浅野内匠頭が松の廊下で吉良上野介に切りつけた事件は江戸城内で有った四件のテロ事件の内の三番目に当たる。つまり浅野内匠頭は、その前の事件の一件目の三大将軍家光の時代の寛永五年(1628)目付、豊島明重が老中、井上正就(まさなり)を刺殺した事件はどうか判らないが、二件目の将軍綱吉の時代の貞享元年(1684)若年寄、稲葉正休(まさやす)が大老、堀田正俊を刺殺した事件を当然知っている事になる。浅野は吉良に切りつけたとき三十四歳、二番目の事件のときは十六歳か十七歳でその事件を知っていた筈だ。所持していたのは短刀であろうから、殺そうと思えば一番目と二番目のように刺す筈である。そうしないで切りつけただけなら、もし裁判員制度の下でなら裁判員には殺意なしとされたかも知れない。年齢の割には浅野は余り利口な方ではなかったのかも知れない。
ついでながら、四番目の事件で江戸城内において田沼意知を斬殺した佐野政言は江戸市民に賞賛され田沼政治に対する批判が強かった事を示している。そしてその後、幕閣においても松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。