読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

続「江戸城内テロ」

2009-09-10 10:47:03 | 歴史

浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけた事件は江戸城内で有った四件のテロ事件の内の三番目に当たる。つまり浅野内匠頭は、その前の事件の一件目の三大将軍家光の時代の寛永五年(1628)目付、豊島明重が老中、井上正就(まさなり)を刺殺した事件はどうか判らないが、二件目の将軍綱吉の時代の貞享元年(1684)若年寄、稲葉正休(まさやす)が大老、堀田正俊を刺殺した事件を当然知っている事になる。浅野は吉良に切りつけたとき三十四歳、二番目の事件のときは十六歳か十七歳でその事件を知っていた筈だ。所持していたのは短刀であろうから、殺そうと思えば一番目と二番目のように刺す筈である。そうしないで切りつけただけなら、もし裁判員制度の下でなら裁判員には殺意なしとされたかも知れない。年齢の割には浅野は余り利口な方ではなかったのかも知れない。
ついでながら、四番目の事件で江戸城内において田沼意知を斬殺した佐野政言は江戸市民に賞賛され田沼政治に対する批判が強かった事を示している。そしてその後、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。

江戸城内テロ

2009-09-09 09:13:17 | 歴史
江戸城内での刃傷事件は、あの浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけた事件を含め四件有るそうである。
一件目は三大将軍家光の時代の寛永五年(1628)目付、豊島明重が老中、井上正就(まさなり)を刺殺した事件。
二件目は将軍綱吉の時代の貞享元年(1684)若年寄、稲葉正休(まさやす)が大老、堀田正俊を刺殺した事件。
三番目が同じく綱吉の時代のこの元禄十四年(1701)の浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた事件。
四件目が天明四年(1784)旗本の佐野善左衛門が若年寄の田沼意知(おきとも)を斬殺した事件である。
吉良以外は全部死亡している。

本は寝転んで

2009-09-06 13:57:21 | 読書

作家の小林信彦氏が文芸春秋から「本は寝ころんで」と言う本を出したとき、有る出版社から「この本は寝転んで読むのにいいので、寝転んで読んでからご好評をいただきたいと思います」と言う手紙とともに本が送られてきたそうだ。氏はそれを読んで非常に腹が立ち、その手紙を破ってしまったと言う。「寝転んで」と言うのは、書名にはどんなむずかしい本でも寝転んで読むと言うアイロニーがあり、権威主義的なものを認めないという読書の姿勢を言ったのだと書いている。私もそういえば本は寝転んで読んでいるが、私の場合はそう言った姿勢もない。

三部経のこと

2009-09-04 13:33:25 | 宗教

所謂、浄土三部経は法然が選定したものだそうだがその内「無量寿経」と「阿弥陀経」はサンスクリット本がありインドで成立したものである事が判るが「観無量寿経」は漢訳のものしかないのだそうだ。従ってこの「観無量寿経」は中国、または中央アジアで成立した可能性が高いと言う。
法然は、この三部経を基礎に「選択本願念仏集」を著した。尤も、法然は筆不精で著作と言えるものはこの「選択本願念仏集」だけで、それも法然自らが筆をとったのは冒頭の部分だけであとは弟子に口述筆記させたものなのだそうだ。それでもこの選択集は日本の仏教に大きな影響を齎した。

悲と哀について

2009-09-02 10:33:58 | 漢字

非や哀と言う漢字の成り立ちについて、以下のコメントを寄せてくれた人がいる。
「非は左右の羽根が互いに反対方向(左と右)に広がった状態。
つまり心が引き裂かれてしまった様を表します。ちなみに哀は衣で口(心)を隠している状態。つまり人知れず泣てい嘆いている様を表すそうです。」と言う文で有った。この解説に私は少し疑問を感じたので調べてみると。
先ず、非は図のように梳き櫛の形で羽根ではない。「あらず」と言う否定の意味で使うのは仮借の用法で非がその昔、どのように発音されたのかは知らないが否定の言葉の音が非と言う梳き櫛を表す文字の発音と同じだったので非の本来の意味とは関係なくその音だけを利用したのである。
悲は図のように心臓の上に否定の意味を示すようになった非を書き添えたものである。
哀は図のように衣と口を組み合わせた形で衣は襟を合わせた形、口は物を食べたり喋ったりする口ではなくサイと言う祝詞(のりと)を入れる容器である。人が死ぬと死者の襟元にサイを置いて、哀れみ、死者の魂を呼び戻す儀礼をした事を表す文字である。
白川静著「常用字解」平凡社から



どこからが宇宙

2009-09-01 09:41:06 | Weblog

「珍問難問 宇宙100の謎」 福井 康雄¥ 1,400 東京新聞出版局と言う本が有るそうだ。私は読んでいないが宇宙についての疑問に専門家が答えた本であるらしく、その本の
感想をメルマガで書いている人がある。
以下にその抜粋をコピーさせて貰った。
「インターネットで寄せられた宇宙の疑問、質問に、天文学者、科
学哲学者、研究家が回答したもの。質問は、素朴なものから専門
的なものまで多種多様だが、答える方はとても誠実、丁寧だ。」
と言う評論で宇宙に対する一つの質問とそれに対する答えを紹介している。
「どこからが宇宙なのですか。」に対し
「これは私も常々気になっていた疑問だ。聞いた人、エライ!」と感想を述べ
「回答。あなたがいる場所も宇宙なのです。」と答えを紹介し、でも、質問者の意図す
る宇宙は「地上からどれくらい上昇すると宇宙なのか」ということでしょう。」とメルマガの著者の疑問も書いている。
私の答えは地球も宇宙の中にあり、従ってどこからが宇宙だとは言えないだろうと言う
事だ。答えるとすれば、それを前提にした上での答えが必要なのではないかと思った。
ところが、「それに対する答えは、はっきりとした定義はまだない」としながら
「一般的にはスポーツ組織(!)である国際航空連盟が定義した、地上から100キロメートルの地点だと考えられます。」と言う。
この答えもどうかと思った。
現実に宇宙空間と言う言葉は使われており、どこからが宇宙なのかと言う疑問はあること
だろう。