ムヒカ元大統領のことは、何も知らないに等しかったのですが、気にはなっていました。
そうして先日、テレビ番組で、彼の日本人に対しての肉声を聞いて、私が思い出したのは、司馬遼太郎のことでした。
司馬さんは、井上ひさしさんとの対談で、こんな風に語っています。
<「ああ、室町時代に世阿弥という人がいたな」と思うだけで、ちゃんと町を歩けますよ。>と。
別に、世阿弥でなくとも、誰でもよろしいのです。
まぬけさんではダメですが、例えば司馬さんは、西鶴や近松門左衛門、広重、歌麿についても言及しています。
落語の世界の主人公は、その多くが、名もなき庶民であって、それは時にはあなたであり、私であったりもします。
ですから、(私を含め)寛容を持たない観衆ではダメなのでしょう。
つまり、退屈は退屈として、それをまるごと楽しめるようにならないと、ね。
少なくとも私は、私が接したお年寄や、同僚たちの誰も彼もが魅力的だからこそ、介護という商売がやめられません。
そうして、むろん、姥捨て山の現実は、いつの時代にも存在するのです。
そういえば、司馬遼太郎はこうも言いました。
「名こそ惜しけれ。関東の精神です」と。
いかなる人、地域にも、誇りがある、ってことですな。
そうして先日、テレビ番組で、彼の日本人に対しての肉声を聞いて、私が思い出したのは、司馬遼太郎のことでした。
司馬さんは、井上ひさしさんとの対談で、こんな風に語っています。
<「ああ、室町時代に世阿弥という人がいたな」と思うだけで、ちゃんと町を歩けますよ。>と。
別に、世阿弥でなくとも、誰でもよろしいのです。
まぬけさんではダメですが、例えば司馬さんは、西鶴や近松門左衛門、広重、歌麿についても言及しています。
落語の世界の主人公は、その多くが、名もなき庶民であって、それは時にはあなたであり、私であったりもします。
ですから、(私を含め)寛容を持たない観衆ではダメなのでしょう。
つまり、退屈は退屈として、それをまるごと楽しめるようにならないと、ね。
少なくとも私は、私が接したお年寄や、同僚たちの誰も彼もが魅力的だからこそ、介護という商売がやめられません。
そうして、むろん、姥捨て山の現実は、いつの時代にも存在するのです。
そういえば、司馬遼太郎はこうも言いました。
「名こそ惜しけれ。関東の精神です」と。
いかなる人、地域にも、誇りがある、ってことですな。
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