枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

恵むという気持ち・・・

2008年12月24日 | Weblog
 ディケンズの『クリスマス・キャロル』、『若草物語』の登場人物達の行いは、信心の無い者には、理解できないことでもある。恵む、施すと言うのは、一体何処から生じてくるのだろう?

 サンタクロースに、プレゼントがもらえるから、クリスマスがあるのではないと思うよ。聖母マリアが受胎告知されて、神の子イエスを生みたもうた聖夜。

 イエスは、様々な迫害にめげず教えを広めて、最後には弟子の裏切りで十字架にかかる。けれども何故か、シナリオが出来すぎている感もある。イエスは殺されることを知りながら、生まれてきたのか?

 死ぬということが怖くはなかったのかしら?それとも自分は死して尚、人間の心に甦ってこれることがわかっていたのだろうか?疑問は膨らむ一方ですな。

 人が人を裁くことなどできないように、人間が神の子を殺せたのだろうか?まるで手品、マジックのようです。

 光瀬龍の作品には、イエスや、シッダッター(出家前のお釈迦さま)、ユダやプラトンが出てきて、神とは何ぞや?という問いを繰り返す。

 阿修羅が最後に呟く。我々は何処から来て、何処に往くのだろう・・・。神は宇宙であり、宇宙即ち、神である。人間とは、神が何のために、この世に使わせたもうたのか。

 阿修羅王の顔が正に三面六臂に変わっていく件も印象深い。『百億の夜と、千億の昼と』これは、コミックでもあって、萩尾望都の描く阿修羅王が憂いを讃えていて、胸が疼く。奈良の興福寺には、何度足を運んだろうか?

 興福寺は、藤原不比等の妻。橘の三千代の建てた寺ですが、ここで御薪能が催される、南大門、猿沢の池、五重の塔など、冬景色がいいのです。(脱線してますな)

 入江泰吉の写真集で見て、わざわざ冬に出かけましたね。雪が降ったまではよかったのですが、新幹線が大幅に遅れて難儀をしました。

 で、イエスの話です。聖書の中に、いざりの人にイエスが触れ、起て!と一言。見守る大勢の前で、いざりは起って歩いた。とあります。

 詳しいことは書かれていませんが、イエスの行いには、1本の杖があったとされています。これが枇杷の木を使って作ったものではないかしら?と教会の方にお尋ねしたことがあります。

 また何かの葉を肌に付けたり、水で浸したりした、ともあります。イエスが神の子であったが故に、治したことには違いがないのですが、あの辺りにも、枇杷の原種のような果物の生る木が、あったことは確かです。

 普通の人間にはできないことも、未知能力を秘めていたり、誰かのために使うのは許されているとしたら、可能なのではないのでしょうか?と思ってしまいます。

 今年の、12月現在の白枇杷です。中心が膨らんでいるようなのですが、花芽ではないようです。同じ所に、赤枇杷もありますが、朝日が当たったら、影ってしまいます。

 昨年は1枝の花芽と1個の実でした。静岡のように、温暖な環境ではないので、じっと耐えている白枇杷に、頭が下がります。

 その白枇杷に、実が生ってくれるよう願っているのは酷なことでしょうかね。
 

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