一生

人生観と死生観

再び人間化学工場

2008-06-30 21:32:34 | 哲学
6月30日  晴れ
 昨夜仙台よりJR特急でかえる。予定は高速バスだったが、昨日の日曜は利用者が一杯で予約が取れず、急遽JRに切り替えたので僅か4-5分の綱渡りであった。家に帰り、草臥れてはいたが、北九州市前田喜代子さんからの献本が届いていたので読み始めたら、ワクチン禍のお子さんの受難の詳しい状況が分かり、結局一気に読破してしまった次第。本の中で詳しく書かれているように、役人は物事の真相を直視せず、自分たちに不都合なことは無視したり、隠したりする。国民を苦しめる悪役となっている。私たちの訴訟が果した役割について深く考えさせる。とにかく良い本が出来て大変結構なことだ。
 さて人間工場のことだが、人の身体がこんなにもよく出来ており、しかもそれが実に合理的に動いていて、化学物質の絶妙な関わりのもとに機能しているのは、まったくの驚異である。超越者の存在に思いをいたさざるを得ない。私の場合だがインスリン不足のため、つまりは糖尿病のため、長年身体の問題を抱え、ついに毎日注射を打つことになったのだが、今日でちょうど一ヶ月、自覚症状は非常に良い方に向かっている。手足の水泡の発生する掌セキ膿胞症が、血糖値の悪化した時に増悪する現象は前から分かっていたのだが、今回それが著しく改善しつつある。インスリン療法は終末療法にあらず。希望を持つべき画期的なものである。
 それにしても、平安時代の昔
  この世をばわが世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば
と歌った藤原道長は最後は糖尿病で苦しみ、亡くなったと言う。20世紀初期、カナダの科学者マクラウドらのインスリン発見はどれほど人類に貢献したことか。これからの科学は人類の福祉に奉仕するものでなくてはならないが、人間化学工場の特性を単に無機質に見るのではなく、その奥に潜む超越者の無限の知恵に思いをいたすものであって欲しい。そこから新しい真に本質的な発展が期待されるのである。

日本人は案外哲学好き?

2008-06-27 11:41:34 | 哲学
6月27日 曇り時々晴れ
 哲学とは何か。新聞には「鉄子の哲学」という記事があって、あまりちゃんと見ていないので正確なことは言えないが、身近な生活から物事を考える主旨で哲学としたのであろう。故人となった池田晶子という人の哲学はかなりに評判をとったようで、新聞書評も出た。また今年に入ってから私が気付いた雑誌で、「考える人」というのがある。月刊誌「文芸春秋」の半分くらいの暑さで、季刊、値段は倍位するが、なかなか特色のあるもので、執筆者も一流、内容的にも高いレベルだ。知識人、経営者、企業家など将来的なしっかりした情報を必要とする人向けとうたっている。エッセイなど充実し、哲学的、思想的な記事もある。採算が取れるのだろうかと最初は心配だったが、結構続いているようだ。「日本人は働き蟻みたいだから嫌い」と言ったフランスの女性首相がいたが、上のような現象を見ると、日本人は決して蟻のようではなく、案外哲学好きなのかと思わせられる。

未来を開くために歴史を!

2008-06-26 14:53:12 | 歴史
6月26日 小雨
 人は時間の中で、すなわち、歴史の中で生まれる。人の脳はほとんど無にひとしい材料の中で、巧妙な設計図によって出来上がるのだ。身体もまたそれに合うわせて出来上がる。遺伝子の基本をなしているDNAは世代から世代へとすこしずつ変化しながら、生き延びてゆく。
 人の生き様はその地域に、ローカルに影響されながら、ある方向に向かって進むように思われる。鎖国主義は廃れ、グローバルな力が働いて世界は徐々に一つの目標に進むといったら言い過ぎかも知れないが、人は何らかの理念を持たないでは安心して生活することが出来ない生き物であるようだ。アメリカは今世界の超大国で、その建国の理念は立派であった。現実はその理念に背くこともあったし、間違いも多かった。しかし時々ハッとさせられるような個人やグループの言動があって、この国も捨てたものでないと見直された。ともかく世界の歴史は動く。
 われわれは歴史の中で生きている。惨めでも、貧乏でも、その生活の現実の中から立ち上がらなければならないのだ。未来を開くために過去の歴史に学び、そして良識と希望を持って前途に目を向けよう。

ノーベル賞の福井謙一の頭の中

2008-06-25 17:12:58 | 哲学
6月25日 晴れのち曇り
 今日ノーベル賞をもらった福井謙一夫人友栄さんに電話して、近頃のご著書の『ひたすら』を読んだこと、その一部に大変重要なことが記録されており、今度改訂される私の『化学者たちのセレンディピティー』に引用したいので、お許し願いたいことを話した。夫人は快諾された。
 その記録とは何か。福井先生が若い頃、化学反応の計算に熱中して、夜中に計算に次ぐ計算をしていた姿であった。メモ用紙の何十枚か何百枚か、机の上に積りに積もる毎日であった。ある時眠っていた夫人は夫に起こされた。「起きなさい。起きなさい」と寝ている彼女の布団の襟を小さく揺り動かす。何事かと起きてみると計算の最後の一枚を見せて、満面の笑みを浮かべて「これきれいだろう!きれいだろう?」と言うのだった。そこには紙幅一杯の長い式が、一段一段短くなり、ついには3センチほどの単純な式に収斂していた。
 この様なことが何回か繰り返されたある寒い冬の夜中、大きな声で彼女は呼ばれ、式を見せられて「きれいだろう!」と行ったりきたり。よほど嬉しいのだろう。これが福井のノーベル賞の仕事の始まりであったことを、夫人は感慨深く思い出す。
 以上のことは日本の化学史上の大事件がいかにひそやかに一人の化学者の頭脳でおこなわれていたかの目撃談であり、このような生々しいお話が日本では記録されたことがなかったのだ。天才の頭の中をのぞいてみたいと私は前に書いたことがあるが、間接的にせよ、この話は天才のそば近くいる人の貴重な証言である。天才は集中し、思考の中で苦闘する。しかしその思考が実った時、彼は無邪気に喜ぶのである。アルキメデスが真理を発見した時、見つけたぞ!と叫んで裸で外を走ったと言う故事を思い起こさせる。

英文校正者の個性

2008-06-24 22:00:17 | 哲学
6月24日 曇りのち晴れ
 6月も下旬、夏も盛りに近づいてて行く。梅雨模様が中休みの時は日本列島全体が暑くなる。
 さてニ三日前、日本学士院から投稿した論文の英文校正が届いたので、今日あらためて調べた。英文は達人でも校正者に直されることがあるそうだ。各々の校正者に個性があり、自分の英文が一番と信じている位でないと校正はできない。しかし英文を作る側の立場に立てば、何人かの校正者がそれぞれ勝手なことを言い出して困ることになる。私はすでに対価を払ってnative のアメリカ人に英語を見てもらった後であったが、それでも今回の英文校正でずい分直された。これも勉強になると思えば腹も立たないけれど、やはり英語の誤りを正すということと、流暢な英語に仕立てるということは、別物でないかという気がした。
 

想像力と創造力

2008-06-23 17:24:20 | 哲学
6月23日  雨のち曇り
 想像力と創造力は発音は同じだが大いに違う。想像は夢に似てあちらこちらに飛び移る性質があると思う。創造というのは何か新しいことを始める、人真似でない事をやるのが創造だ。何から何まで100%新しくなくても、新しいことがかなり含まれていれば創造的だと言えるだろう。心構えの問題も絡む。人間は創造力が働く時、創造神の働きが反映するような喜びを覚えるのだ。科学において創造とは新しい概念や新しい手法を作り出すことであり、非常にはっきりしている。これによって多くの事実が作り出され、その相互の関係も明らかになる。科学を応用した技術もそれと並行して新しいスタイルの技術パターンを生み出してゆくのである。人間が生み出す技術は人間中心であることを免れず、したがって無制限に発展できるとは限らない。制限を加えなければならない時が必ず来るであろう。地球温暖化はその典型的な例なのである。

誤解されないように書け!

2008-06-21 14:34:00 | 哲学
6月21日 曇りのち晴れ
 優れた物理化学者久保昌二の言葉としていまに伝わるものがある。ひとつは(1)大胆に思索し、細心に実験せよ。その逆をするな。つぎに(2)文章は理解できるように書くだけでなく、誤解できないように書く。
 久保昌ニは学者兄弟として有名だった。弟の亮五は物理学者となっている。上の警句は実験者の心得として語ったものらしいが、実験に限らない。大胆さは困難な時にこそ必要である。小心では難局を乗越えることが出来ない。しかし大胆に始めても気配りの細心さがないとことは失敗する。また文章は誤解できないように書くというのは大事なことである。政治家の文章は簡単明瞭にと言われるが、誤解されるように簡単化しているのではないかと思われるものもある。曖昧なことをわざわざ言う場合もある。科学者の文章は明晰でありたい。しかし誤解できないように書くのはなかなか難しそうだ。

貧困のスケール

2008-06-20 18:27:19 | 哲学
6月20日 曇り
 日本エッセイスト・クラブ賞が岩波書店刊の堤未果著『ルポ 貧困大国アメリカ』に決まったというお知らせがはいった。
 中味は読んでないが買って読みたい本である。私は1961年にアメリカに行って黒人家庭の隣に住む留学生一家の家を訪問したことがある。この一家は日本では裕福な暮らしをしているのだが、カトリック教徒なので貧困問題にはいささか関心が深いように見受けられた。隣の黒人家庭は子沢山で生活保護を受けているとのことだった。思ったほどには困っていないということであった。何とか生活は出来るし、子どもだって穢い身なりはしていない、心の持ちようだというのである。
 これがアメリカ一般に通用するとは考えられないが、一面の真理を現わしているかも知れないと思ったものである。貧しいということで心まで貧しくなってしまわない人もいるということである。そのような心境を持つ人は何らかの宗教を持っている人であるようだ。無一物に徹すれば無尽蔵の宝を所有できる。東洋的に聞こえるかもしれないが、西洋でもそれは真理なのである。

進化論と宗教

2008-06-19 22:30:23 | 哲学
6月19日 曇り
 強い薬になったので昨夜は低血糖状態となり、寝苦しい。
 脊椎動物の祖先がホヤのような動物でなく、ナメクジウオの類らしいという説が新聞に出ていた。進化論をダーウィンが発表して以来、彼と教会との関係は難しくなったようだ。彼はキリスト教を捨てたと言っていないが、教会側は進化論を聖書に背くとして攻撃した。現在では真正面から進化論を反教会、反キリスト教として論ずる人は少ないが、アメリカでは進化論を教えることを禁じている州もある。
 生物進化は科学であって宗教と対立するものではない。宗教は科学のような証明法をとらないが、宗教の真理は人の心に直感的に迫ってくるものだ。科学者であって宗教を信じる人は決して稀ではない。進化の中に超越者の影を見出す人もいるのだ。どこまでいっても神を否定することは出来ない。

珍しい銀杏の花

2008-06-18 09:40:48 | 哲学
6月18日 晴れのち曇り
 今日は朝から血糖値高く要注意のスタート。しかしあまり気にしないことだ。
 銀杏といえば東洋の植物。江戸時代のオランダ商館付き医官ケンペルの紹介で西欧世界に知られたロマンがある。雄花と雌花は別々の木につく雌雄異株なのだが、花は目立たないので知らない人ガ多い。雄花から花粉が飛ぶ光景を家内が見て、珍しく思い、俳句にしたところ、銀杏の花など聞いた事もないといって没になったそうな。
 常識は人の役に立つからこそ価値がある。しかし常識外のこともこの世にはたくさんある。常識という物差しは限度がある。自分の知らないことを、知らないからといって他人にその規範を押し付けてはならない。