一生

人生観と死生観

さらば8月

2008-08-31 13:05:30 | 哲学
8月31日 曇り
 今日は8月月末。8月は行事の多い月である。しかし後半からは傾く急傾斜の上をすべるように秋に向かって一直線に進む。蝉の声もややまばらになり、種類はカナカナ蝉やツクツクボウシに移行する。朝の散歩では肌に心地よい涼しささえ感じられるのだ。
 日本人にとって大変大切なこの月、なんといっても310万のあの戦争の犠牲者の慰霊のための正統な施設を決めることさえままならず、63年を漫然と過ごしたのは遺憾の極み。河野衆議院議長の言うような超宗派的なものができればよいが。
 靖国神社が新生日本の象徴である資格は大いに疑問だ。日本神道は侵略戦争を肯定し、多くの犠牲者を国内国外にだしたが、それについて公式に反省したことは一度もない。多神教の教義を定義する神学的深みも感じられず、ただ旧来の陋習〔悪い習慣)に頼っているだけではないか。
 8月よ、来年もまた拝顔できるよう、私も健康に留意したいものだ。
 

lofty Ambition? アメリカの挑戦

2008-08-30 11:58:35 | 哲学
8月30日 曇りのち多分雨
 アメリカ大統領選挙戦は民主党オバマと共和党マケインの決戦へと大変にぎやかになってきた。歴史的意義の大きいのは黒人のオバマが当選することであるが、政治の現実は、どんなに理屈を述べても、何が起こるか分からないからこそ政治なのである。オバマが選ばれることはアメリカに理想主義が存在し、躓いたり、転んだりしながらも、ともかく理想に向かって進んでいることを意味する。だからアメリカは面白い、一方でアメリカは雑多な人種の混合であり、善人も悪人も行動の自由を持っている。そんな中で現実的な判断も優先され、共和党ではオバマに対抗するマケインはベトナム戦争の生き残りの勇者として登場し、中道寄りの言動で有権者を惹きつけている。風貌もなかなかの魅力あるものである。
 アメリカに建国の頃の理想主義や lofty ambition が残っているならばどの候補が大統領にふさわしいのか。選挙の行方を見守らなければならない。
 私はストレートにオバマが勝てば大変よいことと思うが、一抹の危惧も心のうちにあることを告白せざるを得ない。アメリカが理想を高く謳うとき、歴史的に闇の勢力が台頭し、暴力に訴えてでも理想を阻止しようとする。政治家は命を祖国に、そしてアメリカのような超大国にあっては、人類に捧げる覚悟を持たなければならないのだ。

苦難を越えた民

2008-08-29 12:59:42 | 哲学
8月29日 曇り一時晴れ後雨?
 イスラエル共和国の女性化学者・化学史家Yさんが来訪するとのことでアレンジのため東北大学の関係部局に電話など。
 イスラエルは第二次世界大戦後現在地に建国して以来60年、多くの問題を抱えながら歩んでいる。周りのアラブ系諸国との関係は、エジプトを除き、最悪である。宗教が違い、経済や科学技術発展の程度も違う。異質の民が新参者として入り込み、大きな顔をしているととられて、ますます憎まれ、緊張が高まっているという事態だろうか。平和はいつ来るのか、旧約聖書の預言者イザヤの平和の予言はいつ成就するのだろう。
 この民族は不思議な人たちである。数千年前のエジプト脱出以来の苦難は数知れず、王国建設の後、バビロン捕囚を経験し、さらに2000年前にはローマ帝国に反抗して国は滅び、民は世界中にちりじりに散らされた。第二次世界大戦中ナチス・ドイツの迫害に遭い、600万ばかりの民が殺された。それで大戦後は人々の同情が高まり、現在地に建国することができた。2000年の放浪の後の故里への帰還である。驚くべきスケールの歴史がこの民にある。
 この民はノーベル賞受賞者を輩出することで知られる頭のよい人々だ。勘がよく、先が見える。己を信じて周りの人と簡単に妥協しない。先祖以来のユダヤ教の教えを頑固に守る教師たちがいて伝統を子孫に伝えている。私はニューヨークの証券取引所のあたりで夏の盛りの時も黒いユダヤ教の衣服につつまれたユダヤ人を目撃した。彼らは金銭の取引も神の赦しによって正しく行おうとしているのだそうだ。律法遵守は彼らにとって生死の問題なのだ。
 Yさんは化学者であり、化学史家であるほかに、詩人であり、経営工学を専攻し、女性運動にも関わっているらしい。多面的な活動家である。苦難を越えた民に神はいろいろの才能を与えられた。これは良いクリスチャンの場合にも時として観察されることである。

歴史としての科学

2008-08-28 12:26:40 | 哲学
8月28日 雨
 ゴーという音とともに烈しい雨となり、暫くして止む。時を置いてまた同じことの繰り返し。季節はいよいよ移りつつある。
 さてギリシャの昔、哲学のようだった科学があったことは多くの人の知るところである。エンペドクレスの元素、デモクリトスの原子、これらは空想的だがギリシャ人の知恵の栄光を表すものである。
 近代の科学は宗教との戦いから始まったというと少し過激だが、あのコペルニクスの天動説をガリレオが支持し、宗教裁判でひどい目にあった。聖書の教えと反することをいうのは異端として裁かれた。しかしガリレオの後継者たち、ニュートンのような人は近代科学を推し進めながら聖書の信仰は固く持っていたといわれる。そもそも聖書は人の作ったものである以上、その根本は神に根ざすとはいえ、絶対に誤りがないとは言えない。基本的に信仰は科学とは別次元のもので、科学をもって神を否定することはできる筈がない。
 その後、ダーウィンはビーグル号の航海の経験ー特にガラパゴスの島の生物の観察から、あの生存競争ー適者生存を軸とする進化論を世に問うた。これが今日の生物学の基調をつくった。そして進化の概念は他の学問分野でも重要なものとなった。しかしご存じの通りアメリカなどでは進化論を認めず、学校で教えることを禁止する州さえある。聖書の教えに反するからという理由である。ガリレオの時代がまだ続いているかのようだ。前述の通り科学でもって信仰を否定することはできないから、宗教者はもっと寛容であるべきだし、聖書に立つといっても人の作った聖書を絶対視することは不健全である。ダーウィンは神を否定したことはなかった。
 こうして書くと科学の歴史は社会との深い関わりを持つものであることが実感できる。さらに近現代の相対性理論や量子力学の登場は大変ドラマチックである。相対性理論は時間を含む4次元世界を想定し、光速に近い世界では時計が遅れ、浦島太郎現象が現実のものとなる。量子力学では粒子とエネルギーの境が薄れ、トンネル効果で壁を滲みだす粒子が現われる。物理学者は理論の展開に熱心に取り組むが
この世のすべてのことを解決する自信はもちろんない。
 科学は進歩し、それ自身の歴史を作ってゆく。その行方は大変興味があるが、何処で何が待っているのか誰も的確には答えられないだろう。

異国で殉職?いのちの尊厳

2008-08-27 22:06:22 | 哲学
8月27日  晴れのち曇り
 仙台より帰る。アフガニスタンで活動中のNGOペシャワール会の日本人農業指導者の青年が、タリバン側に襲われ射殺されたというニュースが入ってきた。遺体が発見され、周辺の人たちは彼に間違いないと証言しているそうだから絶望的といえよう。
 日本の若者が危険を承知でアフガニスタンに行き、戦乱に苦しむ現地の人のために尽くす、それは美しい行為である。彼は現地の人からも信頼され、これからもいっそう仕事に励むつもりだったのだろうが、イデオロギーに凝り固まったタリバン側には異質な外国人が余計なことをするくらいにしか思われていなかったのであろう。
 鎖国下の幕末、開国を迫る外国に対して尊皇攘夷の旗印を立て、外人を排斥し、切り捨て御免の態度をとった武士たちのことが思い出される。
 犠牲となった青年はまことに惜しいいのちをかの国に捧げた。いのちの尊厳は限りなく、彼の行為はかの国で永く、永く、語り伝えられるだろう。しかし歴史の方向は人種や民族の垣根を越え、イデオロギーの締め付けさえも克服して、平和と真理が実現するよう進んでゆくものと思うのだが、それは忍耐のいる長い道のりになる。簡単に諦めてはならないだろう。

秋の気配

2008-08-25 09:16:49 | 哲学
8月25日 雨
 今日これから、仙台に行き朝日新聞の記者のインタビューを受けることになっているが、何しろ今週のことは何時までたっても不得意かつ不慣れだ。
 雨がちで、気温も上がらず、ひところの暑さは何処へやら、木の緑がいとおしい。日本の秋はすぐ其処。人の心が落ち着く日々に恵まれてあれ。

集団主義と個人主義

2008-08-24 12:21:09 | 哲学
8月24日  曇り
 スポーツの祭典オリンピックも今日をもって終る。8月8日以来長かったようにも、また見方によっては呆気なかったようにも思われるが、何よりも喜びたいのは大きな事故もなく、妨害等の混乱もなく進行したことである。
 さてスポーツは個人のレースと集団のレースがあるのだが、体力に差がある中で、日本人は欧米人やアフリカ系の人たちに比べて特技を生かしたやり方で競ってゆくほかないように思う。
 国民性からいって個を顕わすよりは、むしろ個を抑えるように振舞ってきた日本人は、どちらかというと集団主義の中での活躍が期待されていたと思う。もちろん傑出した記録をもつ人は個人として表彰台に立って欲しいが、集団としてすぐれたまとまりを示すことが日本人の本領であると思われる。
 ただし集団主義はこれからの世の中で偏重することは出来ないのも事実であろう。集団の中で生きる個性を「出る釘は打たれる」式に抑えつけてはならないのである。その個性を育て、集団がその個性に従うくらいにやらないとすぐれた成果をあげることはできないのではなかろうか。
 個人の特技を育てるための方策はいろいろあろう。すぐれた才能の芽を早くから発見し、計画的な訓練を施すこと、ときには個人の自由な発想を許し、極限に挑むことが必要となる。
 科学技術でも同じことが言えるかもしれない。

無常観について

2008-08-23 10:51:48 | 哲学
8月23日 曇り
 「処暑」の日、朝は涼しく、夏の装いでは出かけられない。晩夏ここに至り、秋に交替の季節。
 さて、同期の友から葉書があったのだが、数年前から体調を崩し、左半身不自由で、杖をついて生活しているよし。元気だったかっての日を偲び、感慨しきりであった。私などはまだ良い方かも知れぬ。ブログを書いて本を出そうという気力はあるのだから。
 6月に亡くなった一柳君も79歳はまだまだ活動できる年齢だったのに惜しい。無常の風が吹きまくる。
 無常とは仏教的な世界観、人生観であり、平均的な日本人を支配してきた。西洋文明を受け入れるようになった明治以来、キリスト教の伝道はこの無常観や輪廻の思想の壁を越える困難に直面し、なかなか成果をあげることができないのである。
しかしよく考えてみる。本来の生とは何か。生命の神秘というが、あまりにもよく出来ている生命の仕組みを見るだけでも、この世界はいい加減なものではなく、創造の息吹が感じられて粛然とするのだ。生きるとは本来喜びであるべきだ。生きる喜びは創造者に向かってこそ永遠的になる。キリスト教でいう永遠の生命とはこの世の無常を越えて、永遠の世界に向かって花開くものである。

蝦夷とアイヌ

2008-08-22 14:47:41 | 歴史
8月22日 曇り
 今日届いた雑誌を見ていたら、相当有名な科学者でエッセイの名手と言われる人が蝦夷とアイヌを混同している記事があった。捨て置くべきでないと考え、次のような手紙を書いた。
 I先生 いつも先生のお書きになるエッセイを楽しく読ませていただいております。今度の号は随筆「アイヌとアボリジニ」でありました。御主旨はよく分かり、参考になるもので、オリンピックの開催されている今、少数民族の問題はやはり今後人類が正しい解決をしてゆかなければならない課題だと思うのです。その意味でタイムリーなエッセイであったと思います。
 ただ一カ所気になるところがありました。「藤原清衡は、自らをアイヌの子孫と称していたという」とあります。このアイヌは蝦夷の間違いではありませんか。平泉に北方の都を築いた清衡は母親が蝦夷の王者安倍氏の出で、安倍氏は前九年の役で滅びましたが、安倍前首相の先祖は辛くも生き延びてその子孫が今日に至りました。
 蝦夷とアイヌはよく混同されますが、同一ではないのです。
 アイヌ語を話すアイヌ人の起源ははっきりしません。沖縄人との類似があるともいわれ、また北方から来たのではないかという考え方もあり、混乱しているようです。日本の考古学、人類学ではまだ完全には解けていません。
 蝦夷は何なのかということすら本当にすっきりした答えがない日本は後進国のようでお恥ずかしいものです。ただアイヌそのものでないことだけははっきりしています。安倍氏は津軽地方に逃れた子孫もおり、それが安藤氏、秋田氏、相馬氏などの支流を生んでおります。伝承では安倍氏は日本神話の神武天皇に敵対したナガスネヒコの子孫とあり、秋田県の物部神社にその伝承を裏付ける資料もあるそうです。アイヌは文字を持たず、安倍氏はそうではありません。文化的に相当すぐれた氏族だったと思います。
 東北地方に住んでいたのはアイヌばかりでなく、沿海州〔ロシア・シベリア地方)からの渡来民や出雲地方から船でやってきた人たち、さらには中国の戦乱を逃れてきた民もいたといいます。これらは狩猟専門ではなく船を操る海の民の要素が強いと思います。東北大や山形大の研究者はその考古資料を持っていると聞いたことがあります。安倍氏の先祖はこれらの民を統一して「日高見の国」を建国したというのが最も事実に近く、これが蝦夷の実態だろうと思います。
 先生の文の主旨は先住民の権利を認める世界の流れに日本もようやく乗り出した、それは「喜ばしいことである」ということで同感ですが、私としてさらに言えば、日本の国が「蝦夷」ーすなわち「日高見の国」の歴史的存在を無視せず、学問的にも明らかにする努力をすること、それが文明国家に相応しいことだと思うのです。(以下略)

足るを知る

2008-08-21 22:03:55 | 哲学
8月21日 晴れのち曇り一時雨
 「足るを知る」ということは簡単ではない。いろいろな欲望渦巻く青年や壮年の者にとってはとくにそうだろう。この言葉は東洋的で消極的ととられやすい。しかしキリスト教初期の伝道者のパウロがこの言葉を使っていることを慮ると、人の精神状態のひとつの極致を表しているとも思える。
 逆に足るを知らぬところから人間のもろもろの悲劇が生じる。破滅に至る道はほんの一寸したところに始まる。浅はかな思いでこの程度はいいだろうと甘く考え、行動するところから失敗の深淵が始まるのである。理性的な性格の人でも周りの影響でついつられて欲得の道に走る。初めはよいが後で矛盾があらわになり、ついにどうにもならなくなる。
 日本の借金は700兆とか800兆円とか言われている。足るを知らなかったところから始まったのだ。首の回らぬほどの借金は、はじめの心掛けが悪かったところから出発した。これを見通した人が当時どれほどいたであろうか。