読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

9.11日本人犠牲者家族の生き方,アフガニスタン再建に力を

2011-09-25 08:55:21 | 新聞
白鳥 晴弘さんの一人息子、敦さんは、ワールドトレードセンター北棟の105階にあるカンター・フィッツジェラルドで仕事をしていたときに、テロ攻撃で亡くなった。36歳だった。


 それ以来、白鳥さんは攻撃の背景にある理由を理解しようと苦闘してきた。2004年には、ウサマ・ビンラディン容疑者に手紙を手渡すため、パキスタンへ飛んだ。英語と日本語、ペルシャ語で書いた手紙を携え、パキスタンの山間部を1週間車で走り回った。

 白鳥さんは、「現実には会えることはない。もし僕が個人で会えるなら、アメリカのCIAが探しているはずだ」と話す。白鳥さんは復讐には興味はなかった。答えが欲しかったのだ。「どうしてそういう事をしなければいけなかったか、僕は聞きたかった」

 東京の焼き鳥屋のオーナーである白鳥さんは、息子は「アメリカン・ドリーム」を実現させ始めたばかりだったという。父親には実現できなかった夢だ。白鳥さんは、すべてが大きく輝いて見える米国にどれだけ行きたいか、息子によく話していた。敦さんは高校卒業後に渡米し、カリフォルニア大学サンタクルーズ校を卒業した。父と息子は仲が良かった。何についてもお互いを刺激し合う「ライバル」だった。

 ビンラディン容疑者からの答えは得られなかったものの、白鳥さんはフラストレーションを転換する方法を見つけた。パキスタンを訪問したあと、白鳥さんはアフガニスタンの首都カブールに行き、ひどく破壊された風景に胸を打たれた。折れ曲がった飛行機が横たわり、戦車が街を走り、荒廃した建物が地平線上に点々と並んでいた。

 荒れた街並みは、第二次世界大戦末期に空襲で焼かれた東京を思い出させた。白鳥さんの父親も、そのときに亡くなった。地元の人と話すと、攻撃により米国への気持ちが頑なになっているのが分かった。そして、双方が誤解し合うことにより、将来も悪循環が繰り返される。

 白鳥さんは、子供たちが大きくなったときに何が起こるだろうかと考えた。やはり米国を憎むのだろうか。同じことが起こるのだろうか。

 白鳥さんは、アフガニスタンの子供たちを助けることに自分の力を向けると決めた。2004年以来、ニューヨークには行かずに8回もアフガニスタンに行った。いまでは、英語よりもアラビア語のほうがうまく話せる。同時多発テロ犠牲者の基金からの補償金や、敦さんの資産を使って、白鳥さんはアフガニスタン再建のための基金を創設した。浄水器や太陽光パネルなどを提供し、設立に協力した女子校への備品も供給。メモリアル・パークをつくるため、2000平方メートルの土地も確保した。

 今年は10周年なので、白鳥さんはニューヨークに行くという。敦さんの名前が記念碑に刻まれているのも、初めて目にする。だが、1週間後には東京に戻る予定だ。

 70歳の白鳥さんは、9月11日のイメージは見たくない、前を見ていたいと言う。