一生

人生観と死生観

児童館はだれのもの?

2007-11-29 09:53:04 | 生活
11月29日 曇り
 11月もどん詰まり。寒い朝を迎えた。
 気がかりは児童館のこと。児童館廃止は暴挙としか思えないが、宮城県のその後の情報が入ってこない。県は行動を起す前に関係者によく諸般の事情を確かめておくべきなのだが、それをしないから間違った決定をしてしまうのだ。後から責め立てられても、もう決めたことだからと居直るのは本当にいけないことなのだ。児童館はだれのもの?民主主義の今の世の中、児童館は子どものもの、県民のものであり、県の役人が主人顔をするべきものでない。県民に選ばれた県知事でさえ勝手な判断をすることは許されない越権行為である。そこのところが分かっているのか?
知事が私どもによこした返事は形の上では丁寧だが、浅い知恵で事態を収めようとするわれわれにとって不本意なものだった。おそらく課長クラスの官僚機構が無理解なのだ。この機構の狂いをどうやって正すか。

死んでいなけりゃ

2007-11-28 10:17:30 | 哲学
11月28日 曇り
 今朝の朝日新聞の天声人語にハンガリーの民話。「死んでいなけりゃ、生きてるだろうさ」私はハンガリーに1ヶ月と2週間いたが、残念ながらこんな話は聞いたことがなかった。
 人は死んでいなければ、生きているはずだが、生きているのか死んでいるのか分からないような生き方もある。冬ごもりする熊みたいに、あるいはモグラみたいに。
 少し違った観点から言うことになろうが、死んだ積りで生きている人もたまにはいる。そんな人の方がかえってよりよく生きるものだ。
 ダマスコに近く千の太陽よりも明るい光の前に打ち倒されたサウロ(後の使途パウロ)のことを述べた。彼はこのとき復活のキリストを見た。彼はそれ以来まったく生き方が変わった。キリストの敵対者であったサウロが死んで、キリストの僕としてのパウロが生きて働いた。信仰のない人は信じられないだろうが、奇跡はある。あくせくすることをやめて神にまかせる生き方をしたらどうか。そうすれば意外な出来事だらけで、驚くであろう。そこに限りない恩恵がこもっているのだ。

モノローグ児童館

2007-11-27 10:53:18 | 生活
11月27日  曇り
 児童館についての夢のような物語。
「ボロだ、ボロだ、とおれを馬鹿にしないでもらいたい。中味こそ大切なんだ。
君たちはおれがまるでもう時代の先導者としての役割を終え、退場を待っている役者であるかのように見ている。君たちの見方は何か表面的で形式的だ。子どもの問題をさっぱり分かっていない、素人の見方だ。それが県の子ども行政を指導する役人の立場では県民が迷惑するのだ。
「おれが今までどんなことをやってきたか、思い出してもらいたい。たとえば小学高学年の子どもたちを泊り込みの研修で訓練し、キャンプ並みのバーべキュウで楽しませ、巨大遊具で遊ばせた。その思い出は当人たちにとってただの思い出でなんかない。今でも生きてはたらいている。その子どもたちが、いま、立派な社会人として積極的な生き方をしている姿は当時の児童館研修の大きな成果なんだ。
「今の時代の子どもの病理現象として、いじめ、登校拒否、きれて傷害、殺人などの犯罪にいたる。大変な問題に違いないが、これだけに目を奪われてはならない。
その根っこが大切だ。子どもの健全育成は合宿のような場を設け、共同生活をすることでずいぶん効果がある。そういった工夫を凝らしてもらいたい。そしてそれがてんでばらばらに行われている各地児童館の指標となる。」
 こんなことが明け方のころ私の頭に登場。夢なのか、うつつなのか境目が明らかでない。
 前にも少し触れたことがあるが 児童館(機能として)を福祉施設に統合しようというのは、かなり無理がある。機能重視の行政での見落としは、人間は機能ばかりで生きているのではないということ。人は心を持った存在だから機能の統合などで満足がいくわけではない。児童館は児童館として独立性がなければならぬ。子どもは正直。大人が真剣に、真正面から立ち向かなければ子どもは相手にしないだろう。

おどる火の感性

2007-11-26 16:46:22 | 歴史
11月26日続き
 東北人は芸術家的センス豊かな人々か?民謡の宝庫といわれる東北!盛大で奇怪(きっかい)な夏祭り。とくにねぶたあるいはねぷたの祭り。ラッセラーの掛け声勇ましく、その昔の英雄があまたの人々の記憶によみがえる。
 信濃川流域から発見されえた火焔紋土器が縄文時代の代表的傑作として知られている。燃える火に心躍る縄文時代の民の生活を思わせる。それを見るとギリシャのディオニサスの芸術を思い起こさせられる。アポロの芸術とは対照的なものである。人々は火の周りに太鼓の音に合わせて踊り、昂揚のひとときを過ごす。極めてダイナミックな時間が土器の姿にとじ籠められている。縄文人は弥生人と少し違った感性を持つ芸術的にすぐれた人々である。何か劣ったもののように卑下する必要はない。

反ー過労死

2007-11-26 12:53:43 | 哲学
11月26日 晴れ
 やはり残る疲れ。年だからやむを得ない。しかしものを考える力は残っている。
 勤勉は必要だが、過度の労働により過労死する日本人があとを絶たず、社会問題になっている。そこで一言。集中が持続できる時間の中ではたらく。それ以上はやっても無駄の多い時間となると知るべし。
 NHKの「知るを楽しむ」の11月22日放映分の反響はまずまずのものであった。小川が生涯をかけて研究したニッポニウムは75番の新元素レニウムであった。同時代のドイツの科学者オットー・ハーン(プロトアクチニウム発見・核分裂発見)仕事と比べるとなんという効率の違いか。日本の科学の幼さが目立った時代であった。集中はやみくもの勤勉に勝り、セレンディピティーはこれを捉えるや否やで天地の差を生じる。このような事実の認識を若いうちから鍛えるべし。日本のこれからの教育のために。

11月25日

2007-11-25 23:58:36 | 哲学
仙台に2泊3日。
私という人間は時に詩人であり、恐ろしく愚か者であることは分かっている。しかしその時こそ貴重なときである。私は今日人生の秘密を教わった。高橋三郎師の言葉である。超越者と人間と、なんという無限の距離において相対することであろう。それにもかかわらず、その距離を越えて上なる愛の発動がある。ダマスコ城外でサウロはかの復活のイエスに打ち倒されたことが聖書に書いてある。不思議な話なので講解する人はクリスチャンの中でも滅多にいない。高橋師はそれに似た体験を持った。光があふれるばかりであったらしい。詩人としての私もそれはありえると思っている。二男充の突然の病のときは、今にして思えば耐え難いほどの困難でありながら、光に充ちた時であった。真島利行の回心も子息の突然の死の時であった。悲しみの中の無限との出会いである。己の罪の深きことを悟るのもその時である。無限小の人間に無限大の神が迫るがごとき体験なのである。

年賀状の季節

2007-11-22 12:13:23 | 哲学
11月22日 晴れのち曇り
 年賀状の季節がやってきた。一日二日では片付けられない年賀状はいつも頭の痛い問題である。年賀状をもらってから返事だけ書く主義の人ガなかにはいる。合理的といえばそうかもしれないが、世の中の付き合いとしてはやはり変則で、お勧めは出来ないだろう。年とった人でもう年賀はやらないと宣言する人もいる。健康の関係で年賀状を書く体力がない場合にはやむを得ない。
 年賀欠礼の挨拶は年々多くなる。いつもやり取りしていた人ガ亡くなり、配偶者や子どもの名で、知らされる。人生無常を感じさせられるひと時である。
 年賀状の内容も問題になる。今年一年の回顧、新しい年への展望、そして生きていることのありがたさ、お付き合いできることの感謝、それやこれやで考えさせられるときはやはり貴重なものである。

インフルエンザと濡れマスク

2007-11-21 10:20:46 | 生活
11月21日 晴れ
 晴れとはいうものの冬型。これからインフルエンザの季節だ。毎年の予防接種の掛け声大きく、その効果少なく、ワクチン学者の言い訳とこれにのるお役所の無責任変身ぶりに飽き飽きしている。
 ところが昨日スーパーマーケットで濡れマスクの新製品を見つけた。濡れマスクによって風邪予防というアイデアは歯科医の友人臼田篤伸氏創案のものだが、この製品はそれとは趣向が少し違うが、濡れた部分を含む点では一致する。臼田氏は特許を申請されなかったと思うが、新製品は発想を臼田氏に倣ったもののように思われる。
 私は早速それを買って試してみることにした。ものずきが成功するか、失敗に終わるか、この冬のお楽しみだ。

沖縄人

2007-11-20 09:51:34 | 歴史
11月20日 曇り
 戦後沖縄から東京郊外に移住して寮に住んでいる人たちがいた。貧しい暮らしを余儀なくされていた。近くの通産省工業技術院電気試験所の独身寮に住んでいた私は年末の頃、多分ボーナスでも出た後だったか、彼らを慰問するため、詳細は忘れたが、何か持っていった。就職したばかりの若者に出来る程度のことだから大したものでなかった。ところが受け取った中年の男性が過剰とも思えるような感謝を口にするので私のほうが驚いてしまった。私は自分の力でやっていることでないような話をして逃げるように立ち去った。沖縄人の人情に触れた初めての経験だった。
 それから数年後私はアメリカ・ニューヨーク州の郊外でいわゆる戦争花嫁に逢った。アメリカ人は彼女を日本人Japaneseと言わず、OKINAWAN 沖縄人と呼ぶのだった。小柄な可愛らしい人だったと記憶する。
沖縄は人種的にはアイヌ民族と似ていると言われる。土着の原日本人の間に渡来人が割り込み、日本列島の中央に住み着いた。土着の人々は同化するか、逃げ散るかする外なかった。そんな歴史が沖縄の人々に刻まれた。彼らの彫りの深い目鼻立ちに感慨を持たされる。
 しかし沖縄人は現在いろいろな分野で活躍しており、差別や偏見をはね返して生きている。人は前を向いて生きるところに本来の幸せがある生き物だ。人種は関係がない。

小国主義

2007-11-19 11:37:05 | 哲学
11月19日 晴れ 寒い朝
 西高東低の冬型気圧配置。昨日とは大違いの寒さ募り、朝新聞を買いに行くとき身に沁みた。
 北欧の国々を見れば軍備に金を使わず、民生に力を入れているので、国民一人ひとりの生活は豊かで、社会の活気もある。英国の場合には社会保障に力を入れた労働党の政権が続いたが、国民がさっぱり働かない、いわゆる英国病が蔓延する結果を生んだ。どうしてなのだろう。北欧などの小国は世界政治の主流ではないので、自国のことさえ考えておればよいとはいうものの、経済の流れからするとそんな呑気なことを言ってはおれない。
 小国なるがゆえのまとまりのよさ、国民の自覚レベルの高さが違うとも考えられる(この点十分確かめたわけではないので今後もう少し検討する必要がある)。日本が大国主義のために結局進路を誤った戦前のことを思う。しかし、小国主義を唱えた石橋湛山のような政治家の政策実行の際には注意すべきことがある。どんな立派な政策でもやる人がダメな人間では完成しない。人間教育の問題は重要で、若いときからの人格教育の必要は特筆大書しなければならない。中央児童館の問題はここを重視するかどうかの問題に帰する。