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読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

山本周五郎のこと

2012-01-12 09:30:12 | 読書
山本周五郎は人そのものをじっくりと描くのは上手いが、自身は人間嫌いだった。
付き合う人も極端に少なくしていた。仕事場への訪問客にもめったに逢わなかった。
若い頃の下積みが長く、質屋へ徒弟として住み込んだことも有ったが、
関東大震災で店が無くなると、関西の新聞社を転々とし、雑誌の編集記者もした。
そのかたわら「文芸春秋」に投稿してデビューを果たした。
二十代は生活の為に娯楽小説を多産し、三十代で作家一本となった。
が、生活は苦しかったと言う。四十代で直木賞に推されたが辞退している。
四十代でも多作で、代表作は五十代になってである。
「樅の木は残った」は五十一歳から五十五歳までに書いた。
周五郎は「いい小説は五十を過ぎないと書けない。」と言っていたそうだ。
人気作家になってからも訪問客には逢わず、講演も断っていた。
お上のことも嫌いで園遊会にも出なかった。文学賞と名のつくものは全て断り、
作品も大手出版社より名も無い出版社を選んだと言うことだ。
山本周五郎と言う名は十三歳で奉公に出た質屋の名前である。
大正十五年、「文芸春秋」に初の作品「須磨寺附近」の原稿を投函したさい
住所氏名欄に「木挽町山本周五郎方清水三十六」と書いた。それを係りの編集者が誤って、
作者名を山本周五郎と発表してしまい、そのままペンネームとなった。三十六は、さとむと読む。

川端康成のこと

2012-01-11 09:45:05 | 読書
川端康成は生後一歳で父が死に、その翌年、母を亡くした。七歳で祖母を失い、十歳で姉を亡くし、十五歳で最後の肉親、祖父を失い孤児となった。母方の実家に引き取られることになった。今東光が書いている。「身寄りは無く、結局、親類の家を転々として育ち、ご親類には悪いが、天下の秀才にでもなれば大事にしてくれたろうが、小さいときはそれもわからず、川端の家はお荷物を残してくたばりゃがって、と言う感情があるのも当然で、どこの家でも、決していい待遇はしなかった。」と。今東光は彼を「居候の名人」と言ったそうだ。一高時代は夏休みになると行くところが無いので今東光の家で休みを過ごしたそうである。

イーハトーボ

2012-01-08 10:14:21 | 読書
「イーハトーボ農学校の春」は宮沢賢治の小説だが、イーハトーボの言葉の意味が判らなかった。賢治はエスペラントが得意で岩手のことをエスペラントで言うとイーハトーボになるのだそうだ。盛岡はモーリオ、仙台はセンダード、東京はトキーオだそうだ。
賢治は北上川の川原をイギリス海岸と名づけたり、白麻の背広を着たり、ソフト帽を被ったり、岩手をスコットランドに見立てたり、ネクタイをするなど西欧の文明に憧れた様子が伺えるが何故かキリスト教を信仰しそうなものだが日蓮宗である。父親は浄土真宗で対立したらしい。

永井路子、小説「茜さす」は

2012-01-07 10:24:16 | 読書
永井路子の「茜さす」上下巻を読んでいる。見開きに飛鳥の古地図が載っており
歴史小説と思い込み、リサイクル本として並んでいたものを貰ってきたものだった。
が、額田王や天智天皇、天武天皇、持統天皇は確かにその小説の登場して来るが
僅かな記述しかない。額田王や持統天皇の心にあるものと現代に生きる女子大生の
大学卒業前後の生活の中での心の動きのようなものを描いた小説だった。
私は上巻を読み終わり、下巻に移った。家内が上巻を読み始めたところだ。

山岡壮八の或る乱歩の思い出

2012-01-06 09:25:07 | 読書
山岡壮八が江戸川乱歩を最も敬愛する人とした上で、或る一つの思い出を書いている。
酔っ払った壮八はある日、芸妓屋に乱歩と一緒に行ったおり、そこで乱歩にからみ
「今夜はここで泊まれ」と言ったそうだ。すると乱歩の顔色が変わった。
時計はすでに午前零時を過ぎていた。「『これは困った。家へ帰って、座らねばならない。』と
真面目な顔で乱歩先生は言われた。つまり決まった時間以降に帰宅されると、
その時間だけ、奥様の前で正座する約束になっていると言うのであった。」
山岡壮八「生歩の大人」から

内田百のこと

2012-01-05 09:37:56 | 読書
百は明治二十二年、岡山氏の酒造業の長男として生まれた。
祖母や母に溺愛されて育った。丑年生まれだったので
牛の玩具をたくさん買ってもらった。
「本物の牛を買ってくれ」などと言い出したらしく、
実際に牛を買ってもらうなど我がまま放題に育った。
22歳で夏目漱石を訪れ、その門下となった。
そこで鈴木三重吉、森田草平、芥川龍之介などと知り合った。
この頃から食い意地ははっていて、漱石夫人の回想録では、
ガツガツ食事をたかる百の評判は芳しくない。
が、漱石全集編纂の校閲には力を発揮し、漱石への恩は返したと言えるかもしれない。
29歳では、芥川の紹介で海軍機関学校のドイツ語教授になり、
31歳で法政大学教授となって金回りは良かったほうだが借金まるけだったそうだ。
嵐山光三郎著 「文人悪食」マガジンハウス肝より

山頭火のこと

2011-12-27 09:40:43 | 読書
アメリカで一番親しまれている俳人は芭蕉ではなく山頭火だそうだ。
「まっすぐな道でさびしい」が一番の人気だと言う。
アメリカの俳人は
「This straight road,full of loneliness.」と言うこの句を暗唱しているそうだ。
この句のfull of lonelinessのフレーズが好きで、やたらとこれを使いたがるらしい。
エンパイアステートビル、ホワイトハウス、ハンバーガー、何でも「フル オブ ロンリネス」と形容すれば句に
なってしまうと思っているらしい。
嵐山光三郎「文人悪食」マガジンハウス刊から

有島武郎のこと

2011-12-25 09:37:06 | 読書
有島武郎の小説「一房の葡萄」は、ほぼ事実に即した体験である。どんな内容かは「青空文庫」ででも読んでもらうことにして(私も小学校だか中学校だかで国語の教科書で読んだ記憶がある)彼は五歳のとき英会話習得のため横浜山手居留地横浜英和学校に入学した。そのときの記憶をもとに書いたものである。それは軽井沢の別荘で人妻波多野秋子と情死する三年前のことだ。武郎は今で言うイケメンであった。そのイケメン振りは近代文学者のなかで抜きん出ていた。長男、行光は日本映画界の人気スター森雅之である。武郎はアメリカ、ハーバード大学に籍を置いた秀才で、ヨーロッパ各地を回り、帰国後は大学教授となった。弟は有島生馬と里見惇で、北海道に農園を持つと言う財もあり、才もあり、容姿にも恵まれたという天が二物も三物も与えた人物であった。

泉鏡花のいろいろ

2011-12-20 09:37:25 | 読書
泉鏡花は食べることに恐怖感が有ったそうだ。豆腐の腐の字を嫌って豆府と書いていたそうだ。刺身は食べられず、シャコ、タコ、マグロ、イワシはゲテ魚として嫌ったと言う。大根下ろしさえ煮て食べたし、ばい菌恐怖症で旅にも行けなかった。
鏡花は若い頃から胃腸障害があったことも関係していることだろう。蝿も憎み「蝿を憎む記」なる文も書いている。

尾崎紅葉の門下に入った彼は紅葉の口述筆記を担当するが文字が分からず立ち往生した。鏡花の漢字にルビを振った独特の文章は、川端康成の「文章読本」に華麗な美文と褒められたが、それは文字を知らなかったことの反動として生まれたのである。

鏡花は幽霊の存在を信じていた。観音力を信じ、机の横には観音像が置かれていた。文字に文字霊が有ることも信じており原稿の中で訂正した文字には、墨で丁寧に塗りつぶした。原稿用紙の前には小さなお神酒徳利が供えられていた。

鏡花の代表作「女系図」は、すずとの同棲を師の紅葉に激しく叱責されたことへの反発で、鏡花の結婚はまだ早いと考えた紅葉が「俺を捨てるか、女を捨てるか」と激しく怒りを示した場面の再現であったと言う。「切れるの別れるのって、そんなことは芸者のときに・・・・」と言う有名な台詞は、そのときの鏡花の心境で、師の死後も、そのときの恨みを鏡花は忘れずに作品とした。

漢字をメモするのも読書の方法

2011-12-15 10:23:42 | 読書
家内が本を読んでいて、何かメモをしている。
メモを覗いてみると読めない漢字が幾つか書いて
ある。
鉈、訝しい、竦める、嘴、煽る、長閑、纏まる
恙無く、仄か、蝋燭(これは読めるが書けない)
疼く、胡座、蹲るなどがメモしてあった。
私にも読めない漢字が幾つかこの中に有る。