山本周五郎は人そのものをじっくりと描くのは上手いが、自身は人間嫌いだった。
付き合う人も極端に少なくしていた。仕事場への訪問客にもめったに逢わなかった。
若い頃の下積みが長く、質屋へ徒弟として住み込んだことも有ったが、
関東大震災で店が無くなると、関西の新聞社を転々とし、雑誌の編集記者もした。
そのかたわら「文芸春秋」に投稿してデビューを果たした。
二十代は生活の為に娯楽小説を多産し、三十代で作家一本となった。
が、生活は苦しかったと言う。四十代で直木賞に推されたが辞退している。
四十代でも多作で、代表作は五十代になってである。
「樅の木は残った」は五十一歳から五十五歳までに書いた。
周五郎は「いい小説は五十を過ぎないと書けない。」と言っていたそうだ。
人気作家になってからも訪問客には逢わず、講演も断っていた。
お上のことも嫌いで園遊会にも出なかった。文学賞と名のつくものは全て断り、
作品も大手出版社より名も無い出版社を選んだと言うことだ。
山本周五郎と言う名は十三歳で奉公に出た質屋の名前である。
大正十五年、「文芸春秋」に初の作品「須磨寺附近」の原稿を投函したさい
住所氏名欄に「木挽町山本周五郎方清水三十六」と書いた。それを係りの編集者が誤って、
作者名を山本周五郎と発表してしまい、そのままペンネームとなった。三十六は、さとむと読む。
付き合う人も極端に少なくしていた。仕事場への訪問客にもめったに逢わなかった。
若い頃の下積みが長く、質屋へ徒弟として住み込んだことも有ったが、
関東大震災で店が無くなると、関西の新聞社を転々とし、雑誌の編集記者もした。
そのかたわら「文芸春秋」に投稿してデビューを果たした。
二十代は生活の為に娯楽小説を多産し、三十代で作家一本となった。
が、生活は苦しかったと言う。四十代で直木賞に推されたが辞退している。
四十代でも多作で、代表作は五十代になってである。
「樅の木は残った」は五十一歳から五十五歳までに書いた。
周五郎は「いい小説は五十を過ぎないと書けない。」と言っていたそうだ。
人気作家になってからも訪問客には逢わず、講演も断っていた。
お上のことも嫌いで園遊会にも出なかった。文学賞と名のつくものは全て断り、
作品も大手出版社より名も無い出版社を選んだと言うことだ。
山本周五郎と言う名は十三歳で奉公に出た質屋の名前である。
大正十五年、「文芸春秋」に初の作品「須磨寺附近」の原稿を投函したさい
住所氏名欄に「木挽町山本周五郎方清水三十六」と書いた。それを係りの編集者が誤って、
作者名を山本周五郎と発表してしまい、そのままペンネームとなった。三十六は、さとむと読む。