一生

人生観と死生観

理性と情念

2008-06-17 23:47:49 | 哲学
6月17日 晴れ
 人の存在は地球の歴史の中でほんの一瞬に過ぎないといわれる。にもかかわらず人間は壮大な思想を持ち、宇宙にさえ飛び出して探検をしようとしている。こんな生物は今までなかった。人間は理性と情念をもった存在であるが、そのバランスが保たれている間は幸福に生きていくことが出来る。理性は人間にいろいろな未来の設計を可能にし、情念はそれを支えて現実の歩みに彩を添える。
 分からないのはあの秋葉原の通り魔事件である。一見理性的な顔立ちの若者が狂った行動をして、7人もの何の関係もない人を殺した。理性と情念のバランスは完全に狂っている。追い詰められた状態からこんなことになったとすれば、彼を追い詰めたものは社会の閉塞状況か。それとも彼には狂気の素質があって自分自身を追い詰めたのか。やけっぱちになれば何でもやる、人間の精神の深層構造の恐ろしさはある。人が人とまともに対話を持たず、助け合いをしない社会は不健全と言わざるを得ない。

地震のなかで

2008-06-16 21:03:34 | 生活
6月16日 晴れ
 6月14日の朝、仙台に行っており、たまたま岩手宮城内陸地震にぶつかった。仙台のわが家の二階は大揺れであったが、本が本棚から落ちるほどでもなく、暫くしておさまったのでほっとした。それから地震の詳しい情報がはいるにつれ、震源地付近の被害は大変なものだと分かって愕然とした。死者、行方不明の人たち20名前後の数になると知る。中国四川の大地震といい、何か地球が怒っているかのような思いにかられた。被災した人々は気の毒なことである。
 地震、雷、火事、親父、怖いものの代表として言い習わされている。近頃は親父は怖くなくなったので竜巻でも入れようかというものがいるが、アメリカならいざ知らず、地球温暖化の途上の日本ではまだそこまではゆかぬ。怖いもののトップはやはり地震ということになろうか。

いのちの尊厳と充の生涯

2008-06-13 09:09:35 | 哲学
6月13日 晴れ
 今日は6月13日、我が家の二男充の命日だ。いつも雨がちな天候なのに晴れ上がって雨が降る気配もない。これから仙台に行きお墓参りだ。
 充のことは今まで何度か書いたが、もうこれで話が尽きるということはまったくない。彼は自分のいのちを犠牲にして多くのことをやってくれた。昨夜も夢かうつつか、彼がやったことを考えていた。彼の予防接種事故の折に、同様な症状を起して医者に担ぎこまれ、幸いにして回復したMさんのお嬢さんは、筑波大学医学部に進み、女医さんになった。充のことを思って、自分は命拾いをしたから、このような進路を選んだのだと言っていたそうだ。充の兄も医者になった。こうして周りに強い影響を及ぼした。それだけではない。予防接種禍の国家賠償の訴訟が社会にどのようなインパクトをもたらしたかは、今まで触れたからここでは述べない。ひとりの生涯はひとりのものにとどまらない。彼の生涯はその典型であることを思い感慨は尽きない。充の御霊よ、天に安らかに。

要領の善し悪し

2008-06-12 21:51:04 | 哲学
6月12日 曇りのち晴れ
 このところ毎日秋葉原の殺人犯のニュースばかり。この若者のあきれた犯行の陰に希望のない生活がある。そしてそういう若者を生み出す今の日本の社会の歪がひしひしと感じられる。
 すべてを一度に直すことは勿論不可能だが、傍観していて嘆くだけではいかにも芸がない。個人の小さな力で社会や政治を変えることは難しい。しかしできることを出来る範囲でやる、あまり大風呂敷を広げない、これは立派な原則だと思う。これを踏み外すと碌なことはない。自分が破滅するのが落ちである。
 要領の良い人、悪い人ガある。要領の悪い私など一寸余計なことをするだけで大変な時間がかかってしまう。だからなるべく余計なことをせず、あることに集中して実行するのだ。小川正孝のニッポニウムについて、十年がかりでやっと出来た仕事が人様から評価してもらえて、賞をいただけるとは、空恐ろしいことではあるが、他人の善意を有り難く受けることも人生を素直に渡る秘訣であろうと考えている。

モノつくり、人つくり

2008-06-11 16:54:42 | 哲学
6月11日 晴れ
 晴れたが暑い。昨日はいわゆる入梅の日のはずだが、梅雨前線は日本列島南の海上にあって、時々北上するが東北地方は雨のアタックをまともに受けないのだ。
 さて表題のモノつくりと人つくりは大切な問題である。産業の基本はしっかりしたものを作ることである。日本人はモノつくりに長じているとよく言われ、事実日本人の器用さがそこに生きているのだ。しかしモノを作るのは人の業である以上,人の養成はきわめて大事なことだ。しかしせっかちな日本人は時々このことを忘れ、人つくりに時間がかかることをことを嫌う。
 人をつくること、それはしばしば人格と人格の接触、時には火花を散らす激しい接触がある。それを乗越えて人格の完成へと近づく。昔、日本にはこうした伝統があったことを思い出す。現代人はそうした歴史を活かして使うべきではないか?

運動不足ではないですか?

2008-06-10 20:59:25 | 生活
6月10日 晴れ
 暑い日になって、今年初めてマイカーにクーラーを入れた。近所を散歩するのみで運動らしい運動をしなかった私だが、今日は駅に切符を買いに行ったり、序でに美術館に池田満寿夫展を見に行ったりで、随分歩いた。いつもの10倍以上は歩いたのではないかと思われる。おかげで血糖値測定の結果は今までにないほどよい値になった。それで悟った、やはり運動は必要不可欠と。
 全国の糖尿病患者の皆さん、血糖値の数字に一喜一憂する気持ちは理解できるがそれよりも生活の根本を省みることが必要ではありませんか?

微視的と巨視的

2008-06-09 21:28:20 | 哲学
6月9日 曇り
 歯が痛むのでいわきは内郷のÅ医院に行った。診察したが悪いところは特になく、老化による歯茎の沈み込みが著しく、そのため痛みが生じ易いのだという。
 自分を見つめるとやはり小さなことに拘り、自己都合に合わせたくなるのは誰にでもあることだ。微視的思考のおちいりやすい弊害である。その時に自分を一時突き放す巨視的思考を取ってみることにしよう。(そんなに簡単に出来るかという人もあると思うが、一寸待て)少し違った景色が見え始めるのだ。人と人との関係が客観的に見え、自分はひとつの単位になってどのような役割を果すべきかが見えてくるだろう。
 そうはいっても自己は自分にとってやはりかけがえのない存在であることも事実だある。微視的と巨視的をつなぐ一歩をどうして作るか、そこを解決するのがその人の賢さの問題で、決まった処方箋はない。だからこそ経験でも、読書によって得られる知識でも利用できるものは何でも利用してやってみるよりほかないのだ。

秋葉原、凶悪事件

2008-06-08 21:24:52 | 哲学
6月8日 晴れ
 またまた若者による無差別の凶悪殺人の事件発生。25歳で青森県出身、静岡県からわざわざ東京にやって来て、2トントラックを運転して歩行者天国の人の群れに突っ込み、3人を跳ね飛ばした上、トラックから降りて倒れた人に馬乗りになって刺し、通行人を刺し、7人死亡、10人重軽傷で病院に運ばれたよし。恐るべき無差別殺人犯である。相手は誰でもよかったとうそぶいている。世も末かと思われるような事件で、私も血が凍る思いをした。
 しかしよく考えてみれば、これは若者に夢や希望を与えない政治や社会の責任が大きいと思う。働いても働いても、将来への展望が見えない状況であれば、絶望が彼らを襲うのだ。いっそのこと死刑になりたいとあからさまに告白した犯人もいる。刑務所にいたほうが食べる心配がなくて楽だと言い、進んで刑務所志願をするものが多いそうだが、これは社会の病理を示しているといえるだろう。
 貧富の差の拡大の是正は政治家の急務である。また青年に生きる目標を与えることは教育者の責任である。これらは他人事ではない。国民みんなの問題である。

童謡、心の故郷

2008-06-07 17:45:15 | 生活
6月7日 晴れのち曇り
 インスリン注射を始めて1週間が経ち、なかなか忙しく、試行錯誤の期間であったが、なんとか無事に過ごした。血糖値低下のアドベンチュラスな出来事も2回、
生命の危険というほどでなく気がついて手当てをしてことなきを得た。私がはじめ
薬物依存みたいでと言って嫌っていたインスリン注射だが、睡眠に影響があることは確かで、始めのころは心地よくも感じた。しかしその後はいつも快眠とはゆかず、うつらうつらと眠さが残りボーっとしている。ここのところを工夫して、QOL
改善に努めたい。
 そんなことを思っている時、テレビの童謡番組に聞きいる。童謡は心の故郷、単純で技巧を凝らさない日本の歌がいい。「サクラ、サクラ」に始まり、「今は山中今は浜」、「ただ一面に立ち込めた」(牧場の朝)などなど気分を和やかにする歌の数々、有難うと言いたくなるのだ。野口雨情がいわき市湯本に二年も住んだこと、そして野口雨情記念館が出来たことなど初めて知った。肩肘はらず、童心にかえって歌に聞き入る時もまた楽しからずや、である。

いのちの危険

2008-06-06 19:56:22 | 哲学
6月6日 曇りのち晴れ
 本当は朝霧の様な雨があった。
 ともかく世は時に思わぬ展開を見ることがある。私が長年高血糖に悩まされてきた患者の一人であることはすでに書いた通りである。私としてはこうなったら、じたばたしてもしょうがないと、医師の言うところにしたがって血糖コントロールをやり、インスリン注射に踏み切った。問題はインスリンの適正量がいくらにすればよいか、Try and Error の積み重ねが必要なことで担当医師が神経を使うこともよく分かっている。私の場合担当医師の言うところに従って、その言うとおりの量を注射したら低血糖症状を起した(これは時によっては非常に危険で生命の危機になる)ので早速病院に通報したところ、若手医師は本当は自分の方が謝らねばならないところ、私に食ってかかるような調子であった。私個人、シニアとしては孫のような年配の医師を叱りつけることはしたくないが、心得違いして欲しくない。
 以上は今日の経験なのである。
 そこで自戒も含め、いのちの危機に遭遇した時のことについて考える。急場の危機は時間がないので、その時、その時すぐとる処置を予め考えておく。医師に相談したくとも不在の時もあるだろう。運悪く不在だったら自己判断、自己処置でもやむを得ないことになる。もう人生のいろいろな出来事を経験し、果すべき役割を果した私は死を忌避する理由もなくなった。達観していたいが、その場に臨んで人並みに慌てふたむくかもしれないので、豪語はやめておく。しかし私が一般人とは少し違う人生観の持ち主であることだけはいっておこう。