一生

人生観と死生観

誕生日について

2008-02-29 13:29:59 | 哲学
2月29日  晴れ
 4年に一度の2月29日になった。余計なことかもしれないが、今日誕生日の人は閏年以外の年には誕生日の祝いをどうするのか気になった。4年に一度しかお祝いをしてもらえないとなればあまりにも可哀想である。たいていの場合、日をずらすこと、つまり替わりの日に移すことで問題を解決しているのだろう。どちらかといえば2月よりは3月の方が希望あふれる月として好まれるだろう。
 誕生は人生のスタートとして大切なことに違いないが、生まれた日を祝福と想わない人は、実のところを言えば、意外に多いようだ。人生にいろいろの苦難がつきまとう。生まれてこない方がよかった、生んでくれない方がよかった。そうであればこんな苦労をし、絶望に見舞われることがなかったのに。極端な場合、生まれた日を呪われよ、とまで言った人がいる。それは今は遠い昔、ユダヤの国に現れた大預言者のエレミヤであった。この人はユダヤの国の将来を心配するあまり、国王や支配階級の気に入らぬ預言を行い、迫害され、牢につながれ、深い井戸に吊るされた人で、日本人にたとえると幕末の憂国の志士のような存在であった。あまりの艱難につい愚痴が出て生まれた日を呪われよと口走った。
 だが、私は考えるのだが、人生に艱難があるのは当然のこと。私の苦労など序の口もいいところなので、苦労というほどのことはないかもしれない。この苦労によって得たものの方が、失なったものより遥かに大きかったではないか。神は遠い存在と思ってはならない。神は訓練のための鞭を下され、そして愛の賜物も下さる。
 エレミヤの場合、彼は牢からは解放されたが、国は亡び、王は異国に連行されて刑罰を受けた。神の言葉を取り次ぐ預言者のことを侮るものは恐ろしい運命にさらされることを思わされる。エレミヤの言葉は何千年もたったいまも残り、エレミヤを尊敬する人は尽きない。

暦のあそび?

2008-02-28 22:02:13 | 生活
2月28日  
 2月、この月の印象を聞く。2月は短いが月給が同じだけ貰えると言って喜ぶ人ガいる。一方で日は短いし寒いから嫌だという人ガいる。そこで1年は何日かという問いに365.2422日と答えた人にはこの半端なコンマ以下の日をどうやって暦にうまくおさめて行くかを聞く。4年に1度の閏年をつくるのだと答えた人にはそれでは0.25日分の補正をしたことになる、0.0078日分余計に補正したことになるが困りますねという。賢い人ならああそれで400年に3回閏年の休みを作ることにするのですと答える。それでも少しは数字に足が出るが、というと、そんな先のことは私は知りませんその時の人ガ考えればいいとなる。こうして今日は2月の終わりではない、明日、つまり今から2時間ほど後には2月29日を迎える。一日余計に働かなくてはならない、嫌だなという人は何処にいる?

科学と常識

2008-02-27 21:22:33 | 哲学
2月27日 
 仙台より帰る。仙台では26日NHKの取材のため東北大学史料館でディレクター氏と付き合う。この人はもちろん科学の専門からは遠い人だが、職業柄科学とくに化学の課題について番組を作るため、専門家の指導を受けながら筋書きを作る。見ていてもほんとに骨が折れる仕事だ。今回は前回のベテランディレクターのO氏より若いこともあるだろうし、一寸結論を急ぎすぎたり、飛躍したりの傾向があったりして、私の方でコントロールをかけなければならず、苦労したのは事実だった。
 科学は論理の積み上げであって、いい加減な推測や、飛躍があってはならないことは勿論である。このことは訓練された思考方式が必要なことを意味するのだ。逆に言ってこれは普通人には七面倒くさい、ということで、科学が一般人に敬遠される原因になっている。分かりやすく、常識的に、一般人に説明せよといっても、譲れない限度があるのも事実だ。比喩を使って分かったような気にさせるという場合もあるが、それが必ずしもうまくゆかない場合は、いっそのこと、だれそれさんが研究したところによると、とか、現代の最先端の見解ではとかいって、逃げる方がくだくだと説明するよりましである。
 科学の論理はそれ自体はよいとしても、科学を使うときには人間としての常識ないし良識が必要なことは言うまでもない。たとえば原子爆弾を創ったのは科学者だが、戦争のさなか、競争心や恐怖心に駆られて、人類に益にならぬものを出現させてしまった。創ってしまうと使いたくなるのが愚かな人間である。科学の専門家が
素人よりいつも偉いと限らない。素人の常識や、知識人の良識を動員する必要が生じるのだ。ここでいう常識とか良識とかいうものは、健全な社会において育つもので、絶対主義的制度のもとでは歪んでしまうものなのだ。

旅とブログ

2008-02-25 09:45:30 | 生活
2月25日 晴れ
 暴風収まり穏やかになる。これから4日仙台と東京への旅。ああ旅立ち前の忙しいとき、それでもブログが気になり、今日もブログの文章を残したいとは!いまやブログ中毒か、それともブログ至上主義か?ブログよ、ブログ、なんじに栄光あれ!

美人の素質

2008-02-24 22:03:53 | 生活
2月24日 強風 晴れ
 この日曜の午後、孫娘直ちゃんの誕生祝、本当は26日なのだが忙しい父親の休みに合わせたものだ。彼女は小学校3年生だが、子ども子どもしてた暫く前とは大違いで、将来はかなりの美人になると予想するのは、じじばば馬鹿の欲目というものか。子どもは未来をもつことが最大の財産だ。ささやかなお祝いであっても、生まれた日が祝えるのは平和国家日本の幸せ。

神功皇后陵の発掘

2008-02-23 15:16:24 | 歴史
2月23日 曇りのち雨荒れ模様
 宮内庁は2月22日奈良市の神功皇后陵の立ち入り調査を考古学・歴史学関係16学会の代表に許したという。今回初めてのことである。
 神功皇后は日本の古代の言い伝えでは朝鮮半島に出兵、彼の地に武威をあらわして凱旋したと伝えられる人物である。高句麗の好太王碑にある倭軍侵攻の記事と対応するのかどうか、はなはだ興味のあるとこらだが、本格的な発掘調査でない限り事実を明らかにするのは難しい。千数百年も前のお墓となれば、だれのお墓か確定するのも困難なのだから、いくら皇族の墓だといってもしっかりした本格的調査が必要なことは当然も当然、常識の範囲と思うが、宮内庁は超保守的官庁だから、今後百年経っても変わるかどうか。発掘は、敬意をもって行うなら、何の差支えもないと思うがこれはどこかの新聞社でアンケート調査でもしたらどうか。国民の意識は今から70年前とは大いに違い、30年前とでもかなり違っているはずだ。

天才はうぬぼれや?

2008-02-22 10:05:42 | 哲学
2月22日 晴れ
 芥川賞をもらった川上未映子がNHKテレビに出てアナウンサーたちと歓談。天才の片鱗を現わすーと書けばなにやら薄っぺらな新聞記事の見出しみたいになろう。
私も「乳と卵」の受賞作は全部は読みきれてない途中だが、本当に不思議な人だ。貧しい家庭に生まれ、幼いころからしっかりした教育を受けたわけでもないのに、明るく、前向きに生きて、いろいろな人生体験を積んできた。それにしてはすごい文章力である。女性にある直観、なんでもないものの映像を言葉として表す腕前は驚きというほかない。しかも哲学書を、どのくらい分かっているのか知らないが、カントの純粋理性批判まで読むという。それでいてペダンティック(衒学的)な嫌味を感じさせない。
 天才はひらめきだ。凡人が見ても捉えられない全体像を一瞬で捉える力があったり。天才は本人がどう自覚するか知らないが、うぬぼれや、自己中心的世界観の持ち主で、あるときはそれが無邪気にも、別の時には傲慢にも取られるらしい。
 私が前に書いたことがあるが、物事がとんとん拍子にゆくときは、ひょっとしておれも天才かなと思ってみて、それからやっぱり駄目だと普通の世界に戻る。前者は喜び、後者は平凡な幸せ、どちらも悪くはないのである。

親と子

2008-02-20 16:52:20 | 哲学
2月20日  晴れ
 いろいろな親と子の関係がある。親が駄目だとかえって子が発奮して偉い人物になる場合がある。親が偉すぎると子は萎縮して伸びないことが多い。
 萩原朔太郎と娘の葉子の間は親が大詩人だったが、その家庭は崩壊家族だったといわれる。娘はそれでも親の血を引いて作家になった。壇一雄と娘のふみ、親は無頼作家で娘は女優になった。娘のふみが本郷3丁目の地下鉄の駅を出た一寸先でロケをやっているところに出くわしたことがある。親は無頼といわれながら家族思いのところもあったらしい。二男が確か日本脳炎の後遺症で障害者になったのを書いた文章は文芸春秋かなにかにのって読者の心をゆすった。幸せなのは阿川弘之と佐和子である。
 この世の幸不幸は数え上げればきりがないほどいろいろな例がある。親子の間に遺伝の要素はあるが、子は親のdead copyでないということは言えるし、これが子の側からの救いであるとも言えよう。

叱られての教育論

2008-02-19 14:56:32 | 哲学
2月19日  晴れ
 幼いときに聞いたメロディーはいつまでも頭にこびりついている。楽しげなもの、悲しげなもの、いろいろあるが、そのひとつに「叱られてあの子は・・・・お遣いに・・・」子どもが親の言いつけでお遣いに行った、もう古い時代のことだ。今では子どもは大事にされてお遣いになど行かされることはあまりないのではなかろうか。
 さてここに困った問題がある。子どもを大事にすることは良いことで、愛情が基本であることはいうまでもないが、大事にされすぎて子どもがしつけられなくなり、叱られることがないために我儘になったりすることだ。親と子の関係は愛が基本だといっても、べたべたとくっ付いていることではない。そんなことでは子どもは何時までたっても自立することはできない。真の愛情は叱ることも含む厳しい一面があってしかるべきなのだ。叱るときに自分の愚痴を言ってしまう親が多いのだが、これは子どもにとって嬉しくもないし、不服従の元である様な気がする。自由にのびのびと育っても、やりたい放題ではかならず躓く。
 規範というものはある。それを教えるのは先ず親である。そして学校の先生である。規範が身についた子どもを見るのは楽しい。押さえつけて教え込むのがよいのではなく、それは皆が見て快いから、またそれを本人が自覚できるからだ。この辺のところは難しいように思う人もいるかもしれない。しかしスポーツなどで伸びている子を見ると、案ずるよりは生むが安しということではないだろうか。試行錯誤でもよい、実行してみることだ。

飛翔する夢

2008-02-18 08:12:14 | 哲学
2月18日
 夢は人の心の反映。しかし古くから夢はこの世を超越した世界からの何かの啓示とする思想はあった。旧約聖書創世記のヨセフの話だが、彼は夢解き人として王ファラオの夢を解き、それがファラオに登用され宰相となるるきっかけになった。近代から現代については一例としてユンクの夢解釈があることは知る人ぞ知る。
 さて昨夜の夢。面白くまた示唆に富んだもの。
 私はさわやかな気持ちで草原のなか。見渡せば広い広い眺望が広がっている。そこにいるのはラマアルパカ(こんな名前だった)とかいういくらかプレイリードッグまたはキリンにも似た動物がいる。首が長くかつ手触りのよいフェルトのようでもある。私はその背中に乗って飛行準備。この動物は何故か私に好意的だ。その耳を両手でつかんで飛行。素晴らしく気持ちがよい。
 木村家に着く。田舎の古びた小学校の建物の奥にある。ハンナローレさんが家族を乗せて車で出かけようとしてしているみたいだった。私はその前に立って大きく手を振って運転の安全確認のような動作をした。一向に気付かないようだ。
 そうだ、と私は思った。私が彼女には見えていない、私は多分透明な飛翔人間だからだ。
 透明な飛翔人間になって遠いところまで飛んでゆく楽しさ。いろんな人に会えるのはとても素敵なことなのだが、ただし相手は私を認めないので、意思疎通が出来ないもどかしさ。
 この夢は何を語ろうとしているのか。これはまるで死後の世界か、臨死体験か。立花隆が書いた本には沢山の例があった。彼は無教会キリスト者の親に育てられ幼時はキリスト教の幼稚園に通った人だから意識の下に理性を超えた世界を持っている人のよう。
 死は普通人の嫌うことである。しかし死は自然の現象でもあり、かつ宗教では死を受け入れる道を教える。死はかなずしも恐ろしいものにあらずと。生きるも死ぬるもキリストのためとパウロは言った。私もほぼ日本人の平均年齢に達し、遠い将来ではない死を安らかに受け入れたいと思う。