喫茶去

徒然に、日々の生活を書き留めたいと思います。喫茶去、まあ、お茶でも飲んで、のんびりしていって。

神の手?

2007-10-30 | 徒然日記

Hさんの知り合いの知り合いの方が
沖縄で撮られたのだそうです。



もう一つ、Hさんの友人が
今年8月8日に熱田区で撮られた‘龍(竜)’

 

今年はドラゴンズ、日本一だ・・・・・・・!?

自然の造形美?

それにしても、すごい

皆さんにも是非、見ていただきたくて、
無断で載せちゃいました・・・・・・・・・・・ごめんなさい

Hさん同様、これから空 を見上げるのが楽しみ。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茎芋

2007-10-29 | いと愛づらし(珍しい野菜・果物)・おもしろ野菜

久々に、らでぃっしゅぼ~やのいと愛づらしの野菜。


愛づらし度50(100点が最高)

さつま芋のつるから出た葉柄。
葉とつるの間の部分。
タンパク質がレタスの約三倍、
食物繊維はキャベツの約二倍。
この時期ですが、真夏の野菜だそうです。

茎芋の端を手で折り、
皮を引きながら皮をむき下ゆでして、
油炒めや胡麻和え、味噌汁の具に。



煮物にして、今日の夕食に。
少し甘みがあって、歯ごたえもいい。

戦時中の食糧難の時、
母達はこれをよく食べさせられたと言っていた。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嬉しい気遣い

2007-10-28 | 母のこと父のこと

Hさんから、
「そろそろ、お母様にお花が少なくなった頃ではないか」と
お花券をいただき、お礼のもせず、随分、失礼をしていた。

昨日、お土産を持って、お礼がてらお宅を訪問した。
久しぶりにお顔を拝見できて、嬉しかった。

その時いただいたさつま芋で、
今日、また、鬼まんじゅうを作った。
賞味期限は切れてたけど・・・・冷蔵庫に入れてあったし、
捨てるのはもったいない・・・・
火を通すからいいかと、抹茶を入れて作ってみた。



さつま芋を見ると母を思い出す。
母たちの部屋に行くと必ず、蒸かしたさつま芋があった。
父がスーパーで選んで、母が蒸かす。
それが実に美味しかった。

もらって帰ると、
食べ物にはうるさい次女も「美味しい!」と食べていた。
無い日は、「芋は?」と言うほど・・・

最近、妹が母に代わって、蒸かしてあげているよう。
行くと、時々、リビングにお芋があるのを見る。

沢山いただいたので、妹におすそわけ。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石見銀山

2007-10-27 | 旅日記





今年の7月に世界遺産に登録されました。

製錬に必要な膨大な木材燃料の供給が、
森林資源の適切な管理のもとに行われ、
今日でも豊かな山林を残し、
遺跡と豊かな自然環境が一体となって
文化的景観を形成する例は、
世界的にも極めて貴重ということから
世界遺産に認められたようです。

 銀山の歴史
1309(鎌倉) 大内氏により始めて発見される
16世紀初頭(室町) 
博多商人の神屋氏により本格的な開発。
1533 朝鮮半島との交易を通じて
    製錬技術の「灰吹法」が導入され、
    銀産出量が飛躍的に伸びた、
    この時期、再び大内氏が支配
戦国時代に入り、支配が尼子氏、毛利氏、に移り、
本能寺の変の後、毛利氏と豊臣氏が共同管理する。
1600(安土桃山) 関ヶ原の戦いの後、徳川氏が領有
17世紀初頭 銀産出量は減少し続け、
         銀山は代官統治に格下げとなる
17世紀前半 大半が休山
1869(明治2) 維新政府の管轄
1943(昭和18) 台風の被害を機に休業、閉鎖

色々な歴史を刻んで、
昭和の初めまで採掘されてたんですね。

当時は輸出もされていたようです。
アジアにいち早く進出したポルトガルの地図にも、
石見銀山が記されていたそうです。

駐車場に車を止めて、
循環バスを利用した銀山だけの見学でしたが、
古い町並みや、資料館、
崖に建てられた羅漢寺に安置されている五百羅漢など、
見所いっぱい!
今度は、歩いて、ゆっくり散策したい。

   


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金子みすヾ記念館

2007-10-25 | 美術館・博物館

念願かなって、金子みすヾ記念館に行ってきた。

 


記念館の入口は狭そうだけど、奥行きは広い。

金子みすヾは1903年(明治36年)、
今の山口県長門市仙崎で生まれる。
3歳で父親を亡くし、働き手の亡くなった金子家は、
母の妹の嫁ぎ先の上山文英堂(書店)の後押しで、
金子文英堂を始めた。
生家跡に記念館としてその書店が再現されている。

1926年(大正15年)、23歳の時、
上山文英堂の店員と結婚。
夫から梅毒をうつされ、発病。
夫から創作と手紙を書くことを禁じられる。
1929年(昭和5年)離婚。
その当時、親権が父親にあり、娘を渡せと、
三月十日に連れに行くと言う手紙を受け取り、
三月九日に一人で写真を撮りに行き、
その写真の受取書と三通の遺書とを残して、
26歳の短い生涯を自ら閉じた。
遺書には、
「ふさえ(みずヾの娘)を心豊かに育てたい。
だから、母ミチにあずけてほしい」とあり。
娘のふさえさんは、
みすヾが命をかけて願ったように、
母ミチの養女となり、心豊かに育てられたと。

童謡詩人、矢崎節夫氏の努力により、
みすヾの弟の手元にあった
手書きの三冊の童謡集が見つかり、
みすヾの詩は甦った。


二階のみすヾの部屋の復元

 星とたんぽぽ                 私と小鳥と鈴と

青いお空の底ふかく、      私が両手をひろげても、
海の小石のそのやうに、    お空はちつとも飛べないが、
夜がくるまで沈んでる、      飛べる小鳥は私のやうに、
晝のお星は眼にみえぬ。    地面を速くは走れない。
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ。  私がからだをゆすつても、
                    きれいな音は出ないけど、
散つてすがれたたんぽぽの、 あの鳴る鈴は私のやうに、
瓦のすきに、だァまつて、     たくさんな唄は知らないよ。
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。  鈴と、小鳥と、それから私、
見えぬけれどもあるんだよ、  みんなちがつて、みんないい。
見えぬものでもあるんだよ。

みすヾの詩は、
見えるものと見えないもの、
生と死、昼と夜、光と影のように、
二つで一つという大切なまなざしがいつもある。
自分中心、こちら側中心ではなく、
相手側、むこう側から見ることの
やさしさに気づかせてくれると。

看護の精神にも通ずるな~
「相手の立場に立ってケアする。」

みすヾワールドにどっぷり浸かれた一日でした。








 

 書籍
  

                                                  2枚組みの朗読CD

この二つを買いました。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする