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広島原爆の日

2010-08-06 16:02:37 | レポート
  8月6日原爆の日がまたやってきた。
朝起きて朝日新聞を開いて社会面に大きく写真入りで飛び込んできたのが S.Nさんの記事である。見ると65年前8月6日広島県立第1中学2年生だった彼は爆心地に近い江波町にあってガラス破片を浴びた。弟と祖母を探すため、市中心部の病院を目指すと、途中から死体を踏みつけなければ進めなくなった。黒こげの遺体を見つけては確かめた。翌日偶然再会できた二人は終戦を待たず相次ぎ息を引き取った。
戦後、彼は大阪商船会社に就職し、1960年頃よりたびたび渡米、74~77年頃は駐在員として活躍した米国人の友人も多い、一方「原爆が戦争を早く終わらせた」「先に手を出したのは日本だ」のような原爆肯定論に直面し当惑しきった。被爆体験は家族にも語らず、被爆者健康手帳を取得したのも退職後である。75歳のとき三男の進めて初めて絵筆をとり、描くは記憶にあるあの日の広島の惨状「水を下さい」と訴えた女学生等の姿、「口先だけの謝罪の言葉はいらない、見たいのは原爆を初めて使用した米国が核兵器廃絶の先頭に立った行動をする姿だ。その時初めてあの国をゆるせる」、オバマ大統領になってやっと核のない平和を唱えだした、初めて広島、長崎の記念日に駐日大使や代表を出席させた。
奇しくもS.Nさんと同じ大阪商船会社に籍を置き私は海上籍、当時の移民船として「ぶらじる丸」1000名の移民を乗せて日本~ぶらじる(ベレン、サントス、ブエノスアイレス)と航海した。移民が
下船して仕事に余裕ができると米国の駐在だった彼はよくぶらじる丸にもきて面倒を見てくれ乗り組みと遊んでもくれた。思い出すのは世界三大劇場テアトルコロンへ歌劇ジーグフリードを見に行ったこと、コロンビアの首都での世界ミスユーニバス選出大会、カリブ海での日本人初めてだといわれる海水浴をしたことなどであるが、長の付き合い中被爆者とは一度も耳にしたことはなかった。

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