書くことがなかったわけではないので、関心事はいまだに解決を見ないことなど、身辺雑雑をとりまぜて、おいおい日にちに沿って目を開けることにする。しかしそのうちには34000歩数の旅あれこれがある、そこに見聞したことがある、珍道中のそれはそれで思い出となって日に日に薄れていくに任せるのはいつものこと、スマホの写真を見てそこになにがしかを記憶することになっていく。脳の命令とやらは休息を要求して身体の疲労回復に合わせて1週間であったから2日の行動は4日ないし6日の疲労を感じることにほかならず、日常活動を取り戻す。ただ動かないとかそんな風ではない。それが脳の休息命令とやらは身体活動との連携をするかしないか。
整理にいそしんで、それは箱に詰まった本をながめては動かしして、歴史シリーズの巻数を順にそろえたり、本棚に整然としていたのは5年前か、もう少し前から、研究室移転の3回に憂き目を見たもの多く、霊異記研究の諸本における順序矛盾を実感するようなことになる。これ何かと言えばわが処女作品のこと、このきっかけをもってテーマとなった、これまたふたはこのダンボール箱に詰めてある。そういえばそこそこ放送大学教材を取りそろえた箱があって、内から日本語学概論と日本語表現の理解を見出して抜き出してきた。20年前の改訂時期に買ったもので、日本語となるのは一般になって10年を経た、1990年代のその教材には国語学成果を見るものであるが、1993年、日本語の表現と理解、という表題はその行為をみる文科省用語となってそこに披いたちょうどそのところで、文の構造を説明している。
は と、が の違いでとらえる三上説が書かれている。本務と兼務のくだりが目に入る。
平面解釈にしている取り立てである、というふうな、批判がもたげてくると、いよいよこのころであったことを合点する。まだわかりよいのだが、はてさて。