枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

神無月・八せん始め

2015年12月02日 | Weblog

 八せんとは、旧暦の神無月、壬子の日から癸亥の日までの十二日間の内、壬子、甲寅、乙卯、丁己、己未、庚申、辛酉、癸亥の八日のことで、一年に六回ある。この日は法事、供養などの仏事、破壊的な物事の着手や、嫁取りなどには凶日とされる。

 暦の通りにはいかないこともあるが、家屋の建て替えや、取り壊し等には気をつけたい。古来、日本にはそういった慣習があり、特に大工の棟梁などには、慎重の上にも源を担いでいたものだ。祖母など、三隣亡には山には入らず、家内作業であった。

 人間の身勝手を自然から諌められ、納得して共存してきたものを、土日に集中して、作業をしたり、娯楽の祭典を催す。事故が起きれば、収拾がつかなくなるのも、当たり前と言えば、そういった背景がある。今は殊更、無茶苦茶な計画が多くある。

 旧暦での暮らしをし始めて、心に落ちてくるものがある。言葉でもなく、形のあるものではないが、すっきり溶け合う。早く、速くと急かさないで、あるがままの自分で過すことも大切。人間以外のたくさんの命を戴くことは、感謝と祈りが存在しているんだ。

 枇杷葉の花芽の下に居ると、実に不可思議な体験をする。類似体験とも言う、一種異様なことを感じる。でも、実際に起きてみると、やはりそうなのかとも想える。何故なのかが解からないからこそ、無限に広がる宇宙を観られる。これからの季節には。

 自分のような力は、誰でもが持っており、知っているか、使ってみるかで違うだけだ。魔法ではないから、自由にはならないし、修行を積んでも、然したる差はない。ご先祖さまに感謝し、生まれた意味を考え、人生の指針にできれば、旧極の幸である。

 枇杷葉と出遭えたことは、画期的なことと感じている。それも、淡路島まで枇杷狩りに行けたのも、何とも不思議でならない。古事記や日本書紀では、神が最初に創った島とある。書籍の中でも、そういった記述には酷く惹かれる。日本人でよかった。

 春の名残の、朧月夜。源氏物語の、朧月夜を思い、月のかぐやや、嫦娥姫を連想する。覚も美しき天女も。


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