「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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三郎さんの昔話・・・嫁とり

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

嫁とり

 若いしが一人前の男になった。家の息子に嫁を貰おうと、密かに話を進めやっと決まった。
 「北また(屋号)の若いしゃ、嫁とりじゃと」噂は口伝えでたちまち近所隣からへと広がる。
 「酒屋のお嬢さんが、呉服屋富屋の若旦那へ嫁入りする婚礼じゃと」この噂も町内から他のまでパッと伝わった。
 当時(半世紀以前)は、大家の婚儀は「婚礼じゃ」と言い、貧乏人の婚儀は「嫁とりじゃ」「嫁入りじゃ」言うてもてはやされた。
 今の結婚式は大宴会場で盛大な挙式。花嫁さんは文金高島田に金ぴら衣装、お色直しはまるでファッション装の艶やかさ。まことにきらびやかで豪華さは見事。
 それに比べて、昔は今のように美装の花嫁さんなんて、めったに見ることはなかった。
 北風吹く初冬の短い日は西の山に入り、夕焼け空が少し薄らいだ夕方、酒屋のお嬢さんの婚礼じゃ、立派な花嫁衣装を見にゃあと、町内はじめ近郷から女子供がどっと押し掛けて、酒屋から富屋まで二丁たらずの道路は見物人でうずまった。
 まだ薄暗うもないのに、羽織・袴に扇子を前腹に差し、屋号の入った柄付きの丸提燈をかざして七、八人出て来た。門いでのほろ酔い機嫌で声を張り上げ「花嫁じゃー、花嫁じゃー」と。
その後へ続いて、高島田に白い角隠し、目も覚める奇麗な帯や金糸の裾模様の出で立ちの花嫁さん。介添えに付き添われて静々と出て来た。
観衆は初めて見る見事に着飾った花嫁さんに「こりゃ奇麗な、奇麗な」と、うめきと歓声、手拍子でどよめき、人垣は揺らいだ。花嫁の後へ続くはタンス長持ち鏡台その他、幾竿続くことやら、まるで大名行列の観。
 さて当時、貧しい一般家庭の嫁とりは大変な大行事。「男女七歳にして席を同じゅうするなかれ」の昔の言い伝えが続いていたのか、若い男女が今のように気軽に話や交際ができない時代。惚れて好きあう恋愛結婚なんて、たまにあっても百に一つの希れ話。
 「うちの息子も信用組合へ勤め、年も二十四になったけ、嫁とりをせにゃーいかんがねや」、「あの教頭先生くへ女中に来ちょる可愛いい娘を好きで、貰いたい言いよるが」、「そうか、そんなら詮議せにゃいかん」と早速に叔父二人が娘の在所へ調査に行って、帰った話では、「知り合いから近所隣でこっそり聞いたが、あそこはどうも血統が悪いけ、いかんぞ」ということで、さっぱりとあきらめさせられた。
 (詮議とは、貧富は別に先代にハンセン病や気違い、障害者の伝統でないか、それに父母や祖父母の評判などを調べた。)
 あの娘がいかんでやまったけ、くるわん内に早よう嫁もらわにゃいかんと、きようて(急いで)世話好きに頼むと、早速仲人を引き受けてくれて、系統も家柄も良うてえい娘が丁度おるということで、そちこちと何回となく足を運び、やっと見合いにこぎつけた。
 さて、見合いは娘方の叔父の家に決まり、当日は夕食も早めにすまし、春宵月の薄明かりを、仲人のおばさんと話しながらてくてく歩いて小一里足らずで当家に着く。
身づくろいして座敷に上がってびっくり。
 娘の父母、親戚、弟妹で大広間にずらりと並んでいる。嫁さんを見どころか、こちらがこじゃんと見られた。仲人と相手方で少しの世間話で、当人同士は話もせず、顔をちら、ちょろ見ただけで見合いは終わり。その後、話はすんなり決まった。
 吉日選んで結納となる。結納は仲人と叔父が名代で、つの樽酒にするめ、こんぶ、小鯛一対(二尾)米一升、結納金は時の給料一ヶ月分の三十円也。それらの金品を持参して納め固めができた。
 挙式は準備その他の都合で半年先の十一月になった。それからはなんとなくわくわくしていたたまれず、仕事を終えた夜、一週間か十日おきに顔を見に、弟妹への手土産さげて行くのが楽しみになった。行ってもお茶を持って出てくる元気そうな姿を見るだけで、ほっとして父母と少し話しては帰る。通いつめた半年は長かった。
 嫁とりの日がせまるにつれて、貧乏ぼろ家は畳替えやらふすま張り、障子の張り替えと気ぜわしいこと。
 その内に期日を迎えた。さあ大変、近所の女ごしや親戚が朝からどっと手伝いにやって来た。貧しい家には物がないので、近所隣から皿や皿鉢、会席その他、座布団に至るまで借り集め、買い出しやら寿司握り、煮物・あえもの・五目と色々な料理を作る。皿鉢の組み込みまでそれぞれ小器用な料理人が居て、朝からざわついたが夕方には宴の準備すべて整った。
 さて嫁迎えじゃ。仕事も早引きして、きようて帰り、羽織袴を初めて身に付けた。しゃんとしたが固苦しいこと。向こうへ出向く。仲人のおばさんと叔父とで四時頃出掛けて、嫁の家に着くと、新客で来る身内も揃い準備もできて待っていた。
座敷に上がると先ずお茶を受け、仲人の挨拶、「本日はお日がらも良うて、ほんとにお目出度うございます」と。身内の方々と頭を下げ合うてすむと、夫婦杯、親族の紹介を受け、祝いの謡い。それがすむと近所の人々も上がり込んで祝宴となった。
「嫁とりの婿は、一応用がすんだら座をぬけてさっと帰れ」と言われていたので、挨拶もせず抜け出て一人さっさと帰ってきた。
 「もう来るか」と待つ間は長い。十一月下旬冬の日暮れは早い。薄暗くなった六時半頃か、上の道路で誰かが「嫁さんが来たぞ、来たぞー」とおらぶ(叫ぶ)声がした。
 前後ろに提燈、身内に付き添われた嫁さん、やっと来着いた。隣の女の子が介添えで引き入れ役。まず介添えが嫁さんの手をとり家に上げる。
続いて父上と伯母さん(母は子供が小さいので名代)が上がり、こちらも父母と三人で仲人と立ち会い、屏風の内で三三九度の杯、妁は男子は弟、女子は引き込みの女の子で、親子の契り杯、謡い三つ謡い夫婦杯の形式がすむと、屏風も障子もはずして嫁見せで、皆に見てもらう。
 同行の新客が上がり着座し、双方縁者の紹介でぺこぺこ頭を下げあう挨拶がすむと、近所の人も次々に上がり祝宴となる。少し間をもって新客は嫁娘を一人残して帰る。
くつろいだお客は時がたつにつれ酒もまわり、歌や箸拳、話し声まで高くなり、祝宴は夜のふけるを忘れてわんさと賑わう。
 若かりし当時のことを思いうかべ、ほくほく笑みながら書いてみた。

 余談
 「縁は異なもの、味なもの」とか。別々に育った者同士が恋愛もせず、見合いでよう一緒になれたもの。財産も教育もない貧乏家の長男に、ようまあ来てくれたこと。
男前でも良かったろうか、それとも田舎じゃ少ない安月給取り(専売局雇員)で真面目なのを見込んで来たがじゃろうか?
 難しい親に仕え、子育てと苦労も多かったに、よう辛抱してくれた。家内が嫁に来てから泣き笑いで五十四年の歳月は夢のよう。
あれからずうっと女の家(嫁)に大事に養われて、八十才に近い年になったが、まだ生き延びている。ありがたいこと。

 

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