枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

視えていること・・・

2015年12月01日 | Weblog

 う~ん。何と言うのだろうか?見えるっていうのをね。然し、今朝の某新聞にある句を見つけ、思わず頷く。枝ごとに弥陀仏御座し枇杷の花。日ざし来て仏偲べと枇杷の花。作者は永井東門居とある。昨日のは、枇杷の花立ち寄り難き家ながら。渡辺純枝。

 この季節になると、枇杷の花のことを詠った句を載せてくれる選者に、敬意を表する。暫し、というか時を忘れてさえ、佇んでいたい想いが募る。そういった感慨を超えて尚、信じ難いものが視えることもある。強ち幻でもないのだ。自然からの最大の恩恵。

 住居は、団地の一角だが、枇杷葉を植えてから、と言うよりは、淡路島に行ってから、我が家の様子が変化した。言葉にはできないことでもあり、説明は困難だが、確かに違うのだ。枇杷葉を植えたのは、此処に越して来て直ぐである。早10年以上前だ。

 全く以って、植えたことすら忘れていた。花芽がついたのさえ、気づかなかった。それは詰り、心が慌ただしくて、辺りのことや、当たり前のことへの感謝の念を忘れていたからだ。母が逝き父が亡くなって、やっと分ったことでもある。遅きに失しであること。

 草木を愛でる、命をいとおしむ心になれなければ、気づかないことでもあろう。自分だけの命ではなく、たくさんの生命体の共存で、この世は成立っている。感謝の想いに、祖先を敬い偲ぶことをしなくて、今の自分は有り得ない。そういうことにやっと気づく。

 そうすることに依って、現実には見えないものが、感じられるのだ。心が感知するのだろうか?然し幻でもないようにも。困った時には、文殊さまが知恵を授けてくれ、怒りに化す時には、仁王さまがお聴きくださる。見えない物を視させてくれるのもお蔭様。

 人生の愉しみ方は、実に様々なやり方があるが、自分の閃きや感性だけは、失いたくない。志麻半島殺人事件を読み終える。人を殺すのはいけないが、この作品を読んでいて、物哀しさを覚えてしまった。でも、だからといって殺していいことでもないが。

 春も遅くなってくると、初夏への移り変わりに転じてしまう。涼しげで買ったが、幾らでもランナーで増える。


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