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読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

歩いた露伴

2011-12-03 09:45:42 | 読書
幸田露伴は貧乏幕臣の四男で幸田家の中では劣等生だった。露伴の兄妹は
実業家、軍人、学者、ピアニストといった秀才が多かった。
露伴は東京英学校(現青山学院)を中退し、北海道余市へ電信技士として
勤めた。父からは大工になれと言われたらしい。
が、余市で坪内逍遥の「小説神髄」読んで強い影響を受けた十九才の若者は
身の回りのものを売り払い、職場放棄をして東京へ戻った。
それも、徒歩でである。余市から函館に行き、海峡は船で渡ったが
一箇月かけて東京にたどり着いた。「風流仏」を一気に流行作家になった。
二十三才で読売新聞に入った。そこに尾崎紅葉も同時入社していた。
入社後も露伴は社に拘束されるのを嫌い、客員であった為、給料は紅葉の
半額の十五円だっと言う。彼の小説は人気が出て、一年後朝日に引き抜かれた。
そこで、あの「五重塔」を書き、文壇に確固たる地位を得た。この時、二十五才。
露伴のペンネームは、旅に出て、野宿をし、露を伴侶とすると言う意味だと言う。

石原慎太郎とジャック・ニコルの対談から

2011-11-26 10:58:02 | 読書
ジャック・ニコルは22歳から二年半、カナダ政府の召請で捕鯨の調査をやり、捕鯨船にも乗っていた事があったそうである。
ニコル:僕は日本の鯨捕りを尊敬していたんです。
石原:どうゆうところで?技ですか?
ニコル:彼らは勇敢で、国際捕鯨委員会のルールを守る海の紳士だと思っています。
   しかし、反捕鯨の動きが、反二本の動きに変わったとき、西洋のマスコミは
   「日本の鯨捕りは最後のシロナガスを動物の餌のために捕っている」と叩いた。
   そこで僕は、正しい目で捕鯨を見て欲しいと思ったから「ちょっと待てよ。反対
   するしないはいいけど、嘘はだめだ。日本はシロナガスは25年間も捕っていないし、
   まして、動物の餌にするわけがない。」と言いつづけた。結局、いろいろな保護団体   を敵に回しましたが、自分が尊敬している人々が本当のことでないことで叩かれるの   は許せなかった。だから政府の仕事をやめて、太地に住んで「勇魚」を書いた。
   ドン・キホーテと言うより、ドン・キホーテのロバのような感じですよ。
石原:ハハハハ。
 注:「勇魚」(いさな)1987年に刊行されたC・W・ニコル氏の小説
    幕末の日本を舞台にした海洋冒険小説

記者 正岡子規

2011-11-13 09:03:04 | 読書
正岡子規は大学を中退して新聞記者になった。同年年齢の尾崎紅葉も幸田露伴もすでに
売出していた。子規が入社した新聞社は創立まだ三年の日本新聞社と言う三面記事はなく
評論中心のものだった。社長は陸羯南と言い子規の叔父(母の弟)の加藤拓川の友人で
あった。子規はそこで二十行ほどを与えられ、俳句を書き、俳論を書いた。
日本新聞はしばしば政府批判を書いたため発禁処分となったが姉妹紙「小日本」と言う
ダミー紙を出し、そこの主任となった。子規はそこで小説も書いたようだ。しかし日本新聞社
の経営状態は「小日本」を約半年で廃刊とせざるを得なかった。が、子規は「日本」に戻り
再度、俳句、俳論を書いた。日清戦争では近衛師団の従軍記者となり満州に行ったがその帰り
の船中、喀血し、神戸で生死の境をさまよう事になったのである。
この翌年、子規は「従軍記者」と言うタイトルの軍隊批判の記事を書くことになる。



新聞小説「天佑」

2011-11-10 09:11:39 | 読書
高橋是清をテーマとした新聞小説が始まると知り
楽しみにしていたが、うっかり、それを忘れていて
気がついたのは第四回目からだった。その四回目を
読む前に前三回目までの新聞を取り出しきてきてから
四回目を読んだ。
第一回目はいきなり二、二六事件で高橋是清が暗殺
される日から始まっている。
勝海舟の息子とアメリカに渡り、騙されて奴隷に売られ
帰国した後も共立学校(現開成高校)で英語を教え、
教え子に正岡子規や秋山真之などを出しながら、さらに後
要請されて、六度も大蔵大臣を務めた優秀な人物であるらしい。
現在、新聞に連載中の五木寛之の「親鸞」と共に
朝刊が更に楽しみになりそうだ。

コスミック出版「笑撃!テストの珍解答グランプリ555」から

2011-11-06 09:45:02 | 読書
近頃に中学生は学校へ「笑点」をやりに行っているのか。
・次の慣用句を使って文章を作りなさい。
「うってかわって」
彼女は薬を打って、変わってしまった。

・「どんより」
僕はうどんよりそばが好きだ。

・次の四字熟語を完成させなさい。カッコ内が正解だが
変○自○→変態自分(変幻自在) 
満○一○→満腹一杯(満場一致)
無○○中→無理心中(無我夢中)

・事の成り行きを、緊張しながら息を凝らしている様を答えよ。
なまずをのむ。(固唾を呑む)

・「国富論」を記した経済の父は?
マダム・スミス(アダム・スミス)

・日本の最南端に位置する島は?
沖ノ島鳥(沖ノ鳥島) 惜しい!

・鹿児島に来着し、日本に初めてキリスト教を伝来させた人物。
フランシス・コザビエル(フランシスコ・ザビエル)
などなど「笑点」メンバーも負ける。 

ピーター・フォーク自伝 「刑事コロンボ」の素顔,東邦出版

2011-11-01 09:54:09 | 読書
刑事コロンボでお馴染みのピーター・フォークは
三歳のとき、右目にガンが見つかり、摘出した。右目は義眼であ
る。

高校時代、野球の審判の誤審がひどく、義眼を外して手渡したこ
とがある。「これが要るのはあんたのほうじゃないかい?」
味方も敵も大爆笑だったと言う。

高校を出て、大学に行く。何がしたいかわからず、何度か中退し、
船乗りになったり、ユーゴスラビアを旅したりした。最後に入っ
た学校は官僚を育てる学校で、卒業後はそのまま役所に就職する
こととなった。

演劇には、学生時代からちょこちょこ手を出していた。しかしプ
ロになろうとは思わなかった。怖かったのだ。「役者たるもの、
こうでなくては」という、崇高な思い入れがあった。自分がそれ
になれるとは思わなかった。

仕事をしながら、ある夏、プロのための演劇セミナーに通うこと
に決めた。身分を偽ったのだが、先生は言った。「あなたは役者
になるべきよ」と言われ、その場を抜けて仕事場へと向かった。
そのまま辞表を出して、オフブロードウェイの役者としての人生を始めた。
28歳であった。

ちなみに父は「顔に化粧を塗りたくって、他人の笑い者になって
一生を過ごすのか?」と言いながらも「がんばれよ」と、
手を差し出したそうだ。



さて、コロンボといえばまず思い浮かべるのがあのヨレヨレの
コート。実は、ピーター・フォーク氏の私物だった。

衣装を決める際に、用意されたものにぴんとくるものがなかっ
た。どれも普通、普通のスーツばかり。チャップリンのように、
一目でそれとわかるものが欲しかった。

ふと、数年前に買ったレインコートを思い出したのは、勘が働い
たというほかない。靴もネクタイも自前。ネクタイは、いつ買っ
たのかわからないほどくたびれたものだった。だがそれが、コロ
ンボにはぴったりだと思った。

コロンボは世界中で大人気だ。ペルーの山奥で、子供達に「コロ
ンボ」と騒がれたことがある。ルーマニアの政府関係者が尋ねて
きて、「政府を信じろ」と言ってくれと彼に頼んだこともあった
そうな。

コロンボは年に六作しか製作されない。ルーマニアでももちろん、
六本すべてが放映されるのだが、民衆は「もっとあるはず、政府
が隠しているのだ」と考え、怒っているのだという。

怒りを解くため、政府関係者はコロンボ本人が事実を告げる姿を
撮影しにやって来たのだった。


彼は今、絵を描いている。描き始めたのは四十の頃だ。それまで、
絵とは才能ある者だけが描くべきだと考えていた。役者に対する
思い入れと同じ、始めることが怖かった。
以下はウィキペディアから

プライベートでは、3歳のとき右眼に腫瘍が発見され、眼球の摘出手術を行なう。
それ以来、右の眼孔には義眼を填めている。少年時代はリトルリーグの審判に
不本意な判定を下されると自ら義眼を取り出して審判に振り回して見せ、
「目ン玉ついてんのかよ、これ(義眼)が必要なのはお前のほうじゃねえのか?」
と叫んだことがあった。コロンビア映画社長のハリー・コーンからは好かれておらず、
「どうせ同じカネを払うなら両眼が揃っている役者を使うよ」と言われてオーディションで
落とされたこともある。
また、1960年に大学の同級生だったアリスと結婚、娘2人をもうけたが1976年に離婚。
刑事コロンボシリーズ「ルーサン警部の犯罪」「美食の報酬」で共演したシーラ・ダニーズと
1977年に再婚している。なお、フォーク夫人となったシーラはその後も、刑事コロンボシリーズ
「殺意のキャンバス」「殺意の斬れ味」で夫と共演している。女優サマンサ・フォークは姪にあたる。
俳優業の傍ら、画家としても腕前を発揮。主に静物画や人物肖像画などを得意としたが、
対象物を大胆にデフォルメした現代アート風の絵画も手がけるなど、レパートリーは多岐に及ぶ。
当初は日曜画家的な範囲の活動であったが、夥しい数のスケッチを公開しており、
日本でも北海道などで幾度か個展が開かれたほどである。
映画においても、オリジナルの自画像や、フォーク自身が実際にスケッチを描くシーンが見られる。
なお、彼の絵画作品は本人の公式サイトでも鑑賞、購入でき、世界中のファンに向けて
詳細な情報発信を行っていた。
2008年、家族の後見申し立てによってアルツハイマー症であることが公表され、
自分が「コロンボ」であったこともわからなくなったと報道で伝えられた(Bang Media Internationalより)。
2011年6月23日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅で心臓麻痺により死去[3]。83歳没。

続「寝る前に読んでください」と言うタイトルの本から

2011-10-20 09:11:17 | 読書
1913年、アメリカ、テネシー州に住む或る薬剤師の青年には、
片思いの恋に悩む妹がいた。

彼は妹を勇気付けるため、ワセリンに石灰粉を混ぜ、目を大きく
見せる化粧品を開発した。目の小さな妹が、自信を持って男性
の前に出られるようになった。

兄の作った化粧品をつけ、見事妹は意中の男性を射止めた。妹の
名はメイベル。彼女の名前と、ワセリンを組み合わせたのが、
メイベリン(アメリカの化粧品会社)の社名の由来だそうだ。
ワセリンに石灰粉を混ぜるとどのようになるんだろう。

松下幸之助の或る話

2011-10-14 10:13:48 | 読書
松下幸之助にも、貧しい時代はあった。銭湯に行く金にも事欠いた
時期があったのだという。
そんな時期のあるとき、夫人のむめのさんは、夫に仕事の話題を
持ち出すことにしていたそうだ。仕事熱心な夫が、深夜まで仕事
の話をすることを知っていたからである。

そして、銭湯が閉まる頃になると、気づいたようにそのことを告
げ、わかした湯で体をふいてあげたのだそうだ。

夫人のこんな生活の知恵のような工夫を、幸之助氏が知ったのは、
事業が軌道に乗り出してからのことだったと言う事だ。

寝る前に読む深い~話

2011-10-09 09:01:56 | 読書
イギリスの心理学の専門家が、ある実験を行ったそうだ。
「財布を落としたとき、どんな財布が戻ってくるのか」

最も返却率が高かったのは、赤ん坊の写真入の財布。88パーセン
トにもなった。子犬の写真入りの場合は53パーセント。家族の写
真が入っているものは48パーセント。

総じて、返却率は専門家が考えていたよりも高かったそうだ。
なるほどと思った。私も孫の写真を入れておこうかと。