一生

人生観と死生観

二病息災ということ

2010-10-31 15:45:39 | 生活
10月31日 雨時々曇り
 台風は温帯低気圧に変わり、太平洋上を北に進んでいる。思ったより被害は小さかったようで一安心。しかし一日中雨がふったり止んだりで鬱陶しい。
 昨夜頑張って『生物科学』に論文再提出。電子投稿だからあっという間に終る。第一次審査ではほぼ採用は確実のようだ。生物学プロパーの編集長は古代史の論文などはじめて受け付けてびっくりしたことだろう。しかし境界領域の仕事を正当に評価する度量を持つ社会になってこそ、意外な進歩も生まれる可能性が増してくるのだ。
 さて私は手足に掌せき膿疱症を病んでいることを前に書いたと記憶する。それは細かい水疱が出来て、ひどい場合は寄り集まると膿となって出、痛みもあるし、不愉快な皮膚の病気だが、今のところ割合軽い状態が続いている。原因はよく分からない皮膚疾患で、アレルギーの関与がありそうだ。前から問題になっている糖尿病との関係があるかと思っているが、医者は無関係だという。糖尿病の方は自覚症状がほとんどないから、気楽にして治す方針だったが、ついにインスリンを注射する段階に来た。しかし食事のコントロールで比較的快適な状態に保っているのが現状だ。
 こんな次第で私は一応二病息災という日常をすごしている。これからのことはよく分からないが、できるだけ健康に注意して、私にできる勤めを続けたいものだ。

隣は何をするひとぞ

2010-10-29 19:32:35 | 人生人間
10月29日 晴れ後曇り 
 秋深み行く。芭蕉の句に「秋深し隣は何をする人ぞ」とあるように、人恋しさが募る季節。
 人は母の胎を出てから死に至るまで否応なしに時をすごさねばならぬ。楽しむ人もおれば、苦しむ人もいるだろう。それがこの世というものだ。そして今日本は長寿社会だからこの世に長くお世話になっているというわけ。できれば明るく過ごした方が良いとは思うが、そうも行かない人もいる。
 しかしいずれにしても人は生涯を終えて死の時を迎える。そのときに感謝をもって家族友人に対することのできる人は幸いだ。こんなことを綴れば、明日にもお迎えが来ることをしょっちゅう思っている人間であるかのようにみなされるかも知れない。しかしくよくよせずに生きることの価値を最大限に試したいものだ。

喪失と再生

2010-10-28 16:15:39 | 哲学
10月28日 雨
 朝仙台S氏から電話あり、『生物科学』に投稿した原稿の査読者の意見から始まり、査読者本人の性格等について話が出た。論文はまず採用されることが大切で、それから後で批判者と議論すればよい。現在の査読システムでは批判者の意見もある程度取り入れることになるが、これは度量を示したことになるかと思う。細かいことまで喧嘩していたら、いつまでたっても論文が日の目を見ることはない。大事なことで筋を通すことでよいのだ。
 さて近頃思うことは、人生は無限ではないことは勿論だが、生きているある時点であたかも人生が無限であるかのように生きる生き方があるということだ。それは今を大切にするということ。この言葉はいろんな人がいっている。金属物理学の大家の本多光太郎は「今が大切」という色紙を残した。本多自身は無神論的だったが、本多の周りにはキリスト者が何人も出た。皮肉な現象というべきだろう。今のときは無限の時間の中の一瞬であることを忘れてはならないのだ。
 人生は順調にゆくのがむしろ例外的だ。困難や挫折はいくらでも起こりうる人生である。身の回りの幸せははかないものである。喪失を体験する人はあちこちにいる。私も息子を失ったとき、この喪失の意味するものを考えざるを得なかった。それは人の思いを超えて定められた運命であったか。人はだれでも永遠に生きることは出来ない。しかしそれを知っているがために、かえって未来に望みを託す人が出てくる。再起、再生。日野原氏はこの10月はじめに99歳になったが、後10年はいろいろな計画を持っていると仰る。驚くべきことだ。化け物みたいだと悪口を言う人もある。しかしその類い稀な人生は神の証しのためと思っている人だから、何を言われても平気だろう。私も彼とは少し違った形でこの人生を証したいものだ。

恵みの中のいのち

2010-10-27 16:06:43 | 人生人間
10月27日 晴れ一時曇り
 日本の古代は良く分からない。決定的な証拠が不足している。邪馬台国論争でもいつまでたっても決着がつかない。恐らく天皇陵の発掘でもしない限り、堂々巡りの論争が続くのではないか。宮内庁は超保守勢力の牙城だ。簡単に許可するはずがない。古田武彦氏がこの難題に挑戦し、宮内庁に考慮を求めたことをはじめて知った。答えは分かりきっていたが。天皇家は古い神話にこだわってはならないことは、世界の趨勢を見れば一目瞭然なのだ。しかし時は長くかかるに違いない。仙台のS氏と古代稲作の北方伝播ルートの研究論文を投稿したら審査意見が戻ってきた。修正のうえ掲載可ということであった。一歩前進である。
 さて私の晩年はいろいろの話題の中に進んでゆく。野心を持つほどのことはもはやなく、家族関係や友人関係の後始末や将来展望は私の小さな義務的課題だ。健康は持病があるというほかはまあまあの状態だし、とにかく朝起きられるだけでも感謝である。「神の恵みはたれり」と思って暮らし、前向きに構えることだ。家内は健康は決してよくないが、俳句を生き甲斐にして暮らしてる。今日も句材を探しに肌寒い外にでた。彼女は腰痛症に悩んでいるが、時々休みながら家事をする。気の毒に思うがなんともならない。私はなるべく自分のことは自分でするように努めている。その中で小さな生活は静かに過ぎてゆく。今の恵みはいつまで続くか。しかし先のことを心配しすぎることは無用だ。

郵便局から郵便事業会社などへの変化

2010-10-26 22:05:38 | 生活
10月26日 曇り一時雨
 今日郵便振込みに行ったら、これは通帳への振込みなので560円かかりますとのこと。金2000円の振込みに560円の手数料は馬鹿馬鹿しいので通帳から通帳への移動方式をとることを会社の窓口に教わった。それには通帳と印鑑及び証明書がいるとのことであった。今日の間に合いそうにない。郵便局の制度変更で国民は利益を得ているどころではない。不便ばかりだ。普通の振込み料金は80円だったが、120円と5割り増し。どうも政治家の掛け声で変った制度が機能を発揮せず、政争に巻き込まれ、漂流している感じだ。困ったものだ。時間の観念は経済にとって重要だが、政治にはその感覚はとぼしい。民主的政治の目的に合致していない。

いのちの尊厳について

2010-10-25 18:33:31 | 哲学
10月25日 
 仙台でのいのちの尊厳を考える会の役員会を終わり、いわきにかえる。
 いのちの尊厳ということは人間について普遍的に用いられる。これを認めないとすべての道徳・倫理の概念が狂ってくることは、第二次世界大戦中のナチ党のユダヤ人600万人の虐殺など、おぞましい事件を考えてみるだけでも分かる。これは多数の問題であるばかりでない。少数者であるからといって対応をおざなりにしてはならない。人一人ひとりの価値自体が重いのである。私たちはいのちの尊厳を問題にしたのは、予防接種禍で犠牲になった子どもたちのことであった。彼らはは少数であるということで以前は無視されていた。医者が及び腰であったこの課題はわれわれの訴訟において責任は国家・自治体にあるとされた。われわれに道理があった。いまこの問題は幼年期に注射器打ちまわしの不潔な予防接種を受け、肝炎に感染し、肝機能障害や肝臓がんに苦しむ人々の問題に発展した。その数は何百万にも及ぶという。予防接種は多数のものの利益のために少数者の犠牲があってもやむを得ないといっていたワクチン学者たちよ。君たちは現場のこんな荒っぽいやり方に盲目であったではないか。多数のものが予防接種のために苦しむこの現実をどう見るのか。無責任な建前論は破綻しているではないか。
 人は生き甲斐を求め、職のない老年者はそのために模索する。新老人の会においてもいろいろなグループがあって、中にはフラダンスを楽しむというのもある。仲間と話し合い、人生の晩年をできるだけ楽しく過ごそうという人たちにけちをつけることはないが、生き甲斐にもいろいろなバラエティーがあり、本当にいのちの意味を考えたら、もっと役に立つ身の処し方がありそうなものだ。内戦に苦しむアフリカでは多くの子どもたちが死んでゆく。ユニセフの募金に応じる程度しか出来ない私は、これくらいで申し訳ないと思いながらやっている。いのちの尊厳を考える会の活動も決して大きなものではないが、ことの大小を問うのではなく、その本質あるいは精神が大切なのだと私は思っている。

お出かけ前雑感

2010-10-23 07:04:01 | 生活
10月23日 晴れ
 朝の気温は10度を下回る。いよいよ晩秋の感じになってきた。
 昨夜眠る前牛乳を飲み、そして古田武彦氏の古代史コレクション第五巻「ここに古代王朝ありき」を少し読み継いだ。この人の論法は物事をありのままに見るという科学的態度がある点評価できる。私の結論はまだ経過途上だが。
 今日は仙台行き。寒いところにゆく準備が必要だ。用が多くいつも先送りすることばかり。将来計画をしっかり立てる必要がある。ここで中断することは惜しいが、決断のときが来るかもしれない。
 それにしてもだんだん年齢と行事のバランスが気になることである。

人は過去の思い出に生きるしかないか

2010-10-22 20:46:59 | 人生人間
10月22日 曇り
 朝は急激に低い気温になってゆく。秋はまっしぐらに進行中だ。
 年をとるととかく消極的になり、過去の思い出に生きる人ガ増えてくる。他人の生き方をとやかく言ってもしかたがないが、こういう時に新老人の会の理念ー愛すること、創ること、耐えることーが輝いて見えるであろう。日野原氏は類い稀な人生を送ってきたが、99歳を超えてなお望みを未来に繋いでいる人なのだ。前向きに生きるとはやはり信仰の力があずかるところがおおきい。思い出に生きる、そのときは楽しいが不生産的である。やはりその人なりに老年の設計をするべきであろう。ただ人は永久に生きるはずなないから、お召しがあったときは喜んでゆく覚悟も出来ていなければならない。

民主社会のリーダーは?

2010-10-21 15:53:09 | 哲学
10月21日 曇り後雨
 今朝S先生追慕の文集が届いた。S先生は体は小さいが気持ちは大きい方であり、地位ある外国人との付き合いでも対等の立場で話をされたとのこと。決して高ぶらず、主張すべきは主張されたようだ。日本が国際化する中で努力された尊敬すべき先達である。
 さてこの人生ままならぬことが多い。理想に向かって前進するのは格好がよいかも知れないが、このために多くの摩擦が生じる。民主党が政治主導を掲げ、官僚と対立するのは、今までの官僚の振舞いに大いに問題があったからで、スローガンとしては理解できるが、実際に官僚が身動きが取れないようでは政治は動くまい。私たちが個人生活の中で、自分の理想のために他人をどこまで動かせるかはその人の力量によるが、あまり無理をすると反動が来るものである。はじめは良いがあとで疲れきってしまい、人は動かなくなる。大体人を動かそうと思って行動を続けるのは、どこかに無理を生ずるもので、その人の自発性を呼び起こすやり方が一番よいのである。リーダーはまとめたり、あるいは方向性を無理なく示したりするのがよい。ただ長続きするためにはリーダーに信念が必要なことは確かである。その点リーダーは平凡なようで平凡でない素質が望まれるのである。民主主義の世はリーダー的素質をもった人がつぎつぎに輩出するべきである。

夢の中の慈悲

2010-10-20 09:17:28 | 哲学
10月20日 曇り
 今日は皇后美智子さまの誕生日に当たるという。神話的古代はいざ知らず、歴代皇后のうちで民間から皇后になったのは光明子をもって最初とする。光明子は藤原氏の娘だから貴族的といえばそのとおり。美智子さまは会社社長の娘だから平民といっても庶民的ではない。失礼を顧みずにいえば、いま天皇を立てる理想的な皇后を演じているようだ。しかしこの人の本来もっているものはすぐれた才能である。それをもっと発揮してもらいたいものだ。歴代皇后の中でも指折りの才媛なのだから。今朝の談話(ただしメモ)の中には人並みに老人性の物忘れがはじまったと告白された。
 さて今朝は不思議な夢。私は崖の前に立っている。つまり崖のような切り立った背景があってそこにいる。私のわきには誰か二三人はいる。私の見ているのは崖の前の立て看板だ。そこには統計図表があって、動物を殺した数の経年変化が載っている。口蹄疫で沢山の牛を殺したばかりだというのに、日本はあと一息で世界一の動物を大切にする国になれるという。なんだか変だなと思っているが、崖の上からは風のような、息のような、言葉にもならない言葉が吹いてくる。「日本は法の国、ドウジョウホの国だ」というのだ。日本は仏教国だったから牛や豚などの肉食はしない国であったことは確かだ。それが明治の文明開化で崩れ去り、今では沢山の動物を犠牲にして飽食した結果、メタボ人間まで大勢いるではないか。
 ドウジョウホという言葉だけが目覚めた私の心に響いている。広辞苑には仏教語で堂上は堂頭=どうちょうに同じとあり、堂頭は方丈=禅宗寺院で住職の住まい、またその住職とあった。補が付いた堂上補という言葉があるかどうかは分からないが、仮にあるとすると、住職の下働きということになろうか。こんなことを調べているうちに時が経った。私の夢は、私も良く理解できない独創的な夢なのか。ハハ。