一生

人生観と死生観

死は新たな生命への誕生

2011-05-30 21:13:30 | 哲学
5月30日 雨時に曇り
 先日の日曜日5月22日朝、岩手県大船渡市の医師の山浦さんのケセン語聖書についてのNHKの教育TV放送があり、これを製作した大船渡印刷の熊谷氏も登場した。その放送の再放送は5月21日(土)午後にあった。私はこれらの放送を視聴した。大船渡は東日本大震災の被災地で、山浦氏も熊谷氏も被災した人たちである。この人たちのドキュメントが見るものに大きな感動を与えた。
 二人はカトリックの信者であった。とくに山浦氏は地元気仙地方に福音を伝えるために、方言のケセン語で聖書を翻訳し直した。これは福音の土着化ということできわめて大切な試みだと思う。ローマ法王にも翻訳は献上されたという。日本でも強い反響があったそうである。山浦氏は80歳をとっくに過ぎた老医師ながら、その霊性は冴えわたり、口から出る言葉はひとつひとつ感銘深いものがあった。かれは言う。多くの人が大津波の犠牲になった直後の土地で絶望するただなか、「わかれの悲しみの中で大きな慰めを見出す。」「死者は神の温かい懐の中に永遠の命によみがえる。」「死は新たな生命への誕生である。」「人と出会うのは偶然ではなく必然である実感をえた。」
 4月24日復活節の日は山浦氏はカトリック教会でケセン語聖書を使って説教台に立ち、神父や信者とともにイエスの復活をことほいだ。信仰を持つものは強い。遠くが見えるからであろうか。死をさえも超えた未来が。

丁寧な説明とは

2011-05-28 01:49:11 | 哲学
5月28日
 昨日の文部大臣の発表。小中学校生徒への放射線被曝の限度を20ミリシーベルトから1ミリシーベルトを目指すとした。国際放射線防護委員会ICRPの基準に沿ったものであることを明らかにした。前の発表と実質は変わりはないのだが少々丁寧に説明しただけである。ICRPの基準とは三段階で(1)平常時は年間1ミリ以下、(2)緊急避難時100-20ミリ、(3)復旧期20-1ミリ とする。これは基準だから実情に応じて詳細は各国で決める。文部省もぼやぼやしていたから、(1)に対応することを見逃してしまった。学校からの要望でやっと基準を出すことになり、原子力安全委員会で討議して(3)の段階の上限値20ミリを確か官房長官が発表したのだ。これがぶっきら棒に聞こえたのはご存知のとおりである。安全委員であった小佐古という東大教授はテレビで泣きじゃくって上限が高すぎると訴えた。辞職に至った腹いせのようだ。しかし委員会は本来ICRPの基準に従った、というより丸呑みしただけだから、小佐古氏の言うことはもっともだがそれはICRP勧告(3)の範囲内として大まかな範囲20-1ミリをそのまま採用し、上限値から計算して(分かりにくい計算であった)毎時3.8マイクロシーベルトを学校の基準にしたのである。この辺の説明がさっぱりなかった。丁寧な説明が求められていたのである。今回の文部大臣の説明でようやく毎時3.8マイクロシーベルトが年間20ミリシーベルトから来たことがはっきりした。家内は文部大臣を賞めていた。私は何だ当たり前じゃないかと思った。
 そもそもICRPだって丁寧な説明をしているようには見えない。緊急時はそれこそ大変なパニックも想定せねばならないほどの大事故にさいして20-100ミリをとり、それがおさまった過渡期(復旧期)に対して20-1ミリをとる。完全におさまれば1ミリ以下となる。過渡期は1ミリを目指しての行進と見てよいのだ。全体として3段階のマーチというわけだ。何故か日本では緊急時を省略して過渡期からはじまった、変なマーチではあった。

震災盲腸とは?

2011-05-22 22:11:34 | 人生人間
5月22日(日) 曇り後雨
 朝宗教の時間は5時から6時。早起きして岩手県の三陸海岸大船渡市の聖者山浦氏の放送をTV で見る。氏はケセン語聖書を翻訳してローマ法王に献上したことで一躍有名になった。地元の人々に寄り添い、医者として働くかたわら、聖書の翻訳につとめた。飾らない素朴な態度が本物のキリスト者であることを思わせる。この人を支える印刷出版所の社長は熊谷氏だが、熊谷氏の会社は津波に流され、大変な目にあった。しかし聖書の包みは残った。開いたところそれほど傷んでいない。一冊を取り出した熊谷氏はこれを誰か求める人に送りたいという。ひどい目に逢ってかえって人間としてひと周り大きくなったかのよう。愚痴ではなく、裸になって一からはじめる。神はこのような人を決して見捨てないだろう。
 さて朝の夢はなかなか面白い。震災のさなかいろいろ心配事が重なるとお腹がしくしく痛むことがある。これを震災盲腸と呼ぶことにした。震災盲腸の人は被災地の方々に出る。それは本当の病気ではなく、心理的な作用が影響している。あまり心配はいらない。神を信じて苦難の中から立ち直る人は震災盲腸にかかりにくい。

怒るだけではどうにもならぬ福島

2011-05-20 23:02:51 | 哲学
5月29日 晴れ
 下手な英語を書いてしまったが今更後悔したとてはじまらぬ。もともとブログは習作と思って書くから気楽過ぎて間違いを犯す。反響も大きいことはほとんどないから、読者がいるとすれば申し訳ないが、とにかく書ければいいやとなる。
 しかし重要なアイデアのかけらもひらめく。
 福島の事故はひどい。原因は原子炉だから、東京電力憎しとなる。怒りは頂点と知事も市長も言うが、しかし現在進行形の後始末には何の役にも立たない。そのためにどうするかアイデアを出せということだが、世界はじめてのタイプの原子炉事故だからそもそも難しいのだ。菅さんいら菅といわれたことがあるが今は大分忍耐強い。しかし東電にはかなり強く当たっているようだ。東電の技術屋たちは焦ってかえって頭が空っぽになっている。東大工学部出身という経歴も役立たず。
 そこで私が大事なアイデアを出してあげたのだ。
   「水棺をもう一度より大きく考え直せ。水棺プールしかないようだ。」
 用心深い東電幹部は気がついているかも知れないが日本人の反応を測りながら、今は解決にならない調査みたいなことをやっているばかり。しかし解決のアイデアをそろそろはっきりさせなければならない。水棺ダムとまでは行くまい。水棺プールで満足しよう。そこに将来が開ける糸口がある。

Water coffin pool for Fukushima nuclear power plant accidents

2011-05-20 03:52:09 | 哲学
May 20,2011
I propose a good solution plan for the sivere accidents of Fukushima nuclear power plant in Japan. This could be useful to give ultimate solution for the accident, but details should be corrected by several specialist people in
divers science and engineering fields.
Water coffins for broken reactors once considered by TEPCO(Tokyo Electric Power Company) and abandoned because of
damage of their water cooling system. However, its solution is very simple. A larger water coffin should be constructed so that the whole broken reactors are covered by water, just in a water pool.
Outside of this water pool at least double tall surrounding walls should be placed. These wall areas are for defence against water leak from the pool. And wide area of about 2 miles diameter should be made just like a park which forbid entering of people permitted.
Before constrauction of this water pool coffin, ground level should be well scruntinized to avoid water loss into the Pacific Ocean.
This is my plan. Please give your opinions.

天野国際原子力機関事務総長との交信

2011-05-19 22:29:49 | 哲学
5月19日 晴れ
 今日思いがけなく国際原子力機関(IAEA)事務総長の天野行弥氏から返信があった。私が代表として彼に送った手紙に対するものである。
 私の手紙の要旨は以下の通り。
 日本の原子力安全・保安院の4月12日発表で福島原発事故をIAEAの事故尺度INESによるレベル7にランク付けした。IAEAのこの尺度は事故による放射能放出の量に従ってレベルアップするのだが、放出量があるところ以上では桁が上がってもすべて同じレベルとされてしまう。これはおかしなことで、INESそのものの不完全性を表わしている。現在のINESによれば福島事故はチェルノブイリ事故よりはるかに小さい事故なのに同じレベル7になってしまうのはおかしい。INESを早く改正すべきである。
 これに対する天野氏の返事は大変丁寧なものであった。本年7月にINES助言委員会が開かれる。それに私どもの意見をのせる可能性を示唆してくれた。一歩前進、今後を期待する。
 この件は学会のニュースに載せることが依頼されている。

結局大きな水棺ダムか?

2011-05-17 11:18:16 | 哲学
5月17日 曇り
 今日本を覆う妖雲は福島原発から発し、人々とくに周辺の何の罪もない一般人を苦しめている。いわき市に住むものとしては避難を指示された人たちの不安と動揺に深い同情を禁じえない。ただしいわき市民はしっかりと働いて復興のために元気を出し、力を出してこれらの人々の助けになってもらいたい。
 昨日も記したように、東電の壊れた原子炉をどうして冷温停止状態にもってゆくか、道筋は立っていないのが現状だ。アメリカもフランスも何も言ってくれそうもない。東電の担当者は水棺の可能性を検討していると言ったそうだが、これに対して危ぶむ声もあって、容易に立案実行できるとは思えない。批判者は批判だけするが、ではどういう代案があるか何も言わない。これも無責任というものだ。
 私は原子炉工学には素人で発言は控えてきたが、こうなれば私のアイデアを言ってみる。水棺が駄目ならそれより大きい構造物を作って冷やすのだ。言ってみれば水棺ダムというようなものだ。仮に言えばコンクリート1-10メートルの壁を作り、その外に数十メートル(ダム専門家に聞くこと)の土の構造物を堤防として築く。これより外少なくとも1-3キロメートルは記念公園として居住禁止、強い樹木を植え、外周に四季折々の花を咲かせる。アイデア不足の東電および原子力安全・保安院はしっかり検討してみることだ。

原発事故と法治主義

2011-05-16 22:07:10 | 哲学
5月16日 晴れ後曇り
 東京電力福島第一原子力発電所の原子炉事故は一向におさまりそうもなく、長期化するばかりだ。難航に難航を重ね、よい知恵も浮かばないらしい。助けてくれるはずのアメリカもフランスも近頃さっぱり名前さえ出ない。毎日発表はあるが解決への決定的な道は見えないままだ。といって特別悪化しているわけでもなく、こう着状態というのはこのようなことを言うのか。制御不能に陥った暴れ馬だが、まったく困った事態である。世論は原発全廃に傾きつつあるが、原子炉を廃炉にするという方向の困難さも承知していない大衆の感情的な意見にただ引きずられるのではいけないだろう。徐々に原子エネルギーからの転換を図るやり方が賢明であろう。それにしても国の官僚たちが福島の小さな村や町の人たちの避難を一方的に決めるやり方は当事者にとっては迷惑千万である。今頃避難というのは変な決め方で、もっと早い時期の決定がなされていなければおかしいとか、目と鼻の隣の町が何故避難しなくてよいのか線引きの理由が分からないとか、住民の不満はもっともな点が多い。官僚にすれば法治国家である以上法律に従って決めなければならないというだろうが、悪しき法治主義というのは昔からある。小役人が下々の民を虐めるスタイルが今も繰返されているようで残念だ。


いのち像の新しい歌

2011-05-12 19:34:40 | 人生人間
5月12日 雨
 みちのく仙台に建てられたいのち像は東日本大震災の災害にも耐えて、いのちの杜の中に静かにたたずんでいる。その愛らしい姿をみて、いのち像よ永遠なれの願いをもつのは自然の情というものであろう。仙台在住の詩人吉田秀三氏はこのたびこの像に寄せるコーラスのための歌を私のもとに寄せてくれた。ありがたいことである。作詞吉田秀三、作曲田津新一、なじみやすそうな歌詞と曲にみえる。
             「アンナのうた」
 みどりのはるかぜ|さわやかに|かわいいアンナ|やさしいアンナアンナ|いのちのうたを|うたおうよ                                        いのちのうたを|うたおうよ
 かがやくあおぞら|とりのこえ|かわいいアンナ|やさしいアンナアンナ|いのちのゆめを|つくろうよ
                               いのちのゆめを|つくろうよ
 もみじのほっぺも|まるまると|かわいいアンナ|やさしいアンナアンナ|いのちのえがお|いちまでも
                               いのちのえがを|いつまでも
新しいいのちのうたを捧げる喜びを心から喜ぶ。 

健康とは身・心・魂の三位一体

2011-05-09 14:35:25 | 哲学
5月9日 はれ
 知識を振りまくことが哲学ではない。思索のための思索であってはならず、思索して他人にショーとして見せることであってはならない。思索することが思索者のいのちを養ってこそ真の思索なのだ。
 ところでいのちとは何か。自然界にいのちが現われたことは奇跡のようなもので、その発生の謎は今もって明らかでない。明らかでなくてもいのちはある。いのちは目に見える形では体をともない、体とともにあり、体を動かして生活し、死に至るまで体の中に住む。体が正常に働くのはなぜか、そのメカニズムは医学の研究の対象で、現在までに膨大な知識が得られている。それにもかかわらず、なぜそのような統一的な働きの有機体ーすなわち生物が存在しうるのか人は満足のいく答えを獲得してはいない。部分は分かっても全体を理解できないからである。
 大脳の生理学で体の末端をコントロールするメカニズムはある程度わかる。しかし心そのものの働きについては心理学の関わるところである。それは知・情・意のうっそうとした森林である。心にも一定の法則があり、支配の原理がある。それを完全に理解することは難しい。それでも心は存在する。心のない人間は考えられない。
 そして人には魂がある。宗教心の根源である魂は決して無視してよいものではない。人は動物と同じく、宗教なし、神なしでも生きて行くことはできる。しかしそれで満足し得ないようにできている。それが人の特性なのである。
 このように身体、心、魂の三者が人の存在に関わる。部分だけ見ておればとらわれた狭い生き方しか出来ない。ホリスティック医学というものがあるが、これらの三者の全体に立っていのちを眺め、疾患があれば全体として癒す。もちろん部分を治すことは全体の癒しにかかわるという。健康は身・心・魂の三位一体に立ってまっとうされる。
 科学は部分を担うものであるに過ぎないことを自覚する必要がある。そうすれば科学が真にいのちに役立つ道を見出すことになって行くのではないだろうか。