「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

三郎さんの昔話・・・はんこ(印鑑)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

はんこ(印鑑)

 昭和七、八年頃の田舎の町はまだ開けてなくて、道路は一間半の狭い土の道路、その道端に一抱えもある大きな杉丸太の電信柱が五十メートルぐらいおきに立って電線が張りめぐらされていて戸々の家に送電され、暗くなると、きんちゃくなすを少し大きくしたような透明の電球が灯って、電球の芯は横文字を書いたように赤い線が明るく、家中を照らしていた。
 道路の片側には電話線を張った小丸太(直径五、六寸)で、送電柱の半丈程の電信柱がやや近めに立っていた。当時の電工さんは、電気の方は会社の工夫さん、電話の工夫さんは郵政省のお役人で少し鼻が高く偉そうにしていた。
 その当時電話があったのは、町内では官公署、病院、大きい商売人の一、二軒で、遠方への急な連絡は郵便局に出向いて電話を掛けていた。
 電線や電話線の工事の時、工夫は電柱に上がるに、体をゆわえるロープ(親指の太さ)と、たくり上げのロープを肩に、腰にペンチやナイフの小物入れの袋付きのベルトをしめ、柱に突き刺さる金具を靴にくくり付けてコツコツと電信柱に上がると、足を決めて体をゆるく柱に束ねて、吊り上げのロープを下げて作業となる。
 さて電工さんが仕事をするに電線や碍子、ボルトなどの金具を吊り上げるに、下に手伝いの人夫がいる。
 青葉の繁った六月の下旬に電話線の工事があり、駐在員の工夫さん一人は町内にいたが、沖(高知)から応援が来て工事が始まった。
 その時に、下での手伝い人夫に雇われ、仕事に行って一週間程した時、「郵政の支払日は決まっているので、今まで働いた賃金を支払うので、今夜宿で書類を書いて判をついてお金を渡すけ、判を持ってこい」ということで、近い家に走って、前に父から貰っていた使い古しの少し欠けた小さな木判の認め(印鑑)を持って行って渡し、依頼した。
 夕方から梅雨上げの大降りで、しけ(台風)のようになった夜、日が暮れて遅い夕餉。二親に弟らと膳をならべて食べながら、賃金貰うが嬉しくて判こを渡したことを話した。
 とたんに親父の雷が落ちた。「判を自分で見て押さずに、人に渡す馬鹿があるか。判(印鑑)というものは実証の証拠じゃ、お金を借りる時とか、受取の金を確認してから押すもので、人任せで押させたら、何をせられてもわかるまい。これからすぐ行って取って来い。電信の役人に、こう言え。父が、判こは人に貸すものではない、書類を見た上で押しますと。」
 夕飯もそこそこに大雨の吹きぶるなか、破れ蓑笠で中古のぼろ自転車に乗り、カンテラに蝋燭つけて出掛けたが、横降る雨で明かり火はすぐ消えまっ暗闇。
 荒雨に叩かれて石ころの道路は吉野川に沿い、山のうねさこでくねり回って大杉の宿まで三里半。大杉の手前の高須の峠は難所、登り下りで一里余はあろう。
 自転車に乗ったり突いたりしながら二時間余りかかって、やっと大杉の三宮旅館にたどり着き、宿の女中さんに電工さんを呼んでもらった。
 二階から降りてきて、私の濡れぼっちゃの姿を見て、おくれた声で、「この大雨におまんどうしたがぞ」と言うので、泣きそうな声で父に言われた通り話すと、「それがたまるか、判は押して出すだけで、ごまかしたりはしやせんに、お父さんは堅い人じゃのう、済まざったと言うちょいて。気をつけて帰りよ」といたわりのような言葉に励まされて、雨に濡れ寒さに耐えて歯を食いしばり、暗闇に目を光らして道を見据えて、自転車に乗ったり歩いたり、苦闘のすえ夜中前にやっと家に帰りついた。
 判を取り帰ったことを話すと、父は「よう行ってきた、判の大切さを忘れるなよ。体を拭いて風邪ひかんよう早う寝え」と言ってくれた。
 この話は私が十七才で、今から六十余年も前の出来事である。当時父は、金の貸し借りや土地の登記に関連した仕事が多かったので、はんこ(印鑑)の大切さを痛感していた。若輩の私に印鑑の大切さを伝授してくれた。
 お役所の机の前に座っていると、朝から晩まで判(認め印)を押すことがほんとに多い日本の社会である。判こは手軽に扱うが、本来は大切なものである。
 あの時のうるさかった出来事は身に染みて、生涯忘れることはない。今も小さい欠けの木判を宝物として大切に持っている。この印鑑である。

三郎さんの昔話 目次

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ



最新の画像もっと見る

コメントを投稿