一生

人生観と死生観

土曜日の夢に

2010-07-31 14:45:22 | 生活
7月31日 晴れ後曇り
 7月最後の日、天気予報に反して午前には日射しがあった。洗濯は朝のうちに済ませ、静かに読書したいと思っていると、岩波の『図書』8月号が配達された。岩波系の文章は硬いので、しばしば文春系の読者に敬遠されるが、内容は濃い。私は予防接種改革運動の過程では文春も参考としていた。文春は常識的で、文が読みやすい特色がある。両者のよいところをとるのが最善のやり方と思い、作文修行をしたのである。その結果読売新聞記者であった谷川俊氏が私を日本エッセイストクラブ会員に推薦してくれたのである。
 私の『夕映えの杜に』の本に読者から感想が届いた。中味は私流に適当に硬派と常識派を取り混ぜた観があるので、それに対応するものであった。反響と言うものは著者にとって参考になりありがたいものである。この人もまた障害をもつ子どものことで苦労している。社会的サービスとしての禁酒運動や、世界連邦運動が触れてあって意外であった。
 土曜日は心休まる日であって、この日の夢にいろいろな人間模様を織り込みたいものだ。

夫婦の縁と親子の縁

2010-07-30 14:27:06 | 哲学
7月30日 雨
 今日皮膚科の医者に診てもらって、持病の掌せき膿ぼう症がかなり改善傾向にあるといわれ、嬉しいことであった。この病気は死に至る病ではないが、原因については諸説があって治療法も確立していない。ストレスが解消して突然治った人もいるようだ。ストレスだけが原因ということでもないらしいから厄介だ。
 新聞を見ていたら、主夫経験をもとにして書いた小説が映画化されることになり、一躍有名になった荒木という人のことが出ていた。奥さんは新聞記者として同僚であったが、記者を続けたいと言うので、自分が主夫を勤めることになったそうである。14年もたつうちに小説を書くようになりそのひとつが認められて以来、芽が出るようになったということらしい。東大出身の人だから変り種といっても世の中にはもてる。日本の社会もここまで来たかという指標になるだろう。
 それにしても女性は子どもができると、どんなに有能であっても仕事から少なくとも一時は離れなくてはならない状況に陥る。男女の平等といっても生物学的区別は厳然としてある。それを乗越えようとすれば大変な努力が必要で、夫の協力が不可欠になる。社会の慣習が男性重視の現在、夫が嫌がれば離婚に至る場合も出てくる。しかし親子の縁は切ることができず、子どもの養育を放棄すれば犯罪になり、放棄しないまでもおろそかにすれば社会の
指弾をうける。女性のハンディキャップは大きいのである。夫婦の縁と親子の縁の重さは比較にならないほど違うと思い知る。しかし荒木氏のような変り種の夫が出れば有能な女性は救われる。
 もちろん女性の職業を恒久的に支援するための保育所などの社会的装置の充実は必要だ。ただし本人の健康ややる気がないと長続きはしない。男性が働いて家族を養うという旧来型の生活をとるか、それとも新しい男女共同参加型の生活をとるか、それは夫婦の話し合いによる。どちらをとるにしても、人生の終わりにしっかり評価して、子孫に語り伝えておくべきではなかろうか。

油断と危険、しかし

2010-07-29 16:20:14 | 哲学
7月29日 曇りのち雨
 暑い日が続き心身ともに弱る思いであったが、今日は曇りのち雨になり、気温はやや過ごしやすい程度に下がる。
 身近に怪我をする人がいると、われわれの予定したことなど簡単に狂うものである。現代社会は便利だが、精巧にできた器械に頼り、複雑な仕組みの上に乗っかることが多いだけに、かえってそれが故障したり、不具合になったりするときに、とてつもなく不便で、途方にくれるのである。台風で停電すると文明社会は一瞬にして機能停止である。また人間関係でも、あてにした人が怪我をしたり病気になったりするだけで大いに狂ってくる。その人がいろいろなことの要であるときは尚更である。人生を通して考えるに、子ども時代から成長するまでの過程が順調であると言うことは大変な恩恵で、親が破産するとか、病死するとかで子どもは運命に翻弄される。成人して家庭を持っても家庭が一寸したことでうまく動かなくなることは、決して珍しいことではない。油断して大怪我をすることもあり、自分を過信してとんでもない目に逢うこともある。油断と危険は隣り合わせの世の中と知るべし。ただ艱難は人を鍛える。用心は必要だが、過度の用心は人間を消極的にする。勇敢も人の美徳である。未来を信じる人に幸いもきっと来ると信じよう。

日本語の起原わかる?

2010-07-28 12:10:18 | 哲学
7月28日 晴れ
 家内の退院の日。これから回復の途上、病弱の彼女に与えられた日々が宝石の如く輝くように祈りたい。長いこと心身障害児の二男の介護でほとんどぼろぼろになりかかった長い歩みが慰められるように。
 さて毎日新聞の今日の文化欄の記事によれば日本語は環日本海諸語であると言う説が話題になっているようだ。これを研究してまとめた人は金沢大学名誉教授の松本克己という人だそうだ。私と同じ歳の1929年生まれ。日本海をしっかり見つめた点は金沢大学で教鞭をとった人らしく評価できる。昔日本海側を裏日本と呼んだが、日本海を馬鹿にした言い方に反発があった。夏の日本海は穏やかで美しく、船の航行も便利であった。大陸側からこの日本列島にいろいろな人たちが入り込んできてもまったくおかしなことではなく、文化の交流がおこなわれるのが当然のことといえる。松本氏の研究で明らかになった日本語と日本海をめぐる種族の言語の類似点は大変面白い。何故以前にこんなことが分からなかったのだろうか。特色を挙げれば(1)ラ行子音のような流音が1種だけ(rとlの2種ある印欧語との違い)
また(2)重複語(思い思い、人々など)の存在、などなど8項目の指標がある。
 これらは人類学や考古学とも対応する合理的な説で、私たち日本人の起原論にも関係がある。いっそう発展することが望ましい。

ことわざ誤用辞典

2010-07-27 12:14:07 | 哲学
7月27日 晴れ
 昔のことわざによく出来たものがある。現在まで生き残って通用するのだかえらいものだ。さて「馬子にも衣装」だが、今どき馬子(まごと読むー念のため)はどこにも見られないが、ことわざとしては今でも使われる。広辞苑には「だれでも外面を飾れば立派に見える。」と説明してある。江戸時代の馬子は下層階級の人間だから馬子でさえ立派な衣装を着せれば立派に見え、騙される人も出ると言うことだ。私が旧制高校でドイツ語を習っていたとき、野本先生はKleidern machen Menschen ! これは馬子にも衣装と同じことだと言われたことを覚えている。ところでこのことわざを変な風に適用する人もいる。地位があがって部下に命令する姿がまだ板につかない人を、「馬子にも衣装」だというのである。ここでは「馬子が晴れ着を着て外面が立派に見えてもボロがでる」と一足飛びに進んでいる。ことわざの誤用であるけれども何となく面白い。馬子がまごまごしている姿が見えるようだから。こんな風にことわざ誤用事典を作ったら少しは売れるだろうか。

愛と死の問題

2010-07-26 19:12:16 | 哲学
7月26日 晴れ後雨
 病院に入院中の家内を見舞いに行く。お隣さんみたいに近所にあり(歩いて3分、境界線までは1分)、院長はわが家の息子と知り合いでもあり、気安い関係にあるから、安心して病院に任せられる。家内は原因不明の発熱のため入院したが、回復しつつあり、2-3日で退院できそうである。
 人は愛する心を与えられている。愛にはいろいろな愛がある。親子のいわば本能的な愛、男女の間の性愛、友人間の友愛、そして神的な自己犠牲的で利他の愛。その例はキリストがその短い伝道生涯で多くの病める者を癒し、最後に十字架にかけられて人類の罪をあがなったとされる愛、それはアガペの愛と呼ばれ、最高の愛、愛の極みの愛とされている。人間の愛は人間臭く自己中心から離れられないものである。神を知って人の卑小を悟り、もがき苦しむ求道者はアガペの愛に到達するよう苦闘しているのである。しかし人間が人間的に愛することを全否定すべきかと言うとそうではなかろう。背伸びして神を目指しても到達できぬのが人間である。
 死はすべての人間が免れることができない。死を前にしていかに人は無力なことか。愛する者を失う苦しさは死の恐ろしさを浮き彫りにする。死はまさに魔王のごときものか。永遠の生命を願うのは愛するもののいる人の切なる願いである。しかし現世でそれが叶えられないからこそ人は悩む。キリストの愛はそれを越える。キリストは現世の命を越える命があることを教える。それが永遠のいのちである。しかしキリストを信じることがその条件となる。永遠のいのちは信仰の門をくぐってかの世の原理として実現する。壮大な世界がそこにあるが、不信のものにはついに閉ざされた秘密である。

疲労の蓄積

2010-07-25 21:26:02 | 生活
7月25日 晴れ後雨
 暑い日であった。今日の仙台でのいのちの尊厳を考える会の役員会はクーラーのない部屋でおこなわれ、もう頭がボーとして十分な議論などできない。役員が気を利かして早めに終った。
 会議を終っていわきに戻る。足の筋肉のこむらがえりは昨夜から起こり、一たんは治ったのだが、重いかばんを持っていわきに帰る途中でまた始まって、閉口した。これはわが家の遺伝的持病らしいが困ったものだ。死に至る病と言うようなものでないが、厄介だ。
 疲労が蓄積するとものの考え方が、消極的になりやすい。こんな時は早く休むに限る。休息に華を求めよ。甘美な休息と言うもの、その極みは人生最後の時かもしれない。

現在と未来

2010-07-24 11:16:15 | 哲学
7月24日 晴れ
 これから猛暑の中の仙台に出かけ、1泊2日の予定。会議を招集した側が休むわけにはゆかない。それにしても交通事故以後脳内出血を起こし、硬膜下の血腫除去の手術で助かった身、脳の機能の低下と、ボーとした感覚が続いているにもかかわらず、何とか仕事も続けることができた。感謝であるが、自己過信は禁物。
 現在に集中することは大事な処世訓である。大相撲で連勝中の白鳳は一日一日相撲に集中するとアナウンサーに答える。金属学者の本多光太郎は「今が大切」という言葉を残した。イエスは明日を思い煩うなと諭す。今という時はある意味で永遠と言ってもよい。神が作りたまうた空間と時間は独立と思われていたが、実は相互に関係があるということを見出したのはアインシュタインだった。時間には過去から現在、現在から未来に、一方方向にしか流れない特性がある。不思議と言えば不思議だ。
 しかしイエスの教えとはいえ、未来はどうでもよいということではないだろう。イエスご自信がそうであったように未来を知ることの出来るひともまれにはいる。人と言う存在は決して単純ではない。ヴィジョンを持つ人を尊重しなければならない。

永遠のいのち再考

2010-07-23 21:14:21 | 哲学
7月23日 晴れ
 聖書の思想に永遠のいのちという教えがある。これを新約聖書でイエスが力をこめてといており、信じるものに勇気と力を與えてえている。
 見方を変えれば、永遠のいのちはつまり不老不死を意味するが、秦の始皇帝ののような権力者でも得ることができなかった。個人は死すべきものに定められている。どんな個人も肉体の死を免れることはできない。
 しかし個人は死んでも子孫は生き残ることができ、その意味では永遠のいのちは可能と言えるのである。
 生物は有性生殖で効率よく進化に対応する。単純なものから複雑なものへと進んできた。進化は自動的に環境に対応するのかどうか、私たちは詳しいメカニズムは知らない。進化を考えると、あまりにも都合よくできているように思う。
 そこで進化論者には叱られるかも知れないが、進化をデザインするものが存在することなしにどうして進むのか、不思議で、疑問は尽きないのである。
 科学は事実を述べるが、その奥の何故という問いにしっかり答えてはくれない。この世だけで説明できる事項には限度がある。霊性を持つ人間はこの世を超えた霊的世界があることを思わずにいられないのである。永遠のいのちはそこで意味を持ってくる。

信教の自由について

2010-07-22 14:34:14 | 哲学
7月22日 晴れ
 今日も暑い日になる。日課としていた朝の散歩は熱中症になる恐れがあるために当面中止としている。
 人間の心の世界は深い。複雑で一筋縄でゆかない。ことが人の信仰に関わると難しい問題が発生する。英国の教会がローマカトリック教会から分離したいきさつは国王の結婚問題からといわれる。英国国教会は英国を主導するはずであったが、清教徒運動の高まりの中多くの問題を引き起こした。非国教徒は差別されて苦しんだ。ピルグリムファーザーズの名で知られる清教徒は信教の自由を求めてアメリカに渡った。彼らはこの世の生活よりもかの世の神の報奨を大切に考え、あらゆる辛苦を耐え忍んでアメリカ建国の精神的基盤を作ったといわれる。
 日本でも親鸞の浄土真宗の門徒は強烈な救済意識をもってこの世の圧制に抵抗し、北陸の地に殆ど独立国を作り、戦国時代に特異な光を放った。信教の自由は人を勇気付ける。
 キリスト教の信仰は聖霊の存在を認め、聖霊によって人は清くなるとされる。北朝鮮のテロ実行犯人の金賢姫は捕まって死刑の宣告を受けたが、獄中で回心し、特赦されて今日に至った。今日本で拉致被害者家族と会っている。彼女の姿はオーラを放っているようにさえ見える。まことの回心に至った人は聖霊に導かれ、よい提言をしてくれることを切望する。