一生

人生観と死生観

風邪引きの弁

2010-01-31 17:01:53 | 人生人間
1月31日 晴れ
 今日は風邪の話。風邪といってもいろいろあって医学的には難しいらしい。実は私がいま風邪の症状であまり気分がよくない。熱はほぼ平熱の範囲内だが、昨日までは咳が出たりくしゃみが出たりで今日は殆どでなくなった。家内が旅行の後、くしゃみをして様子がおかしくなり、微熱が出て3日ほど続いた。高熱にはならなかったから新型のインフルエンザではあるまい。4日目の今日は平熱になった。私は家内の次の日からおかしくなった。1日差の風邪ということは、感染発病の潜伏期間がわずか1日ということになるが、別々の感染経路だった可能性もなくはない。私の場合は2日でほぼ平常に近くなった。家内は体が弱いので、私より長く罹るのが今までの通例である。
 風邪は万病のもとという諺もあるから気を付けるに越したことはない。しかし年をとれば免疫力が落ちるので、その分だけ留意の上乗せをすることだ。

足跡から古代人を推定する

2010-01-30 11:05:57 | 哲学
1月30日 晴れ
 北九州で古代の田圃が見つかり、さらにそこには当時の人たちの足跡が見つかったといって新聞の話題になったことがあった。その時静岡大の平沢弥一郎という人が調査にあたったことを憶えているが、今回少し北の水田跡について調べてみた。青森県の弘前市の近く、田舎館遺跡には東北大学の伊東教授らが発見した弥生期の水田跡があるというのだ。調査報告書を取寄せて調べたが、それは膨大なもので、いろいろな角度から総合的に科学的に調べている。面白いことは水田の大きさがきわめて小さく、最少は3平方メートルから最大は18平方メートル程度のいわば細切れたんぼである。それらが700個近く発掘されたが、田圃には多数の古代人の足跡が連なっていた。足の大きさは男が25センチメートル程度だから現代人とそれほど変わらない。違いは足指に力が入っていて、開きぎみであることだ。田圃は火山灰の層の下にあり、噴火によって駄目になったか、別の人の推定では台風の後の洪水でやられたかである。ここで耕作していた人たちは別の土地に移住せざるを得なくなったのだろう。東北で北九州とそれほど変わらない時期に水田耕作跡が発見されるとは驚きであるが、東北大学の考古学教室の奮闘によるところが大きく、当時の定説を覆した。この年代はC-14法で西暦紀元前260年から紀元後60年くらい。恐らく北朝鮮ー沿海州の北方ルートによる稲作技術の伝播によるものであろう。
 前に記したことがあるが、東日流外三郡史に記載されている晋(西晋を意味するものと考えたほうが合理的)からの亡命者たちは、津軽地方で既にあった棚田式の小さな水田耕作に従事したものと思われる。ついでに言うと新潟県魚沼地方の名産コシヒカリは小さな棚田で生産されているそうで、この棚田を作った人たちの話がある雑誌にのっていた。暇を見ては荒地を少しづつ水田に作り変えるのだそうで、彼らの足跡は収穫後の水田に記されていただろうう。苦労の多い開拓で、日本人はこういうことを忘れたら先人に申し訳ない。

生命ーそれは偉大なX

2010-01-29 19:53:23 | 哲学
1月29日 曇り後晴れ
 家内が風邪を引き、私も少しおかしい状態が始まった。くしゃみ、鼻汁、悪寒の前兆とも思われるものが体の芯にあるような嫌な感じである。
 生命あるものは実に精妙なメカニズムが働いて生きていることを痛感する。免疫と言う機構もすぐれたものであるが、時にコントロールができなくなることがあるようだ。自己免疫とかいうものは免疫に関係する細胞が自分自身を攻撃する状態で困ったものだ。私は一種の皮膚病である「しょうせきのうぼうしょう」で長年悩みを持つが一向に改善しない。白血球が手や足の細胞を攻撃して水胞状態になるのだ。ストレスが原因だとか、アマルガムが原因だとか、いろいろ言われるがそれもあまりはっきりしない。とにかく生命のいろいろな現象はまだまだ未解明の部分が多い。皮膚病から癌に発展する場合があるそうで、私はこの病気がひょっとすると癌を誘発するのではないかと思い、医者に聞いたら、それはないといわれた。しかしこんな場合に患者にありのまま告げる医者も普通はきわめて少ないだろう。がん細胞は愚かにも周りに関係なく無限に成長する変り種で遂にはその個体の全体を滅ぼしてしまうのだ。これも生命の不思議の一つ。
 要するに生命の諸相はいくら科学が進んでも不可思議の要素が強い。偉大なXと言うものである。科学の究極はより高い次元の説明を必要とするように私は思う。

昭和は遠く

2010-01-28 16:59:00 | 哲学
1月28日 曇り一時雨のち一時晴れ
 昭和初期生まれのものが80歳代に達し、私の同期の友人も鬼籍に入ったものが半数を超えるかといったところだ。
 平成が20年を越えるから、昭和を遠く感じるのは当然のことだ。大正生まれの人たちは戦争に巻き込まれて落命した人も多いが、昭和初期生まれの人間は戦後の労苦を乗越えて経済成長の原動力になった世代である。文化の方面でも世界に乗り出してそのレベルを高め、いろいろなところで一流の業績を残すようになった。
 しかし自分たちの世代の課題も多い。決して自己満足してはならない。後の世代がもっと伸びるための土台つくりをどれほどやったか、反省してみる必要がある。
 昭和は遠くなってきた。最後の段階でできることは何か。誠意を持って後の世代のために祈ること。

革命と政治と学問

2010-01-27 22:23:20 | 哲学
1月27日 晴れ
 大仰な題の様だが以下のとおりだ。鳩山首相はじめ民主党は明治以来の政治を改めて革命的なやり方を試みると言う。志はよいが現実には政治資金問題と外交上基地問題で苦しみ続けている。優しい性格の鳩山首相が頑張りきれるか、心許ない気もするが、投げ出さずにやってもらいたい。基地問題はたとえば日本の自衛隊の基地をアメリカに譲るやり方もあるのではないか。硫黄島など離島ではどうか。とにかく大喧嘩にならない程度で決着を付けることだ。
 日本と世界はあの鎖国の江戸時代でも関連がある。東日流外三郡誌の秋田孝季は長崎に行って、進化論の萌芽的な説を紅毛人から講義されている。複数の人から教わったらしく、ボナパルトと言う名やエドワード・トマスという名もある。トマスの名はいかにも英人風であり、この人がチャールス・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンを知っていたものと私は思う。彼を通じて他の紅毛人もそういう知識は持っていたであろうと想像される。当時は寛政5年で1789年のフランス革命から4年後のことである。啓蒙主義のルソーやヴォルテールのことを思い出してもらいたい。情熱的と理性的を兼ね備えた西洋人は日本人にとって驚異であったに違いない。進化論もこのような土壌から発展したのだ。フランス革命のことを知っていた長崎の紅毛人たち。彼らには日本はどう見えたであろうか。日本人は愚か者ばかりではない。秋田孝季の記事の底に活火山が潜んでいたことを外国の革命との関係で考察できるか。学者たちに考えてもらいたい。三郡誌偽作説はいかにも了見が狭い。

小川正孝と松山

2010-01-26 19:44:40 | 哲学
1月26日 晴れ
 ニッポニウム発見で知られた元東北大学総長小川正孝は1865年のこの日生まれた。その3年後に明治維新を迎えることになる。時代の動乱期にあったっていたから、浮かぶものと沈むものの明暗ははっきりと分かれる。彼は幼くして父を失い大変な苦労をして成人した。松山中学校卒業のとき、幸運にも奨学金がもらえて東大進学の道が開けた。
 松山出身の有名人といえば正岡子規と秋山好古・真之兄弟が有名だが、司馬遼太郎が小説に書いて全国民に広め、NHKが取り上げてさらにその知名度を不動のものにした。小川は
正岡や秋山真之の松山中学校2年先輩だが、なぜか松山ではそれほど取り上げられない。松山中学の後身の松山東高校出身のノーベル賞作家大江健三郎は有名人ではあるが、松山と結びつけて取り上げられることは少ない。私は小川がニッポニウムの発見者であることを広く知ってもらう努力をし、NHKにも何回か取り上げてもらったが、松山での関心は限られていた。後世に取り上げられることもあるいはあるかもしれないが、神のみぞ知る。

東日流外三郡誌を公平に見る

2010-01-25 19:49:16 | 哲学
1月25日 晴れ
 『東日流外三郡誌』は真偽論争の中にあるが、私は歴史の専門家でないにしても関心を持つものとして、また歴史は人間の本性にかかわるものとして一言したい。
 この本は古代の政治的、軍事的敗者の心情を率直に語ったものとして特異なものである。その怨念は子孫にまで伝えられ、一種の叙事詩のようになっている。西洋ではホメロスの昔トロイの落城をいたむイリアスの叙事詩が伝えられ、立派な古典となっている。三郡誌は精神においてその系統を引くものと言えるかも知れない。もちろん誤記もあり、編集の都合上重複も多く、かなり読みにくいものとなっているが、編集者はこの本の利用ないし活用を後世に託したのである。もしこの本の主旨を後代に歴史や文学に役立てることができたならと言う願いはこめられていると思いたい。
 この本の中で著者が秋田孝季でなければ書けない文がある。寛政5年長崎で史学教師エドワード・トマスに36日間講義を受けたという。その時に当時最新の西洋の博物学の知識を得た。18世紀フランスの伯爵ビュフォンは有名な博物学者としてチャールス・ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィン(医師・自然哲学者・生理学者・奴隷廃止論者・詩人として有名だが教会には受け入れられず変人扱いにされたらしい)にも影響を与えた人である。これらの人々は宇宙論や進化論の先駆となるような説を唱えていた。ビュフォンを英語式に発音すればジョージ・ルイスだが、秋田孝季はジョーズ・ルイスと記録している。同一人であることは疑問の余地がない。ダーウィンの祖父は18世紀末、秋田孝季が長崎で講義を受ける少し前に著書を発行している。長崎に来たエドワード・トマス(名前からして英国人か?)がそれを知ったのは多分英国においてで、この人もまた新知識に憧れていたのであろう。東洋の外れの日本に来て、熱心な秋田孝季の求めに応じて講義をおこなったのであろうと思われる。これは和田喜八郎が捏造できるような記事でないと断言できる。

借金財政と高齢者問題

2010-01-23 15:50:57 | 哲学
1月23日 晴れ
 われわれ高齢者は10年先に生きておれるか分からないが、それにしても今の日本の借金財政には非常な危機感を持っている。年々増えるばかりの国債残高である。民主党政権になっても、事業仕分けで節約する話はあったが、結果としてはそれほどの効果は上がらず、実験として面白いと言う程度にしかならなかった。高齢者の数は年々増える一方で、年金や医療費の増大が経済を圧迫することは目に見えている。膨らんだ経済規模を圧縮することは容易でない。
 高齢者のケアは経済だけではすまない。心の問題、とくに「生き甲斐」をどう作るかは老齢者の幸せの保証として、「コンクリートから人へ」のスローガンを掲げた現政権として大変重要なものと思う。この点日野原先生の「新老人の会」の目指すところは多くの人に受け入れられるものであろう。ただ具体的な問題にはいろいろなアプローチがあり、必ずしも満足に行なわれるとは限らない。入会者も多いが、脱会者も多いそうである。今のところ総数が増加しているので首脳部は心配していない。心の問題は強制するような話ではない。理想としては各自の自由な発想が生かされ、参加者が参加する喜びを感じてくれればよい。補助金はあればよいが、なくてもやれるような工夫が会を生かすであろう。「金より心」と言うことを忘れてはならない。

オランダの自由と民主主義

2010-01-22 10:48:40 | 哲学
1月22日 晴れ
 去年は日蘭400年の記念の年であったが、オランダが小国のためか非常に盛大な行事は行なわれなかったが、それでもいくつかの記念となる催しがあった。鎖国時代にオランダは日本の海外に向けた唯一の窓であり、そこから入ってくる情報は大変貴重なものであった。世界は進歩し、人類の知恵は進む中で鎖国する日本は取り残される惧れを感ずることもなく、ただのうのうと眠りをむさぼってよいか?こんな疑問を抱く人は日本人で一人もなかったのだろうか?
 幕末に近付くと西洋の力は東洋に及び、太平の夢をむさぼっていた徳川幕府もさすがにこれが気になりだした。18世紀8代将軍徳川吉宗が洋書の解禁を行なったのは彼の旺盛な好奇心を示すものであり、知識人の内的要求にも叶うものであった。平賀源内のごときはエレキテルを完成、科学の実用性に着目した先駆者であった。18世紀ロシアは当方進出を進め、日本の北方海域に探検船が出没し、北海道松前藩に通商を求めいたった(1878)。幕府が最上徳内や近藤重蔵に蝦夷地の調査をさせたたのはこれに関連した反応である。
 ところで長崎に来たオランダ人について考える。もともとオランダはカルバン派の新教徒が多く、旧教国スペインから独立した国で、進取の気性があり、自由を求める気風があった。ここに来たオランダ人は東洋に来る動機は利益のためだけでなく溢れる好奇心と、自由闊達の精神をもっていたように思われる。中にはシーボルトのように東洋を見るためにドイツから来てオランダ人のようになり、長崎に渡ったものもある。
 『東日流外三郡誌』という書物があって、偽書扱いにされる中、真書と考える人も尽きない。著者の秋田孝季は長崎に深い縁のある人で、長崎のオランダ人から外国事情や学問を熱心に習得したらしい。オランダ人の思想の影響もあったであろう。自由思想の価値も知っていたであろう。彼は母親が東北三春藩主の配偶者となったために、藩主から調査を目地られたと言う。彼の書いたものの中に「天は人の上に人をつくらず」という言葉が何度か出るがこれは福沢諭吉の有名な言葉とそっくりで、東日流外三郡誌が偽書の証拠と見なされたりするが、そうではないだろう。彼の書き物は恐らく長崎のオランダ人の思想の反映である。福沢諭吉も自分の言葉は誰かの引用であるかのような書き方をしている。諭吉の先生は緒方洪庵で長崎派だから、福沢に長崎の影響がここにでたと見られ、別に三郡誌を引用するまでもないのである。もともと東北地方には『自然真営道』に見るように比較的平等思想に立っていたのだ。偽書の証拠と見るのは行き過ぎで私は取らない。

眠りの効用

2010-01-21 22:32:51 | 哲学
1月21日 曇り後晴れ
 眠い眠いで一日を過ごす。眠りは浅く、そんなに有効に眠れているわけではないが、起きていても眠りを慕う状態が続くのだ。子守唄でもともなえばそれこそ天国となるであろうが、老人だからそんなものはない。ただ時間が過ぎて行くばかり。
 眠りは幼い頃は恐怖のことがあった。台風の夜、頼りない幼子の身に恐ろしく牙をむく風の音。そしてまた突然の眠りを妨げる恐怖の夢。そんなときに母が教えてくれたおまじないの呪文。獏が食うた。獏が食うた。口に唱えながら何時の間にか眠っていた。そしてもう定年の後、散歩中に倒れて、救急車に運ばれて手術した後のこと、眠ること、眠ること。それはどの薬に勝るすぐれた癒しの賜物。起きてみたら、看護師の女性がやって来て、ここは天国かと見まがうばかりの美しさ。死の世界の手前で見つけた至福のとき。眠りによって洗われた新世界はこのようなものかと喜び、躍る。眠りの効用である。