一生

人生観と死生観

私の被災地訪問と鎮魂歌

2011-06-16 11:39:37 | 哲学
6月16日 
 昨日念願であった東日本大震災の津波による被害を受けた福島県南部の沿岸を訪ねた。桐山氏の好意によるもので、3ヶ月過ぎたとはいえ、なお残る生々しい津波の傷跡に感銘を受けた。
 いわき市草木台の自宅を出て国道6号線バイパスにのり、陸前浜街道沿いに北上を続け、立ち入り禁止地域手前のJビレジまでドライブしようという計画である。桐山氏ののってきた車に私も便乗したのである。
 いわき市四倉地区は境川付近で被害が見られ、道路わきに片付けられた瓦礫が残っていた。瓦礫の処理は自治体にとって大問題となっているが未だに処理案はできてないのだ。
 いわき市久ノ浜は津波の被害が大きかった地区である。多くの建物が襲われて無人となり、避難した人々は帰ることもできず多くが避難所にいるという。建物が残って人が住めない状態というものは近くで見るとまことに無惨である。
 いわき市を出て広野町の範囲に来る。ガソリンスタンドは営業している。道路を走る車の数も思ったより多いという。この辺は東電福島第一原子力発電所から20-30キロメートルの範囲にあるはずだが、原発事故のために東電は広野火力発電所の運転を継続し、その関係で出入りする業者もかなりの数に達するという。付近の民宿なども営業している。火力発電所の煙突はスマートに晴れた空に聳え、少し先の原発の事故など何処にあったのかと思わせるほどである。しかし浜側の家は破壊された姿が見える。
 この辺からは福島第二原子力発電所が近い。この原子炉は幸いにも事故を起こさなかった。第一の原子炉と紙一重の差ということであろう。原発地帯でもし第二原発まで事故にあっていたらそれこそ大変なことであった。いわき市を含む浜通りも福島市など中通りもほぼ全員避難ということであったかもしれない。想像するさえ恐ろしいことだ。
 火力発電所を過ぎたJビレジいり口のところで、何人もの警官が立ち、これより先立ち入り禁止といわれた。Jビレジに入りたいというと、引き返して別の道から入ってくれとのこと。回り道して原発事故最前線基地のJビレジに来る。もともとサッカースタジアムであったところだが、今はサッカーどころではない。自衛隊の車が沢山駐車して物々しい状況だ。自衛隊だけでなく東電関係の人々もここから約20キロの第一原発に行く。日中のこととて作業員たちは現地で働いているのだろう。姿は見えないが彼らには感謝しなければならない。立派な宿舎はいま自衛隊が使っているとか聞いた。作業員が劣悪な環境で寝泊りしているとか新聞で見たことがあるが、東電のほうはどのように改善をおこなったか、このドライブでは確かめることが出来ない。時間がないのが残念である。臨時の訪問とてJビレジはこれで打ち切りとなってしまった。
 この近所の津波の被災区域をまわる。倒れかかった家のすぐ脇も通った。津波の力はすごい。押す力、返す力で叩きのめす。人の力は自然の力に勝つことはできない。原子力もコントロールが利かなくなれば人は慌てふためくばかり。
 印象深いドライブであった。そして犠牲になった人々のことを思いをはせ、祈る。

東京電力福島第一原子力発電所の事故収束プラン

2011-06-14 19:18:52 | 哲学
6月14日
 東京電力の福島第一原子力発電所の事故はわれわれ福島県民にとって迷惑きわまりないものだが、東電は一向にこれを終結に導く具体的なプランを示さない。彼らの工程表なるものは中味はゼロに等しい。お役所に言われたから仕方なしに出したものに過ぎない。知恵なき輩はその日暮らしの放水冷却を続けているだけで、見通しは立たないといっているのだ。ロボットを入れて測定などするなど多少の進歩は見られるが、測定ばかりではなんら根本的解決にならない。しびれが切れるなあ。東電さん!
 いっそのこと私が教えてやろうか。よくよく見ておけ。ただしこれは試案だから君たちも頭を使って良い案をひねり出せ。
     東電原発事故終結プラン
(1)3km圏以内の土地建物の強制買い上げ。一定期間一般人の立ち入り禁止
(2)この圏内に東電原発の放射性の瓦礫などの集積所設置。水冷用プールの予備水源地の建設。
(3)発電所構内の瓦礫の整理。集積所へ運搬。
(4)発電所構内の地盤の水漏れ、海洋汚染の徹底的検査。漏れは完全修理。
(5)各破損原子炉に水棺プールを構築。このプールは単純なプール方式でなく、水門付きダム(小ダム)方式をとる。破損原子炉を冷却しながら、棺に納めるためである。二重の防護壁を必要あれば加える。
(6)充分検査した後現在の冷却方式から水棺冷却方式に移行。
(7)水棺プール冷却の定常化。予備水源地の活用。
(8)安全確認の上3km圏内の公園化。
(9)常磐線等公共交通機関の復活。
(10)3km圏外の市町村の復活への努力。
以上は東電だけでなく、政府も協力しなければできない。しかし東電が技術的方策を立てることが先決。

人間の風景

2011-06-07 23:58:32 | 歴史
6月7日 
 東北の被災をテレビで見るうちに、人々の我慢強さをその顔のうちに眺めるとき、大和朝廷の侵攻に対する長い忍従の歴史を思い出してしまう。彼らは西から渡ってきた平和の民(銅鐸民族)の子孫だったようだが、征服欲に燃えた天孫族(銅剣民族)に追われて東北の地に移ったらしい。そこで新しい国作りを始めたのが奥州安倍氏の先祖であった。土着の民を統合して発展したが、大和朝廷の武力侵攻についに屈した。蝦夷といわれた人々はモンゴロイド、主流は安日彦・長髄彦の子孫で人種的には西側の人々と見た目ほとんど変わらない。強いて言えば混血の度合いが西側とは幾らか違うように思われる。津軽の伝説にも真実はこもっている。三郡誌を頭ごなしに偽りの固まりとするのは性急過ぎる日本の古代史学者の欠点であろう。
 この人々に苦難から立ち上がる知恵と勇気を与え、日本の将来を担わせて下さい。

日々の雑感

2011-06-05 22:27:59 | 人生人間
6月5日
 仕事があるとき自分の思いを超えてに増える。それは晩年の日々にとって歓迎すべきことかどうかわからない。世の中に振り回されることは心にも体にも決して良い影響を与えない。放射線や放射能についての講演会を開くことはよいが、最近頼まれた学校の現場の困りごとの相談に応じることはかなり重い課題である可能性がある。できることはやることにやぶさかでないが、そのことで不当な非難を浴びたりする今の世の中である。無責任な発言も横行している。わが子かわいさで他人を攻撃するモンスターママの存在も知られている。しかし恐れるな。報いは天のことと思うべし。

放射線音痴

2011-06-04 23:38:34 | 哲学
6月4日
 世の中は放射線の話題であふれる。聞きかじった程度で放射線の恐ろしさを過大に宣伝する週刊誌がある。被曝の限度を決める中央官庁の役人がうろたえている。国民にとっては迷惑な話だ。学会は沈黙し係わり合いになることを恐れる。もっとも関係深い原子力学会は何故積極的に進言して、事故を収束させようとしないのか。原子力発電を推進することに熱心で、事故のことを考えてこなかった人々だ。
 東電が発表することは測定とか、検査とかばかり、それもまったく不要とはいわないが、そんなことばかりではいかにして事故を収束させるかの具体的な方策がないといわざるを得ない。知恵なく、勇気なき人々よ。現場で働く労働者のことを考えればまったく申し訳ない限りである。
 そして政治家たちは本当に何をやっているか。内部分裂で争ってばかり、放射線音痴で法律を決め、指令を出せば人が動く。そんなことで事故が収まるか。
 一般公衆はやたらに不安と恐怖を覚える。逃げ回るだけでは将来は開けない。良識による判断が今こそ必要だ。情報だけを提供すればよい、判断はそれぞれにという状況ではない。科学は誤差を伴う。医学はさらに個人差が大きい。断定して外れれば裁判にかかって敗訴する恐れもある。はじめからそう断わって話しても攻撃される。それでも誰かがいわねばならぬときが来る。

遠近眼鏡

2011-06-03 19:36:08 | 哲学
6月3日
 国会は荒れている。ご存知のとおりの菅総理退陣問題である。民主党内で野党の提出する菅総理不信任決議に賛成ないし欠席する議員が多数いて、可決する勢いだった。それを事前に鳩山前総理が菅総理と会談し、鳩山氏の条件を菅氏が承知して早期辞任に決し(両者受け取り方に微妙な差があった)それを菅氏が両院議員総会で報告して、民主党は野党の決議案を否決したのである。しかし菅氏の辞任時期が曖昧で来年まで粘るような気配なので鳩山氏が怒った。今後の展開は一寸先は闇の状態である。 私は菅氏を全面支持しているわけではないが、素直に考えれば、菅氏が首相としてこの国難の後始末にめどをつけたいと固く思い定め、早期の退陣には応じたくない気持ちは当然である。責任者があっさり職を投げ出す悪い前例は鳩山氏自ら示したところである。自民党にもつい先頃2人もいた。鳩山氏の仲介はあるところまではよいが、それから先はお坊ちゃんの思い込みが多分にあると言わざるを得ない。仮にも一国の首相に進言する態度ではない。前任者の長老的勧告にしてはちょっと行き過ぎだった。
 それにしても菅氏はなぜこんなに嫌われるのだろう。説明不十分にパッと思い付きを言う、そのものの言い方が気に入らないとは、あまりにも感情的過ぎはしないか。国会議員の討論を聞いていると、胸が悪くなるような話ばかりで聞きたくない。この大災害のあと苦しんでいる人が満ち溢れているのに、何という不見識だ。近くばかり見て、遠くを見ない人たちが感情的に物言いをする。多数の近視眼の小物たちには近眼鏡がいるが、遠望をしっかりものにする、遠眼鏡は真の大物に差し上げたいものだ。