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正月二日

2011-01-04 10:19:22 | 備忘録
 東京に嫁いでいる次女が夫の実家神戸で正月をして今日揃って宝塚に来宅した。
昨日に続いての正月の宴である、東京の大学に行っている若者も入っているので話題もスポーツも入って面白い。日本の現状、留学や渡航の話、日本の就職難の現状、政治の行き止まり、対外問題、学生や教授は何を考えているか、など高年齢の我々には参考になる話がいっぱいでた。東京は、観光地は、中国旅行者の団体は、使うお金の単位は、といった話題になると外国から押しまくられる日本の現状の批判につながり、貧弱な日本の政治となり、ノーベル賞は別として、着るもの食べるものにしろ有名品にこだわる国民性、食い意地の張った国民性に対する批判等々、人口の減っていく国民(日本)は活気がなくいろいろと批判される材料が多い。
酒は百薬の長というがこんなたくさんの話題を提供してくれて東京文化、関西文化、伝統や最近の技術が生み出すIT情報の入り混じった話題に高齢者の我々は頭の思考を洗わされた。
以上の客は東京での正月のあいさつもこれからだと宵うちに新幹線で帰った。

分隊会報17号発送

2009-02-02 20:22:57 | 備忘録
 昨年に続きこの程第37分隊会の会報17号が完成しましたので全国の生存分隊員に発送しました。この分隊会は終戦前に軍事教練で同じ釜の飯を食った連中の集まりでしたが、数十年経った今もう半数は亡き人となっています。
会報は投稿主体に編纂していますが、今号は会員動静、級友作詞家の記念館見学記、絵画、俳句集、世界名言名句集等から成り立っています。次号への奮っての投稿を願って止みません。

パソコン教室のデジカメピクニック

2008-07-29 10:42:10 | 備忘録
  このところの連日の暑さはひどい。神戸布引ハーブ園行きのデジカメピクニックのお誘いを受けていたのだが、19日〆切り日に応募を聞きに行ったら8名しか申込みが無いという、熱中症で迷惑をかけてもと思い申し込みを辞退した。
28日ピクニックは決行されたが、後で聞くと応募者は14名、スタフと業者のカメラ説明者入れて20名で実施し、午前中は説明会午後になって下記の険悪な天候となったのでロープウエイを避け車で地下鉄駅まで下ったので無事だったという。

この日午後2時頃より雷鳴豪雨、六甲山で集めた雨水は忽ち量を増し神戸市内の各河川に殺到、中でも東灘区都賀川の増水は甲橋付近で人を飲み呑み5人の死者を出した。

新興国を支える日系人

2008-05-18 11:50:38 | 備忘録
  ブラジルに渡って日系人を鼓舞する井上祐見さんの話が出たが、いまや Brics といって世界の新興国の先頭に立つ ブラジル国は元気がいい。
16日のNHKのあとの放送かんさい特集では2人の日系人成功者の記事を載せていた。ブラジルが世界で最優良な鉄鉱石を輸出していることは知られているが、近年海底油田を堀あてこの採油でも知られてきた。水面下3000メートルの探索で大きなサントス油盆とカンボン油盆を発見、ブラジル沿岸遥か沖に油井を立てて採油が始っている、会社はペトロブラスPETROBRASといってトップに立つのは日系人のシゲアキ植木である、まだ油質の問題があるが将来性は充分という。
もう一人サトシ横田といってエンブラエルEMBRAER航空機製造会社の社長がいる。早くから航空機の部品を海外から集め組立て工場から始った。今では中小型機では国内随一、販途は海外に及びこれも新興国の力の一端を背負っているという。
アマゾンの開発といいブラジルは発展の楽しみな有望国である。

京都 霊山歴史館 (その2)

2007-04-28 16:24:51 | 備忘録
京都霊山歴史館に行った時、そのミュジアムショップで買ったのがこの本で殉難の100名の志士達の珠玉の一言、心に響く人生訓といわれるもので、感銘を受けたのでこのブログの続編を書いた。集成したのはこの歴史館の学芸部長木村幸比古氏で歌詩のみを30名ほど抜粋した。歌詞は当時の古語そのまま。
○和宮(将軍徳川家茂公内室)1846-1877
  惜しまじな君と民とのためならば  身は武蔵野の露と消ゆとも
○藤田東湖(水戸藩士)1806-1855
  玉鉾のみちのく越えて見まほしき  蝦夷が千島の雪の曙
○佐久間象山(信州松代藩学者)1811-1865
  きのふけふあすとうつろふ世の人の  心に似たるあぢさいの花
○長井雅楽(長州藩士)1819-1863
  君がため捨る命は惜からで  只思はるる国の行くすえ
○信海 (薩摩藩月照の弟)1821-1859
  西のうみ東のそらとかはれとも こころはおなし君か世のため
○西郷隆盛(薩摩藩士)1827-1877
  敬天愛人
○平野國臣(福岡藩士)1828-1864
  わが胸の萌ゆ想ひにくらぶれば  煙はうすし桜島山
○吉田松陰(萩藩士)1830-1859
  身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも  留め置かまし大和魂
○木戸孝允(長州藩士)1833-1877
  人の巧を取って我が拙を捨て  人の長を取って我が短を補ふ
○福沢諭吉(中津藩士)1834-1901
  心事高尚ならざれば働きもまた  高尚なるを得ざるなり
○小松帯刀(薩摩藩城代家老)1835-1870
  この年の千代のあまりは菅の根の  ながき春びにゆづりてや行く
○阪本竜馬(土佐藩海援隊長)1835-1867
  世の人はわれをなにともゆはばいへ  わがなすことはわれのみぞしる
○渡辺内蔵太(長州藩士)1836-1864
  早咲けば早手折らるる梅の花  清き心を君にしらせて
○吉村寅太郎(土佐藩士)1837-1863
  吉野山風にみだるるもみぢ葉は  我が打つ太刀の血煙と見よ
○中岡慎太郎(土佐藩陸援隊長)1836-1867
  大君の辺にこそ死なめ大丈夫  都はなれて何か帰らん
○高杉晋作(長州藩士)1839-1867
  恥かしと思ふ心のいやまして  なほらひ御酒も酔ひえざるなり
○久坂玄瑞(長州藩士)1840-1864
  梓弓はるは来にけり武士の  引かへさしと出る旅かな
○新巻羊三郎(久留米藩士)1841-1864
  もろともに君のみためといさみ立つ  心の駒をとどめかねつつ
○男谷精一郎(幕臣)1798-1864
  剣は心なり 心正しからざれば剣また正しからず
  剣を学ばんとする者は まず心を正しくすべし
○山岡鉄舟(幕臣)1836-1888
  一歩一歩いつか昇らん富士の山
○渡辺崋山(田原藩家老)1793-1841
  麻縄にかかる身よりも子を思ふ  親の心をとくよしもがな
○徳川斉昭(水戸藩主)1800-1860
  咲き出でて匂へるものは武士の  みちに通へる花にぞありける
○井伊直弼(大老)1815-1860
  世の中をよそに見つつも埋れ木の  埋れてをらむ心なき身は
○勝 海舟(幕臣)1823-1899
  行は我にあり毀誉は他人にある
○森弥一左衛門(箱舘編成新撰組隊士)1826-1869
  うれしさよつくす心のあらはれて  君にかはれる死出の旅立
○河井継之介(長岡藩家老)1827-1868
  地下百尺底の心を以て事に当たる
○松平春嶽(越前藩主)1828-1890
  鈴菜園田伏のいほに咲く花を  しひては折らじさもあらばあれ
○西郷頼母(会津藩家老)1830-1903
  己が身にほかせぬ事は施こさじ  前にしりへに右にひだりに
○芹沢 鴨(新撰組局長)1830-1863
  雪霜に色よく花と咲きかけて  散るとも何とにほふ梅が香
○山南敬助(新撰組副長)1833-1865
  春風に吹さそはれて山桜  すりてぞ人にをしまるゝかな
○近藤 勇(新撰組局長)1834-1868
  事あらばわれも都の村人と  なりてやすめん皇御心
○瀬尾権三郎(新撰組隊士)1834-1877
  身を捨し国に報はん大丈男ハ  妻子も同じ操なりけり
○土方歳三(新撰組副長)1835-1869
  しれば迷ひしなければ迷はぬ恋の道
○松平容保(会津藩主)1835-1893
  行くも憂し止まるもつらし如何にせむ  君と親とをおもふこころを
○沖田総司(新撰組一番隊組長)1842-1868
  動かねば闇にへだつや花と水
○飯沼貞吉(白虎隊士唯一の蘇生者)1854-1931
  梓弓むかふ矢先はしげくとも  ひきなかへしそ武士のみち

淡交社 1500円 ISBN4-473-03341-4


先輩Tさんの訃報

2007-04-02 15:23:15 | 備忘録
突然Tさんの訃報が入った。病名は脳梗塞享年82歳という、ご夫婦仲がよくいつもご一緒に行動されていたのに・・・。
Tさんは私の旧会社の1年先輩で入会時は何くれとなくお世話になった。非常に面倒見の良い人で言葉少なではあったが後輩の誰にも人気があった。温厚篤実を地で行った人といえよう。何処そこへ旅行したとか、車を買った時など私などよく真似をしたものである。
ただお気の毒だが二人のお子さんが何れもご優秀で一流会社であったが不慮のことで、何れも早世されそのお孫さん達の面倒を見ておられたようだ。従って余生はそんなにお楽しみでなかったと推量される。
人生本当に誰が先に逝くか分からない。こんな歳まで元気でおれるのを感謝せねばならない。

恩師K教官夫人の訃報

2007-03-30 21:21:01 | 備忘録
新潟県在住のN君より電話があり、K未亡人が逝去されたとの報が入った。
K夫人は我々学生時代の恩師K教官の奥さんで我々が入校後間もなく夫君の下へと清水に初めてお出でなられた。戦時下の学校で軍事特別訓練を含んだ学校教育で鍛えられた我々であるが、すべてに軍国魂での学校生活の中、商船魂(ちょっぴり自由)を含んだ教育に生徒ながら憧れたのか、そんな中のK教官に妙に人気が集まった。そのK教官も1年半足らずで応召になり、我々生徒と別れて戦地に向われた。その時直接属していた第37分隊員61名が各自送別の辞をしたためて教官に送った。教官はその後3ヶ月してフィリピンマカッサル島で戦死され、後でお聞きしたのであるがこの我々の送別の辞が文集「勿忘草」となりk夫人の手に残り鎮魂の詩となった。
終戦と共にすべてが離散してみんなそれぞれに生きんが為の苦難の生活に入った。

何十年かたったでしょうか、生活もやや落ち着いて来た頃、昔の第37分隊の1人が音頭とって級友20人が伊豆下田の蓮台寺荘に集まった。紅一点としてかってのK夫人も参加された。昭和52年8月のことであった。生存さえ分からなかった級友の久闊の辞が長々と続いたが、一憩のあとK夫人が袱紗より取り出し紹介されたのがあの「勿忘草」の文集であった。驚愕のざわめきが奔った。出席者全員があの時何を書いたか全く記憶になかった、そんな文集が形見となっているとは勿論しるよしもなかった。
この勿忘草が奇縁で37分隊会が出来、集りがあれば名簿探しで分隊名簿となり、分隊会報も作るようになった。
こんな分隊会の全国各地での集まりは12回を数え、会報は15回となった。その中心はいつもこのK夫人であった。今年の寒中見舞いに85歳となり体力衰え今後年賀状は辞退したいとあったが、こんなに早く他界されるとは想像もしなかった。
ご夫君が戦死される直前に生れた、お父さんを知らぬ形見の娘さんがあったが、この方も成人され3人のお孫さんある立派なご家族をつくっておられる。
K夫人の一生を思うと戦争はいろんな人の運勢をもてあそんだといえよう。

平成18年確定申告

2007-02-05 20:11:55 | 備忘録

土日を挟んだので、今日5日還付申告に逆瀬川のアピアホールに行ってきた。例年だと相談会場は番号札とりや行列で人が一杯なのに今年はその半数くらい。今年から相談会場の半分はパソコン入力相談にとられているらしい。
私は手引きを見ながら計算していったので書類を出すだけで済んだ。
我々のは年金収入だけで簡単でパソコン納税まで必要ないが、医療費は高くなる、老人控除や定率減税も減って年々税金が高くなっていく。少子高齢化の影響も出始めたのか、とに角我々高齢者は暮らしにくくなっていくようだ。

桂米朝さんの思い出

2007-01-23 12:20:58 | 備忘録
今朝の神戸新聞を見たら人間国宝で落語家の桂米朝(写真右)さんの久し振りの顔が載っていた。昨22日に、大阪天満宮の境内に昨年9月に出来た「天満天神繁盛亭」で孫弟子の桂歌々志改め三代目桂歌之助(35)の襲名披露会で口上を述べたという。米朝さんは昨年8月に胸椎を骨折し療養中であったがこの日はじめての繁盛亭に顔を見せたもので、お馴染みの桂三枝(写真左)の問いに「早くここで一席やりたいですな」と元気な姿を見せた。
私は昭和30年代の頃大阪中之島の本社に勤めていたが、会社の近くに朝日新聞社があり、その隣の朝日会館のホールで毎土曜日だったかTVのショーの公開採録があって毎回見に行った、といってもあのディレクターの手に合わせて拍手を応酬する役目である。当時の人気番組の「かしまし娘捕物帳」といってこの桂米朝、今人気の森光子、それにかしまし娘庄司歌江、照江、花江の3人娘の出演、当時は皆若くハンサムだった。カメラマンは当時まだ長い金色のテロップを靡かせながら撮影していた。その毎週が結構長く続いたので、見に来て拍手をする客は皆出演者のフアンになった。あれから40年も経つ、私を含めみんなお爺さんお婆さんになっているわけだ。

後輩 K君の死を悼む

2006-12-24 21:45:59 | 備忘録
 
 年末も押迫ったのにまた親しかった人の訃報を受けた。K君は私の学校の5年後輩で従ってやはり5年遅れて名古屋の我々の会に入会してきた。実直の人で先輩諸氏に良く可愛がられた。はじめは横浜の実家からの単身赴任で所在無い儘、あちこちとつれてまわった。休暇の期間中は横浜に帰っていたが、名古屋で非番の日はよく一緒にドライブに行った。師崎や三ヶ根山スカイライン、三河湾スカイラインなどよく周遊した。釣りも好きだったが海釣りでなく釣堀である、その話はよくした。
妻を呼んでからは南区の笠寺のマンションに住みずっとマイカーで通っていた。
そんな彼も一昨年だったか満期退会で子供らの住む横浜の自宅に帰って、これから余生を楽しむのだと手紙をくれてそんなに経っていない筈だ。享年76歳という、これから奥さんと新生活に出発したばかりなのに。お悔やみ申し上げます、 合掌