス。ただ、ノバックのアンプを積んだエボⅡのほうが暴力的な加速でよかったと記憶している。エボⅤは青いアルマイトがかっこいいので棚にかざっているだけでも満足感があった。

12台目 タミヤTA05-R
会社のラジコン仲間とタミグラに出るようになった。ボディをドゥーハンカラーに塗り、参加者から「ドゥーハンだね」と言われてうれしかったのを覚えている。浅草ROX開催の際、競馬のGⅠ開催があったのでレースの合間に場外馬券場に行ったのだが、私が会場の灰皿に刺さってた緑の鉛筆を取って馬券をマークする所業を見て、育ちの良い同僚から引いたと言われたのも思い出した。

タミグラに出て気が付いたのは、結局練習時間が稼げる子供にはかなわないな、ということ。また、この頃から仕事に力を入れるようになったこともあってラジコンに触れることが無くなり、数年後にハードオフに道具を全て売った。半年くらい同じハードオフにエボⅤが売れずに残っていた。

こうして振り返ってみると結構な台数のラジコンを買っている。学生時代は近くに矢田部アリーナがあったにもかかわらずラジコンを一切やってなかったのはもったいなかった。でもその頃は、自分を世間の平面に乗せることにきゅうきゅうとしていた時代なので、あの頃はあの頃の必死さでラジコンに触れることが無かったのだなとも思う。