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一生

人生観と死生観

人間の風景

2011-06-07 23:58:32 | 歴史
6月7日 
 東北の被災をテレビで見るうちに、人々の我慢強さをその顔のうちに眺めるとき、大和朝廷の侵攻に対する長い忍従の歴史を思い出してしまう。彼らは西から渡ってきた平和の民(銅鐸民族)の子孫だったようだが、征服欲に燃えた天孫族(銅剣民族)に追われて東北の地に移ったらしい。そこで新しい国作りを始めたのが奥州安倍氏の先祖であった。土着の民を統合して発展したが、大和朝廷の武力侵攻についに屈した。蝦夷といわれた人々はモンゴロイド、主流は安日彦・長髄彦の子孫で人種的には西側の人々と見た目ほとんど変わらない。強いて言えば混血の度合いが西側とは幾らか違うように思われる。津軽の伝説にも真実はこもっている。三郡誌を頭ごなしに偽りの固まりとするのは性急過ぎる日本の古代史学者の欠点であろう。
 この人々に苦難から立ち上がる知恵と勇気を与え、日本の将来を担わせて下さい。

いわゆる古田史学について

2010-11-24 15:39:00 | 歴史
11月24日 晴れ時に曇り
 古田氏は今までも主として『東日流外三郡誌』(和田家史料)の議論のときに取り上げた。この人は在野の古代史家として有名である。多くの古代史ファンがこの人のもとに集まり、古代史の講話を聞き、また身近なところで古代の研究をおこなっている。アマチュア主義の研究愛好家にとって格好の箱舟を提供しているように思われる。熱烈なフォロアーにかこまれた一種のカリスマのような人であるともみられている。
 私は古代史の素人であり、裁判までになった和田家文書の問題に詳しいわけではなく、はじめはこの文書の真偽論争に加わりたくなかった。しかし古田氏があまりにも不当に攻撃されていることに義憤を感じた。『三郡誌』を世に出した和田喜八郎という人物は地元であまり信用されていない人だったようだが、彼を擁護する古田氏の立場にはしっかりした基本的確信があるように思った。和田喜八郎は祖先の文書に現代の知識で加筆をしたり、絵を書き加えたり、困ったことをして、先祖の信用を落とす結果をもたらしたが、古田氏は江戸時代寛政期の原本の存在は確実と考えた。その考えは国際日本文化研究所の笠谷教授によって科学的に検討され、少なくとも検査史料については確かめられている。しかし偽書説はウィキペディアでもまだ優勢を保っている。これは状況としては大いに疑問である。
 偽書派が架空の人物のようにいっている秋田孝季が長崎で英人エドワード・トマスから宇宙・地球起原論の講義を聞いたことは、科学史の上からは興味あるものである。日蘭協会にオランダの史料を検討してもらったところ、秋田の長崎滞在は時期的にはまったく事実に合うということになった。秋田の実在性は確かであろう。偽書派の論理はあまりにも大雑把である。和田喜八郎は祖先の言いつけに従って部分的な修正をおこなったかもしれないし、またサービスとして絵を書き加えたりしたかもしれないが、学歴もない津軽の百姓に大きな改竄をするほどの知識は到底あるはずがない。直接和田に会い、古文書も見た古田氏らの言っていることは、そのような調査をしていない偽書派の人々の言い分に比べてはるかに信用できる。古田氏が『三郡誌』寛政原本を議論の原点に据えたことは原則的に正しいとすべきである。
 また古田氏は九州王朝説を唱える。中国の史書と対照して、非常に深い読み方をする。その学殖には通常の大学の研究者も到底及ばないほどである。私は古田氏の言うところは今後日本史を発展させるために当然取り上げるべきだと思うが、今のところ正統派の学者たちには無視されているそうである。惜しいことだ。私は古田氏の方法論は評価すべき点が多いと思うが、全面的に賛成しているわけではない。たとえば『魏志倭人伝』中「また裸国・黒歯国有り。・・・船行一年にして至るべし。」とあるところである。古田氏の言うように漂流して南北アメリカ大陸に至るのは事実であるが、生きてそこで上陸し、また帰って祖国にいたり報告することの困難さは言わずもがなである。アイデアとしては面白いが、証拠は十分でなければならない。通常学問的議論は(1)正しいこと(2)誤っていることのほか(3)その時点で十分な証拠がないため正誤の判断を差し控えるべきことの三区分があると思う。ところが古代史の関係者はしばしば真書か偽書かの黒白論争におちいる。(3)のようにまだ判断すべきでない領域があることを認めることが必要であると思う。これは自然科学の論法では50%くらいの信頼度しかないときには発表を差し控える、80%くらいで確からしいと言及する、95%以上でほぼ確実という、100%に限りなく近付いてはじめて断定する。そのような領域と考えるのである。自然科学は確からしさを白(100%)か黒(0%)かで評価せず、中間の%で考える習慣があり、私はそれに従いたい。

草の根交流の効用

2010-11-06 14:20:13 | 歴史
11月6日 晴れ
 11月初旬の晴れた日は日本にあたえられた恵みだ。洗濯と掃除は自分でやる習慣になっているが、家内の病弱から私自身がきたえられることになった。これも私にとっての運命で賜物と思うことにしている。
 さて尖閣問題はなかなか終わりが見えない。そこへ北方領土の国後にロシアのメドベージェフ大統領が視察にやってきた。日本人を刺激すること、まことに大きなものがある。
 そもそも国家、主権、領土とは何か。人民は国家に奉仕する囲いの中の羊のような存在か。囲いの外にはオオカミがいると声高に宣伝するものは誰か。中国や日本は長い歴史の中で国民国家としての自覚はあまりなく、領土すなわち国と国の境界線でかこまれた区域の概念がしっかりしていなかったのだ。ヨーロッパのように沢山の国が境界を接し、互いに競争し、あるいは争っているところとは訳が違う。歴史が進み、今の世の中で、地図の上では砂粒ほどの島でも領有権を主張し、すなわちここは俺の領土だと宣言して軍備を固め島を要塞のように固めることは、愚かなことにも思えるが、愛国心の発露という現実を表すものだ。
 どうも国境線問題で張り合うことは歴代の日本政府には苦手のようだが、あまりこじれないうちに解決しておくべきことであったのだ。千島列島は地震と津波の被害の大きいところで寒さが厳しく、住むに良いところとは思えない。しかし最大の利点は近くの海の幸ー漁民の利益であろう。この前もちょっと触れかかったが、今まで鈴木宗男議員がもっとも熱心に現実的な方策を実行しつつあったのに、失職したのは残念であった。
 こういう時にも草の根交流は必要なのだ。ロシア人は一般的にいって人間は純朴で感情豊かで、西欧人よりも日本人に近いところがある。私はロシアを訪問したとき、帰りにロシア人の仲間が一団となって歩いて私を送ってくれ、ともに歌まで歌った1992年の夏の夜を忘れない。アメリカより貧しいから盗みなどは多発するが、基本的には人は良い民衆だと思う。こういう人たちと個人対個人の関係で交流する、つまり草の根レベルで友情を育む必要は大いにある。そしてその上で難しい問題も妥協点、一致点を見出して行く事が必要不可欠だと思う。中国についても原則的に同じことが言える。

歴史巡礼の道

2010-11-05 20:41:35 | 歴史
11月5日 晴れ
 仙台より帰る。11月3日に新仙台歴史巡礼道の行事を行った。今年の目玉はかって『三太郎の日記』で若者の心をとらえ、人格主義の生き方を世に訴えた阿部次郎の記念館訪問であった。仙台市は伊達政宗以来400年の歴史があるが、最近の約100年に東北大学が果した役割は大きく、これを客観的にとらえることが必要になっていると私は考える。東北大学の百年史は既に完結しているが、それとは違った視点で片平キャンパスやその他の建物や施設を眺めたらどういうことになるか。歴史には正史のほかに外史というものがあるのだ。有名なものは頼山陽の日本外史だ。この本は幕末の志士たちに大きな影響を与えたといわれる。私は大きな事を言うのではない、ささやかでも外史を綴る思いで記念物の建物などを歩いて見、記念像に触ってみたらどうかと言っているのだ。
 記念館は東北大学の文学部付属の研究所であったものを現在の記念館に改めたものだそうだ。外観はシックな白い建物で、今は遠くなった昭和の雰囲気を表すものであった。内部はどちらかといえば質素なものであった。余計なものは排除し、ひたむきに真理を求める阿部の姿勢が窺われた。人格主義を掲げて多くの真面目な若者に訴えた阿部次郎の意志と苦悩は説明者の丁寧なお話である程度分かった。それに阿部次郎のお孫さんの小幡明子さんが補足してくれて大変ありがたかった。参加者は十名程度であったが有意義な会であった。
 この会を来年もという希望が出た。何時まで続けたらよいものか。考えあぐねるときにふっと良い知恵が浮かんでくるのが今までの例であった。成り行き任せのようだが、次の機会にはまた実行できるよう努めよう。
 

神武年代仮説の再検討

2010-10-14 11:29:52 | 歴史
10月14日 晴れのち?
 老人が古代に思いをはせることはそれほど変でもない。私が津軽の文書のことを視野に入れたらウィキペディアには『東日流外三郡誌』の同情者として早速取り上げられて驚いた。和田喜八郎氏は嘘つきで、言うことがコロコロ変る信用ならない人という地元の評判があるそうだが、本来は祖先が書いた文書の存在と子孫の行為はインデペンデント(独立)事象である。ウィキペディア編集者は最近の情勢に注意を払うべきである。地元で評判が悪い子孫の心ない行為とは別に先祖の残した切実な記録があれば、それは一定の評価をすべきである。三郡誌の記録は捏造者には書けないことが書いてあることも事実である。私が何度も言っているように、真か偽かの黒白論争は本来無意味なのだ。真相はその間にあるということだ。
 さて古代史のブログを書いた延長線上にもうひとつの記事を書こう。神武天皇のことである。神武天皇が日向(宮崎県)から出て大和(奈良県)の長髄彦の軍と戦い、ついにこの地を占領して、近畿王朝を立てた。これは記紀にある古代史のハイライトである。この記述は本当に生き生きと書いてある。当時の大阪湾は入り組んでいて、神武天皇が始めは負けて、退いた経路なども現在の地名と照合できる。神武天皇が熊野を迂回して奇襲によって再度攻撃し、長髄彦は死んだことになっているが、三郡誌は彼が逃れて津軽に来たという。そこで再起を図った長髄彦が、中国の戦乱を逃れて津軽に来た群公子一族の協力を得て米作りをはじめた。この記事も大変リアルなもので作り話とは考えにくい。祖先の苦労話はいつまでも残るものである。
 私は神武天皇とこの長髄彦が同時代人とすれば神武年代も分かるだろうと考える。津軽の米作の歴史は古い。考古学者は2000年以上昔におこなわれた証拠を発見した。砂沢遺跡や垂柳遺跡の水田跡がそれだ。これが直ちに群公子や長髄彦のものと断定は出来ないが、年代のリミットは分かる。私は前に神武年代を紀元3世紀末から4世紀初頭においた。卑弥呼の子孫が神武であるという仮説に影響されていたからである。しかしもっと古い可能性も検討せねばならぬ。卑弥呼にこだわるといろいろな矛盾が出てくる。また神武後の数世代は王朝の様をなしていない時期が続いただろうことも常識的に想像がつく。もっと証拠が欲しい。

古代史についての補遺

2010-10-13 11:34:58 | 歴史
10月13日 晴れのち?
 朝新潟市の友人のO氏から新米が届く。この人は郷里の田園風景の只中で私立美術館を開いている篤志家で、郷土の文化向上のために頑張っている。こういう人こそ日本の将来の礎であると私は思っている。私が国際シンポジウムで表彰されたことを知らせてやったら、喜んでそのことを彼の美術館の一隅に展示してくれたよし。ありがたいことである。
 さて昨日の日本古代史についてのブログは反響もとくになかったが、少し補足しておく。前から思っていたが日本史は古代部分が不自然に思われるほど弱い。そのため戦後の津田史学はまったくこれを認めず、すべて虚構として顧みなかった。それに続く東大学派も古事記、日本書紀の古代史は信用できず、神武天皇は架空の人とし、神功皇后の朝鮮征伐をあてにならないものと決め付けた。中国史書の倭の五王のあたりからようやく取り上げて検討する、手堅いといえばそうだろうが、古代を知りたい人の欲求には程遠いことは事実である。そこに果敢に挑戦したのが古田氏である。私は自然科学の立場からは物事を先ず仮説として取り上げ、これを事実に照らして証明にいたる、という方法論を重視する習慣があるから、古田氏の所説を100%そのまま認めているという段階ではない。その点正誤の状況は今後の考古学や科学の検証に待つという立場なのである。
 古田氏の説で重要な点は幾つかある。(1)卑弥呼は九州王朝の女王だとしていること。(2)近畿王朝は本来九州王朝の分家筋であること。(3)日本歴史では分家筋が本家を滅ぼした壬申の乱があるが、それ以前に近畿王朝が九州王朝を処分した乱があるはずで、盤井の乱をそれに見立てる。記紀の記述は曖昧だが、古田氏の論は要点を突くものであることは間違いない。ただまだ決定的とはいえないと思う。今後の証拠の出現を望む。これが明らかになれば日本歴史に革命的変化をもたらすだろう。しかし日本人だけでやらず、日本歴史に関心をもつアメリカやヨーロッパの人を引き込むことが重要だ。

日本古代史を読む

2010-10-12 15:49:13 | 歴史
10月12日 曇り後雨
 秋の日とはいえ今日はやや暑い。静かな日だ。電話もなく、手紙も来ず、メールもない。こんな時は古代史を読んでみるに絶好というべきか。
 ルーツ探しは人間の本能のようなものだ。自分のルーツから始まって、日本の国の成り立ちに関わることを調べる。私はもともと歴史好き人間だったから、そのような軌跡を辿ったのだ。ただし古代に何があったかとなるとその先端は曖昧模糊としてさっぱり分からない。要するにすべて神話のようになるのだ。
 しかし伝承がすべて神話で、あてにならない、と考えて、そこで諦めるのはちょっと早い。神話の中に事実が隠されているからだ。これをもっともドラマチックに示してくれたのは、よく知られているように、ドイツ人シュリーマンのトロイの遺跡発掘だ。いわゆる専門家を驚かせた大発見だった。彼はギリシャ人の妻に発掘された金の飾りを付けて喜んだ。トロイのヘレンを求め続けてその夢が叶った思いではなかったか。
 その後このような考古学的努力は続けられ、エジプトやアッスリアなどで大きな成功を収め、その成果は多くの人を魅了した。私がアメリカで師事した科学者ハーボットル氏は中南米の古代史を調べて有名になり、ルーブル美術館にも頼まれて再々調査研究をおこなっていた。
 日本の場合、現在の文化・文明が進んでいる割に古代史がわからない。歴史がはっきりするのは奈良時代くらいからである。その頃中国では高度の記録社会であった。だから日本人は歴史に関しては恥ずかしい思いをするのである。
 古田武彦氏の古代史コレクション(古田史学の選集)は読めば確かに面白い。一種の革命的見解が述べられていて、今までの古代史の常識をひっくり返す。私は素人だからこれがまったく正しいかどうかは判定できない。今まで分かったようで分からないもやもやをある意味一掃するような壮快さもあり、また彼の戦後に経験した思想的遍歴の一端を見るように思い、同世代人としては共感する部分も多い。
 たとえば卑弥呼を九州の女王とするところ、3世紀の日本の状況を中国の歴史書に照らして詳細に考察する。女王の都が博多湾沿岸とする辺りの推理は方法論も合理的だし、他の学者の所説をはるかに超えているかと思わせる。ただしこの人は古代史学会にまったく仲間はずれにされているというのが分からない。魏志倭人伝の読み方でたとえば中国の使いが奇怪な南方の国の人に言及していると解し、方法論がエスカレートしすぎと思われている点も理由になっているかも知れない。しかし何か別の理由もありそうだ。彼が学閥から離れ、遠慮なくボスの説を批判する男と思われていることが一番の理由なのか。惜しいことだ。

領土問題を嘆く

2010-10-01 16:05:01 | 歴史
10月1日 晴れ後曇り
 4月と10月は衣替えということになっているが、天候異変のこの頃ではあまりあてにららない。しかし今日の日は曇りという予報に拘わらず晴れて静かに暮れようとしている。もっとも夕刻は予報どおりの曇り空になった。
 さて連日中国やロシアとの辺境の領土問題が新聞の話題となっている。尖閣諸島と、千島列島南部の歯舞・色丹および国後・択捉の帰属についてだ。韓国との竹島(独島)問題もこれに類する。日本の国会は長年の領土問題を放置し、内部の政争に明け暮れ、今までこれらの重要な外交問題を解決するに至らなかった。首相がしょっちゅう交代することととってみても、外交はこれでは成り立たないと思わされる。外国の信用をかちとることなどこんなことではできるはずがない。きつい交渉を妥結させるには大変な努力が要るし、個人対個人の信頼や仲介者の善意を活用することが必要になる。長い時間の交渉に耐える人材を発掘しなければならないことだ。日本人の外交下手は結局日本に対する侮りを生む。今の国会で少なくとも方向が示されるように望む。
 さてこのようなことで人類は方々で国境紛争を演じている。一番簡単な解決は、もちろん力による解決だが、それが大変問題で、あとあとまで尾を引きずることは、多くの人の見るところである。人類は増えすぎて勢力のある集団が力ずくで横車を押す世の中になり、困ったことである。個人的見解を言わせてもらえれば、竹島はもはやどうにもならない状況なので韓国にあげるが、漁業権は日本にもあるような解決でよいのではないか。国後・択捉はもっと頑張るべきだ。尖閣は日本の領土として認めさせる方向がよい。ただしもっと丁寧な互恵的関係を目指すべきだ。一方的な声明などでは外交とはいえない。

防災の日

2010-09-01 16:38:15 | 歴史
9月1日 晴れ
 9月1日は防災の日。77年前、関東大震災が起こって東京が壊滅した記念日だ。この日の記録はいろいろな人が書いている。私の親戚で東京在住だった人は何人もいるが、四谷の真保家のことを書いたのは涌井ウメさんで、家は「恥ずかしいほど揺れた」とある。またこの人の父の涌井武次郎は銀行に勤めていたが、お昼休みになるところで昼食をとろうかと思っていたところに揺れが来た。そばにあった大金庫が2つ揺れて歩き出し、ぶつかり合いながらかちゃかちゃと自分のほうに歩いてくるのには驚いた。驚いたというより恐怖であった。8階から飛ぶように階段を駆け下りたという。このような貴重な記録を残したウメさんだが高校(当時は高等女学校)教師を長年勤めて退職し、老後を楽しんだ。
 残すべき記録を持ちたいものである。それは歴史になって行く。

物語の真実度

2010-08-26 16:14:54 | 歴史
8月26日 晴のち薄曇
 人間―ホモサピエンス・サピエンスは文明を作り出した。好奇心旺盛で空想力もあって嘘つきも多分輩出した。物語と言うものは―講談師見てきたような嘘をつき、という川柳があるように、しばしば語り手が聞くものを酔わせるとともに自分自身を酔わせるために、事実を誇張したり押し曲げたりするものである。ホメロスの叙事詩なども事実そのものからはかけ離れている。しかし事実はその中に含まれているから人々に愛されている。シュリーマンがトロイの遺跡を発掘したとき学者たちはまず疑ったらしいが、後には事実は明らかになっていった。人は心に刻み込まれた大事件を子孫に伝え、そして歴史に残そうとする。家の物語もそうである。広島長崎の悲劇は簡単に忘れられないだろう。しかし口伝えでは何代かたつうちに必ず曖昧になる。平家物語には源平合戦のおり義仲と頼朝が争い、義仲側の義憲(頼朝の叔父)は敗れて船で逃げて行方知れずとあるが、実際は伊賀の山中に逃れ、後で見つかって殺された。この人物は私の母方の先祖である。そんなことで記録の正確さは歴史のいのちである。しかし古代の人はおおらかで少しくらい間違っても面白ければよいとなり、そういう歴史が伝えられた。日本の古代の歴史書である古事記は詩情溢れるものだが、古代人の伝承なのであまりあてにならない。偽書とおとしめられている東日流外三郡誌は真実を含んでいることホメロスの物語と同様である。考古学で検証出来るものは考古学で検証すればよい。古事記や日本書紀を正史とする日本の古代の歴史は三郡誌以上に頼りないが、三郡誌の中に案外真実はあると私は見ている。物語の中からどれほど真実が抽出できるか、それは真実度チェックとでも言うようなものである。真実度は裏返せば不真実度である。1-真実度=不真実度である。卑弥呼の実在説も真実度チェックからはいろいろ考察できる。シャーマン的な卑弥呼はひとりだけではなかったかもしれない。九州に邪馬台国があったとする方がよいような気がするが、邪馬台国畿内説の利点もないではない。古代の伝承が著しく乱れていると言うのが私の印象だが、整理をすれば合理的に理解できるようになるはずである。考古学の確立が望まれる。要はとらわれないフレキシブルな頭脳を持つことである。