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【資料】万葉木簡新発見M2

2008-05-23 21:02:00 | literature

クローズアップ2008:「安積山の歌」墨書の木簡確認/
万葉仮名、ルーツ古く

 万葉集に訓読みの漢字「訓字」で収録された「安積山(あさかやま)の歌」が、万葉集編さん前に書かれたとみられる紫香楽宮(しがらきのみや)の木簡には「万葉仮名」で書かれていた。別面には「難波津(なにわづ)の歌」が書かれ、この2首を「歌の父母(手本)」とする伝統が、古今和歌集が編さんされた10世紀初頭ではなく、8世紀中ごろにはあったことも確認された。「和歌の読みをどう記述したか」「和歌をどう学んだのか」のヒントになると、国語学、国文学の研究者に衝撃が広がっている。初めて見つかった万葉歌木簡は、古代の歌の世界をどのように塗り替えるのだろうか。【大森顕浩】
 古代の日本人が、日本語の発音通りに伝えなければならない和歌を漢字でどのように記録し始めたかは、万葉集に収められた古い歌の表記をもとに議論されてきた。
 初めは訓字のみで漢詩のように書き、後に万葉歌人、柿本人麻呂が「てにをは」などの助詞、助動詞を1字1音の万葉仮名で訓字に書き添える方法を体系化。その後、和歌を万葉仮名のみで書き記すようになった--との説が有力だった。
 これに大きな疑問を投げかけたのは、7世紀後半に難波津の歌を書いた観音寺遺跡(徳島市)の木簡や、7世紀半ばに「はるくさ」で始まる歌(全文は不明)を書いた難波宮跡(大阪市)の木簡だった。いずれも万葉仮名で書かれ、人麻呂より前から万葉仮名で歌が書かれていたことがわかった。
 訓字で書かれた万葉集と同じ「安積山の歌」を、編さん前に万葉仮名で書いていた今回の木簡は、歌の筆記が訓字から万葉仮名に移っていったことを否定するものになる。このため、人麻呂が万葉仮名を体系化したなどとする有力説を退けることになった。
 毛利正守・武庫川女子大教授(古代国語学)は「歌は最初から、日常的には万葉仮名で書かれてきたことを裏付けた」と興奮を隠せない。「万葉集の巻16のころまで、木簡では読みやすい万葉仮名、歌集では中国の漢詩集にならって視覚的に意味がわかる訓字と、歌の表記法が使い分けられていたことを示している」と指摘する。

 ◇「歌の父母」2首---「古今集」前から流布?
 平安時代に編さんされた古今和歌集では、選者の一人・紀貫之が905年に書いたとされる序文の中で、木簡の2首を「歌の父母」と明記。歌の手本として、源氏物語や大和物語、枕草子といった平安時代の王朝文学にも取り入れられたが、「父母というのは、貫之の創作だった」として、2首を手本としたのは貫之以降とする学者もいた。
 それだけに、奈良時代の万葉集が編さんされる前から二つの歌がセットになっていたことについて、専門家はさまざまな想像を巡らせる。
 歌人の河野裕子さんは「二つの歌は、和歌にとっての『いろは』だったのでしょう。万葉集の編さん前に一般に流布し、字が書けない人でも口ずさんでいたのでは」と、当時の情景に思いをはせる。内容については、「安積山の歌は『アサカヤマ』とアの母音で始まり、明るく響くので覚えやすく、気持ちも入りやすい。最後は『ナクニ』とイの母音で締める。リズムがいい」と話す。
 難波津の歌はこれまで木簡などで30例以上確認されているが、万葉集にはない。
 犬飼隆・愛知県立大教授(国語学)は「難波津の歌は、オリンピックの国歌斉唱のように公式行事でお祝いをする歌。安積山の歌は、女性が自分の気持ちを伝えるための言葉遣いを勉強する歌。文学作品として面白いので万葉集に入ったのだろう」と分析する。
 安積山の歌には、万葉集を編さんしたとされる大伴家持(やかもち)の上司で、自身も編さんにかかわったとされる橘諸兄(たちばなのもろえ)の旧名でもある葛城王(かづらきのおおきみ)が陸奥国に赴いた時の歌との伝承がある。坂本信幸・奈良女子大教授(万葉学)はこの点を重視し、「2首がペアになったのは家持たちの政治的意図が働いたのではないか」と推測する。

■ことば ◇万葉集
 奈良時代編さんの日本最古の歌集。全20巻に約4500首あり、主に飛鳥時代から奈良時代にかけての歌を収録。歌人としては柿本人麻呂、山上憶良、大伴家持、額田王などが知られる。天皇や皇后などの皇族のほか、東北や関東などの民謡「東歌(あずまうた)」や、九州沿岸の防衛に徴集された防人(さきもり)の歌なども収録し、作者層が幅広いのが特徴。

毎日新聞 2008年5月23日 東京朝刊
http://mainichi.jp/enta/art/news/20080523ddm003040091000c.html


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