悠山人の新古今

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【資料】万葉木簡新発見Y1

2008-05-23 21:05:00 | literature

滋賀・紫香楽宮跡/木簡に万葉歌 編纂前に墨書か/
「難波津の歌」裏返すと「安積山の歌」

 奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)(742~745年)があった滋賀県甲賀市の宮町遺跡で出土した木簡に、万葉集に収められた和歌が記されていることがわかり、22日、市教委が発表した。万葉歌が書かれた木簡が見つかったのは初めて。平安時代の古今和歌集の仮名序で、紀貫之が「歌の父母(ちちはは)」と記した「安積香山(あさかやま)の歌」の一部で、片面には対となる「難波津(なにわづ)の歌」が記されていた。万葉集が編纂(へんさん)されたのとほぼ同時期にあたり、日本最古の歌集の成立を考えるうえで極めて重要な発見となる。

木簡のデジタル赤外線写真。万葉集に収録された「安積山の歌」の一部(左)、裏面(右)に「難波津の歌」の一部が書かれていた=滋賀県甲賀市教委提供[引用者注]

 万葉集巻16に収められた「安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」のうち、1字で1音を表す万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)」と「流夜真(るやま)」の7文字が墨書されているのが判読できた。歌の大意は「(福島県の)安積山の影まで映す山の泉ほど、私の心は浅くありません」。陸奥国に派遣された葛城(かつらぎ)王が国司の接待が悪くて立腹、かつて采女だった女性が詠んで、王が機嫌を直したという注がある。
 木簡は長さ7・9センチと14センチの二つに割れており、いずれも幅2・2センチ、厚さ1ミリ。本来の長さは約60センチと推定でき、儀式や宴会で詠み上げるのに使った「歌木簡」とみられる。宮殿中枢部の西約220~230メートルの大溝から1997年度の調査で出土。744年末~745年初めに廃棄されたらしい。昨年12月から栄原 永遠男(さかえはら とわお)・大阪市立大教授(古代史)らが「難波津の歌」が書かれた木簡を再調査し、その裏側で確認した。
 万葉集は745年以降の数年間に15巻と付録が成立し、巻16は付録を増補して独立させたとする説が有力。今回の木簡は、万葉集完成前に書かれた可能性が強く、市教委は「この歌が当時広く流布しており、収録したのだろう」としている。
 「難波津の歌」は「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」で、仁徳天皇の即位を祝った歌とされる。万葉集には収録されていないが、木簡や土器に書かれた三十数例が出土している。古今集仮名序は二つの歌を最初に習う歌と紹介、今回の発見で、2首を1対とする伝統が、仮名序を160年さかのぼる奈良時代から続いていたことが明らかになった。
 中西進・奈良県立万葉文化館館長(国文学)の話「万葉集編集の材料として、木簡も使われていた可能性がわかった。転写を重ねてできた平安時代以降の写本での仮名遣いが、木簡の文字との比較で正確だったことが明らかになった意義も大きい。万葉集研究のうえで重要な史料だ」

万葉集
 7~8世紀に編纂された現存するわが国最古の歌集。全20巻で、天皇や庶民ら幅広い階層の約4500首を収める。恋や自然などを素朴に表現した作風が特徴。原本は残っておらず、平安時代以降の写本や注釈本が伝わる。

国文学と連携 謎に迫る
 安積山(あさかやま)の歌木簡の出土は、聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)が万葉集を生み出した舞台だったことを示した。
 続日本紀に掲載された和歌・歌謡7首のうち、4首は742~743年(天平14~15年)に同宮での宴で詠まれた。天皇をたたえる内容も含まれている。近くからは「歌一首」と墨書した土器も出土。歌木簡と併せ、和歌が盛んな都の様相が明らかになった。
 村田正博・大阪市立大教授(国文学)は「様々な場で歌の蓄積があり、万葉集が形成された。歌の伝承と記載という点でも示唆するところが大きい」と話す。
 同宮は、聖武天皇が内憂を避け、新政治を進めるために造営したとされる。和歌の隆盛は同宮の成熟度と華麗さを物語るが、政治状況を考えると世相を明るくし、不安を払拭(ふっしょく)する演出があったとの見方もできそうだ。
 難波津の歌は1948年に法隆寺五重塔で落書きが見つかって注目され、三十数例が分かっている。今回の発見を機に、安積山の歌に限らず、万葉歌に関する新資料が出てくる可能性は十分ある。毛利正守・武庫川女子大教授(国語学)は「出土遺物を国文学の立場で、もう一度“洗い直す”作業も必要だ」と期待する。
 考古学と国文学が連携して、万葉集成立の謎に迫った意義は大きい。この学際的な取り組みを全国へ広げるとともに、奈良時代史の研究で重要な紫香楽宮跡の調査、研究を発展させてほしい。
 (編集委員 柳林修)

(2008年05月23日  読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is80523b.htm


【資料】万葉木簡新発見A1

2008-05-23 21:04:00 | literature
万葉集成立前?に万葉集収録の歌を書いた木簡が出土
2008年05月22日

 滋賀県甲賀市教委は22日、奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる同市信楽町の宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、国内最古の歌集の万葉集の歌が書かれた木簡が見つかったと発表した。万葉集収録の歌が木簡で確認されたのは初めて。出土した他の木簡に記載された年号から、この歌が収められた万葉集16巻の成立(750年前後)より数年から十数年前に墨で書かれたとみられる。

万葉集の歌などが記された木簡=滋賀県甲賀市、諫山卓弥撮影[引用者注]

 木簡は上下二つに分かれて出土し、上部は長さ7.9センチ、下部は14センチ、いずれも幅2.2センチ、厚さ1ミリ。上部の片側には漢字1字で1音を表記する万葉仮名で「阿佐可夜(あさかや)」、下部には「流夜真(るやま)」と書かれている。万葉集16巻には、陸奥国に派遣された葛城王をもてなした前(さき)の采女(うねめ)(元の女官)が、王の心を解きほぐすため宴席で詠んだ「安積香山(あさかやま)影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」が収録されている。  反対側の面にも「奈迩波ツ尓(なにはつに)」「夜己能波(やこのは)」「由己(ゆご)」とあり、10世紀初めの平安時代に編さんされた古今和歌集収録の「難波津(なにはつ)に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の一部とみられる。「難波津」の歌が書かれた木簡は奈良県の平城宮跡などで見つかっている。
 この2首の歌について紀貫之は古今和歌集の仮名序(905年)で「歌の父母のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける」と、初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。2首を手本とする考え方はその150年前から存在していたといえそうだ。 木簡の元の長さは文字の大きさから約60センチと推定。宮廷の儀式や歌会などで用いられた可能性が高いとみている。  市教委は25日午後1時から同市内の信楽中央公民館で報告会を開き、木簡を展示する。定員150人(先着順)。26~30日にも同市内の宮町多目的集会施設で展示する。いずれも無料。
◇  「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに」(安積香山の影までも見える澄んだ山の井のような浅い心では私は思っていないのです)=小学館の「日本古典文学全集」などから
◇  「難波津(なにはつ)に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」(難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たと、梅の花が咲いています)=小学館の「新編日本古典文学全集」などから
◇  〈上野誠・奈良大教授(万葉文化論)の話〉 万葉集の原本は見つかっておらず、これまでの研究はいわば写本の比較にとどまっていた。今回の発見は、人々の間に広まっていた歌が書き記され、歌集になるという万葉集の一連の成立過程を明らかにする上で極めて重要な発見だ。

[引用者注:図1~図3は別掲]
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK200805220108.html

【資料】万葉木簡新発見M3

2008-05-23 21:03:00 | literature

ひと:栄原永遠男さん=木簡に書かれた万葉歌を初めて見つけた
◇栄原永遠男(さかえはら・とわお)さん(61)

 「ビビッと電撃が走りました」。昨年12月、紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(滋賀県甲賀市)の作業所で、10年前に出土した木簡を裏返した。「阿佐可夜」の文字。万葉集にある安積山(あさかやま)の歌ではないか。「えらいこっちゃ」。いつも冷静に理路整然と語る歴史学者の声が上ずった。
 予想外の大発見につながるひらめきは昨年3月にあった。難波宮(なにわのみや)跡(大阪市)で出土した木簡に万葉仮名で書かれた「春草(はるくさ)の……」という言葉に続けて短歌を創作する「なにわの宮新作万葉歌」(大阪市、毎日新聞社など主催)の授賞式の会場で、受賞作を墨書した現代の木簡を見たときだ。
 木簡の断片に万葉仮名で書き残されている歌の一部は習字や落書きとされてきたが、本来、歌の全文を記すための木簡だったのではないか。各地を訪ねて自分の目で断片の形や文字の配置を調べ、2尺(約60・6センチ)以上の長い木簡に復元できることを突き止めた。
 05年から木簡学会の会長。初代会長で京都大教授だった恩師、故岸俊男さんの「木簡は文字だけでなく、形状・材質など物に即した精密な考察が不可欠」という言葉をかみしめる。
 今までに歌木簡とわかったのは14点。「どのような機能を持ち、どのように使われたのか」。手堅い実証に斬新な発想を加え、謎解きに挑む。<文・佐々木泰造/写真・森園道子>
■人物略歴
 大阪育ち。大阪市立大教授。専攻は日本古代史。著書に「奈良時代流通経済史の研究」など。

毎日新聞 2008年5月23日 東京朝刊
http://mainichi.jp/select/opinion/hito/news/20080523ddm003070096000c.html


【資料】万葉木簡新発見M2

2008-05-23 21:02:00 | literature

クローズアップ2008:「安積山の歌」墨書の木簡確認/
万葉仮名、ルーツ古く

 万葉集に訓読みの漢字「訓字」で収録された「安積山(あさかやま)の歌」が、万葉集編さん前に書かれたとみられる紫香楽宮(しがらきのみや)の木簡には「万葉仮名」で書かれていた。別面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれ、この2首を「歌の父母(手本)」とする伝統が、古今和歌集が編さんされた10世紀初頭ではなく、8世紀中ごろにはあったことも確認された。「和歌の読みをどう記述したか」「和歌をどう学んだのか」のヒントになると、国語学、国文学の研究者に衝撃が広がっている。初めて見つかった万葉歌木簡は、古代の歌の世界をどのように塗り替えるのだろうか。【大森顕浩】
 古代の日本人が、日本語の発音通りに伝えなければならない和歌を漢字でどのように記録し始めたかは、万葉集に収められた古い歌の表記をもとに議論されてきた。
 初めは訓字のみで漢詩のように書き、後に万葉歌人、柿本人麻呂が「てにをは」などの助詞、助動詞を1字1音の万葉仮名で訓字に書き添える方法を体系化。その後、和歌を万葉仮名のみで書き記すようになった--との説が有力だった。
 これに大きな疑問を投げかけたのは、7世紀後半に難波津の歌を書いた観音寺遺跡(徳島市)の木簡や、7世紀半ばに「はるくさ」で始まる歌(全文は不明)を書いた難波宮跡(大阪市)の木簡だった。いずれも万葉仮名で書かれ、人麻呂より前から万葉仮名で歌が書かれていたことがわかった。
 訓字で書かれた万葉集と同じ「安積山の歌」を、編さん前に万葉仮名で書いていた今回の木簡は、歌の筆記が訓字から万葉仮名に移っていったことを否定するものになる。このため、人麻呂が万葉仮名を体系化したなどとする有力説を退けることになった。
 毛利正守・武庫川女子大教授(古代国語学)は「歌は最初から、日常的には万葉仮名で書かれてきたことを裏付けた」と興奮を隠せない。「万葉集の巻16のころまで、木簡では読みやすい万葉仮名、歌集では中国の漢詩集にならって視覚的に意味がわかる訓字と、歌の表記法が使い分けられていたことを示している」と指摘する。

 ◇「歌の父母」2首---「古今集」前から流布?
 平安時代に編さんされた古今和歌集では、選者の一人・紀貫之が905年に書いたとされる序文の中で、木簡の2首を「歌の父母」と明記。歌の手本として、源氏物語や大和物語、枕草子といった平安時代の王朝文学にも取り入れられたが、「父母というのは、貫之の創作だった」として、2首を手本としたのは貫之以降とする学者もいた。
 それだけに、奈良時代の万葉集が編さんされる前から二つの歌がセットになっていたことについて、専門家はさまざまな想像を巡らせる。
 歌人の河野裕子さんは「二つの歌は、和歌にとっての『いろは』だったのでしょう。万葉集の編さん前に一般に流布し、字が書けない人でも口ずさんでいたのでは」と、当時の情景に思いをはせる。内容については、「安積山の歌は『アサカヤマ』とアの母音で始まり、明るく響くので覚えやすく、気持ちも入りやすい。最後は『ナクニ』とイの母音で締める。リズムがいい」と話す。
 難波津の歌はこれまで木簡などで30例以上確認されているが、万葉集にはない。
 犬飼隆・愛知県立大教授(国語学)は「難波津の歌は、オリンピックの国歌斉唱のように公式行事でお祝いをする歌。安積山の歌は、女性が自分の気持ちを伝えるための言葉遣いを勉強する歌。文学作品として面白いので万葉集に入ったのだろう」と分析する。
 安積山の歌には、万葉集を編さんしたとされる大伴家持(やかもち)の上司で、自身も編さんにかかわったとされる橘諸兄(たちばなのもろえ)の旧名でもある葛城王(かづらきのおおきみ)が陸奥国に赴いた時の歌との伝承がある。坂本信幸・奈良女子大教授(万葉学)はこの点を重視し、「2首がペアになったのは家持たちの政治的意図が働いたのではないか」と推測する。

■ことば ◇万葉集
 奈良時代編さんの日本最古の歌集。全20巻に約4500首あり、主に飛鳥時代から奈良時代にかけての歌を収録。歌人としては柿本人麻呂、山上憶良、大伴家持、額田王などが知られる。天皇や皇后などの皇族のほか、東北や関東などの民謡「東歌(あずまうた)」や、九州沿岸の防衛に徴集された防人(さきもり)の歌なども収録し、作者層が幅広いのが特徴。

毎日新聞 2008年5月23日 東京朝刊
http://mainichi.jp/enta/art/news/20080523ddm003040091000c.html


【資料】万葉木簡新発見M1

2008-05-23 21:01:00 | literature

万葉歌木簡:滋賀・宮町遺跡で発見
編さん前の8世紀半ば、仮名で表記

 奈良時代に聖武天皇が造営した紫香楽宮(しがらきのみや)の跡とされる宮町遺跡(滋賀県甲賀市信楽町)で出土した木簡(8世紀中ごろ)に、日本最古の歌集である万葉集に収録された「安積山(あさかやま)の歌」が書かれていたと22日、市教委が発表した。万葉歌が書かれた木簡が見つかったのは初めて。万葉集とは表記が全く異なっていた。もう一つの面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれており、この2首を歌の手本とする伝統が、平安時代に編さんされた古今和歌集の時代から万葉集の時代まで約150年さかのぼって確かめられた。日本文学の成立史に見直しを迫る画期的な実物史料となる。(3面にクローズアップと栄原永遠男さんの「ひと」)
 「歌木簡」は97年、宮殿の排水路と推定される溝から出土した。長さ7・9センチと14センチの2片に分かれ、幅は最大2・2センチ。万葉集になく、木簡などで残る難波津の歌の一部が書かれていることはわかっていたが、厚さが約1ミリしかなく、木簡の表面を削ったくずと考えられていた。栄原永遠男(さかえはらとわお)・大阪市立大教授が昨年12月に裏側を調べ直して見つかった。
 両面とも日本語の1音を漢字1字で表す万葉仮名で墨書され安積山の歌は「阿佐可夜(あさかや)」「流夜真(るやま)」の7字、難波津の歌は「奈迩波ツ尓(なにはつに)」などの13字が奈良文化財研究所の赤外線撮影で確認された。文字の配列などから元の全長は2尺(約60・6センチ)と推定される。字体などが異なり別人が書いたとの見方が強い。
 安積山の歌を収めた万葉集の巻16は、約400年後の写本でしか残っておらず、木簡は初めての同時代資料。一緒に出土した荷札の年号から、744年末~745年初めに捨てられたことがわかり745年以降の数年とされる巻16の編さん前に書かれたとみられる。
 万葉集では木簡の万葉仮名ではなく、訓読みの漢字(訓字)がほとんどの表記になっており、日本語表記の歴史や万葉集の編さん過程を知る重要な資料になる。2首は、古今和歌集の仮名序(905年)に「歌の父母のように初めに習う」と記され、源氏物語などにも取り入れられている。筆者の紀貫之の創作の可能性もあったが、古くからの伝統を踏まえていたことがわかった。【近藤希実、大森顕浩】
 <難波津の歌>
 難波津に咲くや木(こ)の花冬こもり今は春べと咲くや木の花
 (訳)難波津に梅の花が咲いています。今こそ春が来たとて梅の花が咲いています
 <安積山の歌>
 安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに(安積香山 影副所見 山井之 浅心乎 吾念莫国)
 (訳)安積山の影までも見える澄んだ山の井のように浅い心でわたしは思っておりませぬ
 (「新編日本古典文学全集」小学館より。「安積香山」で始まる表記は、万葉集の原文)
■ことば ◇紫香楽宮

 奈良時代半ばの742年、聖武天皇が造営を始め、745年に難波宮(なにわのみや)から遷都したが、地震や山火事が相次ぎ、5カ月で平城京に都が移った。公式儀礼を行う中枢建物「朝堂」の跡が宮町遺跡で01年に確認されたが、全容は不明。

毎日新聞 2008年5月23日 東京朝刊
http://mainichi.jp/enta/art/news/20080523ddm001040002000c.html


短歌写真592 思ひ切り

2008-05-23 03:30:00 | 短歌写真
2008-0523-yts592
思ひ切り水面にはえて西せるは
ほどなく消ゆる春の夕日か   悠山人

○短歌写真、詠む。
○春から初夏の西日は、午後になってもまだ高く、暑い。
¶西(にし)せる=見出し字「西」の第四義に、「<動>にしする(ニシス)。」(学研版『漢字源』) 「東(ひがし)す」は既出。
□短写592 おもひきり みなもにはえて にしせるは
        ほどなくきゆる はるのゆふひか
【写真】芸術公園で、先日。
【memo】万葉木簡の実物が発見された、とのけさの新聞報道(朝日・読売で確認)。後日、資料として掲載予定。

俳句写真294 まだまだと

2008-05-23 03:25:00 | 俳句写真
2008-0523-yhs294
まだまだと
二度芋の花
円くなり  悠山人

○俳句写真、詠む。
○二度芋(にどいも)。ジャガ芋。馬鈴薯。菜園に毎年、少しばかり植えるのは、男爵種である。この花、今まで気付かなかったが、上から見ると外側に向いて、円形に咲いている!
¶二度芋(にどいも)=「(年に二回とれるからいう)ジャガイモの異称。」(『広辞苑』。なお<ジャガイモ>は、見出し語では<ジャガ芋>表記。)
□俳写294 まだまだと にどいものはな まるくなり
【写真】先日、自宅で。
* Brahms - Variations On a Theme by Joseph Haydn Opus 56a (O | 87.117.200.139:80*[Play Classical UK]