一生

人生観と死生観

肝炎患者の救済

2009-11-30 16:58:01 | 哲学
11月30日 曇り
 この世の中には理不尽なことも多く、いちいち腹を立てていたらきりもなく、たいていの人は傍観するしかない立場におかれる。肝炎の被害者が多数いることは前から知られていた。輸血や生物製剤で肝炎になる人もいるが、意外に多いのが予防接種が原因になっている場合である。多数の人に短時間で予防接種をしようとした予防接種暗黒時代というのがあった。1970年に予防接種禍が問題になる前である。予防接種のさいに注射筒を取り替えないどころか、針も取り替えない、打ち回しは当たり前のように日本全国で行なわれていた。こんなことをやれば肝炎のウィルスは人から人へ移るに決まっている。感染拡大は長い時間たってからはじめて分かる。このようなだらしのない予防接種の弊害を私は岩波新書で指摘しておいた。厚生省時代から分かりきったことであるのに、予防医学の専門家たちはただ接種人口の拡大だけを念頭に、お役所を煽動してきた。インフルエンザの場合もそうである。現場の医師は困っている。忙しい日常の医療の中、臨時の予防接種に駆り出され、悲鳴を上げている現実がある。現場を知らない研究者が机上の理論を国民全般に押し付けようとしているのだ。
 肝炎患者の救済は当然のことだが、このさい現場を知らない研究者たちの自己の縄張り拡大主義を反省させることも必要だろう。

坂の上の雲の明治日本

2009-11-29 21:32:16 | 哲学
11月29日 晴れ後曇り
 NHKの「坂の上の雲」はじまる。明治のころの日本が描かれるというので関心はあった。ニッポニウム発見で有名な小川正孝元東北大学総長が、正岡子規や秋山真之より1年か2年上級生で、松山中学に在籍した。そのことから明治の初期の日本の情景や日本人の心情は想像していたのであった。とくに若者において上昇指向の日本人は立身出世は当然のことであり、青雲の志を抱いて地方から東京に出てきた。志叶わずに人生を送らなければならなかった者も多い中で、これらの若者は名をなすことが出来た。しかし何か悲劇的なものがともなう人たちで、小川はニッポニウムで苦しみ、正岡は病に苦しみ、秋山の晩年は翳っていた。上昇とは限界があることも事実だ。人生は現世だけにこだわれば最後に空しいものを味わうに違いない。やはり若い日になんじの創り主を覚えよという聖書の言葉は意味深いものがある。

人体の不思議

2009-11-28 20:10:15 | 哲学
11月28日 晴れ後曇り
 心と体はどうしてつながるのか。心なえた人は体も衰える。そしてその人が元気を取り戻すとき、体も回復してのびやかになる。
 私は糖尿病のために脳内に靄のようなものが次第に広がっていた。それがどうだ。インスリン注射のおかげらしいが、靄は晴れてすっきりと物を考えられるようになってきたみたいだ。みたいだというのは、まだ100%そういえるかどうか留保しておくべきかもしれないと思うが、とにかく気分はずっと良い。脳と体は確かに繋がっている。これは人の体の不思議といってよいだろう。どうしてこのようになるのか。科学は平板な事実の連鎖しか教えない。その意味を深く求める人は結局哲学へ行き、そして超越的な神の存在にたどり着くであろう。なぜそのXがこの現象界に介入できるのか説明が難しいとしても、単純率直な信仰がその確信をとらえるのだ。

わが国の官僚制度

2009-11-27 16:03:05 | 哲学
11月27日 晴れ後曇り
 鳩山内閣において行なわれている業務仕分けは国民には概して好評。しかし直接利害関係者の強い抵抗があるのははじめから覚悟の上でのことか?今までの官僚統制は長い長い歴史を持つ。明治時代に近代国家として発展するために、いわば明治官僚制とでもいうような制度を作った。これは諸外国の制度を参考にしたとは思うが日本独特のものも多分あったであろう。100年もやっているうちに機能不全を起こすのは当然だから、この際新しいやり方で制度を見直すのは大いに結構で、歓迎したらよい。しかし事業仕分けの弱点は、短時間で深く考えずに独断、速断する恐れがあることだ。科学技術関係の予算カットは野依良治氏はじめノーベル賞学者たちが猛反対し、もともと理系の鳩山首相も同情的だから増額になるだろう。官僚天下りは官僚たちの自己増殖主義の現われといったところがある。辞めても就職先があるからこそ次官候補に席を譲ることができるというシステム、それを温存しては国の事業は身動きが取れなくなる。民間も困る。ただ官僚も人間だから人間らしく扱わなければならない。

さらば秋の日よ

2009-11-26 15:51:16 | 哲学
11月26日 晴れ後曇り
 人は自分の定め(運命)を知らない。だから平気で暮らせるのだという人もいるだろう。なまじっか先のことなど知らないほうが幸せだと。
 そんなことを思いつつ、秋の終わりの晴れた日を過ごす。上のことは多くの人に当てはまるかもしれない。しかし少数の目覚めた人、あるいは特別の使命を負わされた人には、その日その日を過ごしつつ、未来が見える、見なくてはならない、と考えている人がいる。立派な政治家にはそうあって欲しい。またしっかりした教育者にもそうあって欲しい。上から下される使命に生きる人いる。日本の国に本当の未来を与えるために。わたしのいのちも最晩年、しかし感謝をもって生きることを忘れるな。もみじの美しいこの国の自然をめでつつそう思う。

インフル猛威?

2009-11-25 22:16:25 | 哲学
11月25日 雨のち曇り
 速い速度で低気圧が東の海上に去り、お天気は晴れとなる。晩秋の空はかわりやすい。そして連日新聞記事になっているが、インフルエンザが流行しており、予防接種は大賑わいとのことだ。どうも違和感がある。死者も出ているというがそれほどの切迫感は私の周辺にはない。もちろん警戒するに越したことはないが、大騒ぎするのも何か大人気ないように思われる。岩波の「科学」巻頭に関連記事がでたそうだ。私はもう少し冷静に状況を観察することが必要だと思っている。養護教諭の先生にはできるだけ感染と重症化(つまり欠席日数)のデータを取るようにお奨めしている。しかし簡単に学級閉鎖になるとこの仕事も困難になる。聞き取りが必要になるからだ。しかしよい成果が得られるとよいが。

学問雑感

2009-11-24 19:56:53 | 哲学
11月24日 晴れ後曇り
 ラムゼイの生涯を科学史として描く仕事に取り掛かって思うのは、この人の恵まれた背景である。イギリスは科学の伝統が古くからあり、国の政策によらず、自主的に学校を作り、そこで学ぶグループがあったそうだ。日本では私立学校は国立に比していろいろなハンディーをもっている。伝統というだけでは本当の学問はできない。学問をやり遂げる気概がいるのだ。そして学問は手先だけでも、また頭だけでもできないのだ。頭と手先が結びつき、良いアイデアが浮かぶ状態を必要とするのだ。日本人はともすれば研究費の問題を言い訳材料として取り上げるが、それはまず大方が間違っている。金など持ち過ぎれば手枷足枷となるだけである。もっと自由に大胆に考える習慣があるべきだ。
 以上少し堅い話になったかもしれないが今日の雑感。

北方民族征服説

2009-11-23 14:34:19 | 哲学
11月23日 勤労感謝の日 晴れ
 今日の休日穏やかに晴れて心地よい日射しを味わう。
 昼本屋に立ち寄ったら、日本に帰化した3人の鼎談を編集した日本人論が見つかった。著者は黄文雄、呉善花、石なにがしである。北方の民は麦を食う人たちで寒冷な気象のところで生活し、飢饉になれば南に出かけて略奪する、気性の荒い人たちである。南は米を食べる穏健な人たち。中国の歴史で最高権力者はほとんど北出身である。例外は孫文、蒋介石、毛沢東だけ。三人は呉さん(済州島出身)を含め皆南方系だからか少し屈折した、しかし遠慮のない話ができるようだ。
 日本列島に入ってきた弥生人といっても、銅鐸を作った人々は南方民族的だが、銅剣や鉄剣を持ってきた後発の人々は多分に北方系の血を引いた人たちであったと思われる。混血が起こって長い間に単一民族のように思われるほどミックスしたといっても、顔立ちはさまざまだ。天皇家の祖先は北方系と推測されるが、切れ長の目がモンゴル的だとある韓国人が言っていた。北は強く侵略的、南は穏やかで受容的、中国の状況は日本に持ち込まれて複雑な様相を示している。

残るものに福

2009-11-22 14:27:48 | 哲学
11月22日 曇り一時小雨のち雨
 寒い!季節は冬に行進中、此のくらいの寒さに音をあげてはいけない。
 さて今日は日曜。旧約聖書の中に散見する残りのものという思想がある。ユダヤの民は繁栄を重ねた末に道徳的な堕落をして、神に背き、その結果故郷を追われて地上をさまようものとなった。滅び寸前で神に立ち返り、破滅を免れた残りの少数者が次の時代の担い手として歴史の中に登場し、そして国家と民族を再建するというのである。事柄は深刻なようだが真理が含まれている。
 残り物になにがある?福があるなど謎かけすれば、欲張り人間は残り物に手を出し、そしてお腹を痛めてうんうん唸るかもしれないが、神の摂理はそういうことではない。残ったものは不幸にして先に逝った人々を思い、謙虚にしかし不退転の決意を持って先に進まねばならぬ。

生命の限界と死の世界

2009-11-20 21:06:42 | 哲学
11月20日 晴れ後曇り
 生命とは不思議なdrivinng forceつまり推進力である。当然のごとく生きている生命体がある日突然死に直面する。その時この力は止み、何の作用もなさない。その限界点が存在するというわけだ。そこで何が起こるか人は説明する力を持たぬ。常識なるものは一切通用しなくなる。恐ろしいのか嬉しいのか科学の力では推測できない。宗教は悟った人が教えるが、それは信じるかあるいは信じないかで、信じると賽を振れば、その通りにするしかない。
 死の世界は思ったより静寂、もしかして薔薇色に彩られるかも。ただひたすらということしか今のわれになす術はない。