一生

人生観と死生観

いのちの泉

2009-10-31 19:31:47 | 哲学
10月31日 晴れ後薄曇
 今日はハロウィン、宗教改革記念の日だ。ルターが戦ったローマのカトリックは世俗に堕し、キリスト教なのに地の塩らしくなくなった。
 しかしルターらプロテスタント教会も分裂に分裂を重ね、今日に至っている。人の和や統一というものはなかなか実現困難だ。
 鳩山首相が友愛政治を説くのは結構なことだが、現実には国民新党と社民党の主張に配慮しなければならず、意見の統一には程遠い。人の心の原点に立ち返る必要があるのだが言うは易く実行は難しい。いたるところに障碍はあるがそれを乗越えてこそ人は人らしい生き方の実現がある。
 いのちの泉は地から湧き出ず、天から降り注ぐものらしい。

ブログと本音

2009-10-30 20:39:27 | 哲学
10月29日 晴れ
 このところ晴天が続く。秋晴れらしい空。上なる恵みを感謝して受け取る。
 ブログの特質は何か。考えてみる。ブログは広く日本中に繋がっている。日本語が読める外国人にさえ開かれている。その意味で非常に対象が広いPRの手段である。
 ブログは相手の顔が見えないから勝手なことがかける。そのため自制心なく他人を攻撃できるが、いささか品位に欠け、無責任な態度になることが危ぶまれる。
 ブログの世界は日記の延長でもありうる。日記ならば種が尽きるということはない。身辺雑記を綴ることもできる。気楽に自分の世界を展開できる利点がある。
 ブログは自分の世界にのみ閉じこもるのではなく、他人と交流することによってさらに世界観を広めることができる。ブログ交換ということも親しい友との間に成立させる可能性もある。
 おお、ブログよ!君の将来性は限りない。

自己嫌悪の由来

2009-10-29 17:56:56 | 哲学
10月29日 晴れ
 人間の自意識はどうして生ずるか。恐怖?叱られて萎縮?褒められて得意になる?俺が俺がと出しゃばりたい時の?そんな生得的な自意識もあろうが、あの有名なデカルトの純粋自意識ーわれ思う、故にわれありのような徹底的な自己省察からのものが思い出される。
 自意識から自己嫌悪に飛んでみると、自分を鏡に映すように客観的にみてそこに好悪の感情を重ねるのだと思う。自分の声は自分で聞くときは他の人が聞く声と同じではない。変調が起こっているからだ。テープやCDで自分の声を聞くとそれが分かる。今日はCDでそれを体験。変な声だし、間延びしすぎる。4、5年前の交通事故の所為で頭の回転は遅くなったが、愚かになったわけではないから許してもらおう。ただ時間の制約があるときは他の人に迷惑だ。今日はそんなことでチョッピリの自己嫌悪。終わり。

人間の哲学

2009-10-28 17:05:28 | 哲学
10月28日 晴れ
 人は霊長類としてチンパンジーなどと共通の祖先から分かれたといわれる。知能に優れた人は環境に適応するばかりでなく、環境を自分の都合の良いように作りかえる 
ことさえ実行して、今日の文明社会を作った。それは人の優れた点と思うかもしれないが、しかし一方からみれば全世界、全宇宙の立場からははなはだ小さい営みに過ぎない。人がどのように努力しても大自然の偉大な力に及ぶことはないのであり、人間は謙虚でなければならない。人間は共同生活で人と人との共生をしっかりとおこなうようにつとめてきた。個人の創造性を尊重する一方で、社会全体としての調和につとめているのだ。個と全体は互いに持ちつ持たれつの間柄でなければならないのだ。時を経て人は自省し、より良い個を磨き、そしてよりよい社会を目指す。この際人は自分の限界、つまり人は誰も永久に生きることはできないことーMan is mortal を自覚し、この卑小な人間に注がれる上なる存在ー絶対者の愛を認めてこそ本当の健全な発展を遂げることができるのだと私は思う。

子に先立たれる親心

2009-10-27 17:30:49 | 哲学
10月27日 晴れ
 台風は世の間に過ぎ去り、晴れが戻ってきた。10月も末になると台風の後は不思議な晴れ間で、なんと形容したらよいのか迷う。この日私は2通の便りを受け取ったが、どちらも子に先立たれた親の心情を表わすもので、一種のシンクロナイズ現象のようにも受け取れるのであった。一通のハガキはI先生からのもので、53歳のご子息を失われたよし。先生自身は80歳をとっくに過ぎたご高齢、脳梗塞のために体が不自由な身であった。そこへ訃報がやってきたのだからさぞかしこたえたに違いない。息子を天に送る経験をして10年、今でも忘れられない私たちである。
 もう一通が実は私がある本の一部に執筆した文章のゲラ刷りだった。そのテーマはまさに世を去ったわが子のことであった。I先生の文章の中には一寸そのことに触れてあったが、私は少しびっくりした。2通がこんな風に同期するなんて。
 親思う心にまさる親心今日の便りをいかに聞くらん
だったか、吉田松陰の処刑、辞世の歌の心に響くひと時であった。

有難い提言

2009-10-26 21:15:08 | 哲学
10月26日 雨
 台風近付く。風雨強く、荒れる。
 いのち像の扱いまだ決まらず、県からなんの連絡もなし。県知事は今度の選挙に勝って、2期目に入る。今まで冷淡だった教育や福祉もやるとテレビで発言。トヨタ誘致だけでなく、こちらも本気でやらなければ、県民が泣く。いのち像はそれ以前の人間として果すべき義務であろう。
 Y氏と電話連絡取れる。彼からは激励の言葉が出る。いのち像については多くの人ガ同情してくれるのは有難い。県との問題の核心に迫るには工夫がいる。日野原重明先生と面会の可能性について明日は一寸無理。それにしても有難い提言であった。今後も良い方向に行くように祈る。

もし訴訟を起こすとしたら

2009-10-25 21:32:51 | 哲学
10月25日 晴れ後曇り
 頭の中の立ち上がり消えてまた立ち上がる想念。君はもし生涯最後の大仕事として訴訟を起こすとしたら、どうする?常識人なら訴訟でなく別の手段、例えば政治的手法などを採用し、結果として安上がりの妥協などで終る、その手法でよしとするかも知れない。相手を困らせるだけなら訴訟のほうが効果的だが、新聞人を味方につける必要があり、相手の出方も見なければなるまい。個人対個人の場合と違い相手が大きな組織のトップの場合はさっぱり困らないとすると、騒ぐだけ損なのはこちらだ。馬鹿馬鹿しいとなり、考慮に値せぬか?勇気と向こう見ずの暴勇は異なる。アメリカ型の訴訟社会に向かいつつある日本ではあるが、節度を知る人間になれと教えている立場からは、訴訟は余り誉めたことではない。
 妄念を助長するより健全な良識をとるべし。

認知症の顔と希望ある顔

2009-10-24 09:30:23 | 哲学
10月24日 曇り後晴れ?
 女優南田洋子逝く。若いときの美貌とは打って変わった老齢、認知症顔になっていた。年をとれば顔に現われ、知性の衰えは隠せない。認知症は残酷だ。
 しかし希望ある人の顔はその希望を宿す。そのようにありたいと願う。

夕日に向けて

2009-10-23 21:01:13 | 哲学
10月23日 晴れ後曇り
 このところ秋晴れの日が恵まれている。一日中は続かないがとにかく秋を満喫できるのはありがたい。
 80歳を過ぎたことだから余り多くの仕事を背負わないようにしたい。草臥れるということだけではない。取りこぼしが多くなるからである。記憶の倉庫から物を取り出すスピードも鈍ってきたことを自覚し、無理な義務を己に課すことはできないと覚る。あの知識人の鑑のような加藤周一でさえ『夕日妄語』という題で評論を書いたが、若いときに比べて衰えは隠せない。またそれが自然というものだ。
 しかしワクチン禍は私の生涯のテーマである。簡単には卒業できないが、幸いにも若い層が育ってきた。それらの人々に後事を託する準備もしなければなるまい。夕日に向けて静かな時を過ごしたいものだ。

思い余って

2009-10-22 15:31:24 | 哲学
10月22日 晴れ後曇り
 穏やかな日。秋も深まりゆく様子だ。11月3日に仙台市の歴史散歩をやる予定で、そのころお天気がどうなるか。例年安定した気象状況だから、それほど心配はしていないが、気にはなる。
 さてインフルワクチンの接種について朝日の「声」欄や「私の視点」でもいろいろ意見が分かれている。母里啓子さんの意見は新型インフルエンザは季節性のものと大して変わらないものだから、効果の乏しいワクチンを推進するのはおかしいということ。しかも事故つきだからそれを配慮すべきだという。もっともなことだが、反対意見は事故を恐れたら何もできないとして、接種賛成。いささか短慮に過ぎると思われるが、事故の実情を知らない人はこんなものだろう。強制すべきではなく、任意の範囲内でということに落ち着く可能性が高いと私は見る。
 私も思い余って議論に参加してみることになる。
 それにしても効果のないワクチンを信じる人が多いのは困りものだ。はっきりしたデータを示せると良いのだが、それももろもろの条件に支配されて変動し、何が何だか分からないという結果になる。結局それぞれの人が工夫してよい予防法を見つけることか。私の本に書いた予防法は生活習慣的なものだが、それを多くの人が試してみると良い。